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先生の言うこと聞かなくなって、勉強が楽しくなった。成績が上がった。〜学校アンチの小学校教員の生成過程〜



 こんなノートをクラスの子ども、もしくは我が子がとっていたらどうしますか?叱りますか?











 僕は学校教育は変わらないといけないと思っています。そして、今思えばこの思いの原点は高校時代にあったように思います。

 実はさっきのノート、僕が高校生の時にとった公民のノートです。こういうノートを取るようになって、僕は勉強が楽しくなりました。成績もめちゃくちゃ上がりました(クラスで最下位を争っていたのに、クラスで上位に入るようになりました)。  

 そしてこの現象が起こった原因は、「こういうノートを取るようになったから」という矮小化されたものではなく、「自分で決めて、自由に勉強するようになったことによって、自らの学びを調節できるようになったから」だと考えています。

 ・・・自分でも何言っているのかよく分からないので、順を追って説明していきますね!じゃあ、まずは僕の小学校時代まで遡りましょう〜〜〜。レッツタイムトラベル!!




 小学生の時の僕は、自分で言うのも何ですがいかにも先生に好かれる児童でした。発表めっちゃするし、リーダー的役割も積極的にやるし、先生に反抗なんて絶対しないし・・・。先生に従順な、超いい子でした。勉強もそれなりにできました。

 中学生の時の僕は「無害な奴」でした。お年頃なのもあって、小学生の時みたいにバリバリ発表したりリーダーシップを発揮したりはありませんでしたが、ヤンキー校だったのもあり、相対的にいい子だったように思います。勉強は・・・頑張ってる割には成果が上がらないという感じでした。いわゆる、ガリ勉タイプでした。

 高校に入ってもその傾向を継続します。勉強に関しても、やはりガリ勉タイプで、先生の言うことをしっかり聞いて頑張っているのに成績はそこそこという状態が続いていました。

 そんなある日。本当に急に先生に反抗しようって思ったんです。本当に急でした。赤ちゃんが物心つく瞬間、そんなイメージです。

 反抗って言っても、目にみえる反抗なんてしませんし、そんな度胸もありません。勉強に関する先生のアドバイスを鵜呑みにせず、おかしいと思ったら無視する程度です。小さな決心です。

 まず僕が始めたのは「黒板にあるものをノートに綺麗に書きましょう」という小学生から刷り込まれた当たり前を疑うことからでした。「ノートにイラストを書きながら、授業を聞くことで眠くなくなるんじゃないか?」(そこ??)という仮説を立て、実行していきました。仮説通り、授業中眠くなることは少なくなり、なんだか授業が楽しくなってきました。

 このノートが見つかって、超叱られたのですが、僕は心の中で「自分なりに工夫していたのにな」って思っていました。今思えば、叱る先生の気持ちも理解できますが、それ以上にこう思います。

「誰よりも授業に主体的に参加していたのは僕だっただろうな」

って。先生の言うことを受動的にノートに写す=賞賛される行動という価値観のもと僕は叱られたのだと思いますが、今の僕に言わせてみれば授業の内容をしっかり理解するために自己調節してノートを書いていたわけです。こんな姿こそ、賞賛に値するのではないでしょうか??

・・・違うか笑


 そして僕の「小さな革命」はどんどん進んでいきます。

 ノートの次は、定期テストで高得点を取ることにこだわるのを辞めました。うちの学校の定期テストは教科書の問題がそのまま出題されるような形式だったのです。つまり、教科書の内容を暗記してしまえば満点が取れるわけです。

 でも、それじゃ本当の力がつかないと当時の僕は考えました。だから、僕は定期テストのテスト範囲を勉強するのではなく、受験を見据えた勉強をすることにしました。

 その結果、僕の定期テストの成績はクラス最下位〜最下位から3番目。毎回再テストになりました。でも、「これが今の自分の力なんだ」と確かめることができたので、自分の目的は達成し、満足でした。

 でも、当時の担任からは「再テストしなきゃいけないこっちの身にもなってよ😢」と言われました。

・・・今だからわかる当時の担任の大変さ・・・。それに関しては本当に申し訳ないことをしたなって思ってます・・・。


  さらに、内職を始めました。「この授業意味ないな」と思ったら、こっそり自分がしたい勉強をするようになりました(これは自分でもどうかと思う。先生へのリスペクトが欠けている)。


 こんな感じでどんどん自分なりに勉強法を考えて、調節していくようになりました。

 時には先生と言い合いになったりすることもありました。今思えば、先生が言っていることの中にも正しいことはたくさんあって、先生が言った方法の方が効果的だったものも多かったのだと思います。それらをろくに検討もしないで「意味がない」と切り捨てていたところに僕の未熟さがあります。

 でも、たとえ効果的じゃなくても「自分で考えて、自分で勉強を調節していった」という、行動そのものが僕に自信を与え、学ぶことを楽しくしていきました。

 しかもそこに結果もついてきたので、尚更楽しくなりました。

 傲慢ですが、先生の言うことをちゃんと聞いているのに全然成績が上がらない少なくない友達を見て、何だか憐みみたいな感情ももっていました。同時に先生や学校教育に対する違和感も芽生え始めました。本当に傲慢ですね、このクソガキ笑


 これが、僕が学校教育に疑問をもつようになっだきっかけが高校時代だったと考えている所以です。

 学校教育で奨励されている方法で学んでも、勉強は楽しくならないし、成果も上がらないという経験による考えが、学校に違和感をもつ僕の、根本的なところに流れています。


 ちょっと主題からは逸れるのですが、「学ぶ楽しさ」にはさらに続きがあると考えています。

 僕の高校の時までの学びの楽しさは、あくまでも、自分で選ぶ楽しさ、それによって成果が上がる楽しさです。これは学びの楽しさの本質ではありません。

 学びの楽しさの本質とは「知識生成」。これになるのかなって思います。

  自分の経験や人の経験、先哲の生み出した知識をもとに、自分オリジナルの知識を生み出す。ここに学びの楽しさの本質があるのではないかと考えています。

 例えば、「ありがとうは大事である」という知識があるとします。これをただ知識として伝えられて、覚えても楽しさはありません。

 でも、たくさん経験して、「7つの習慣」「嫌われる勇気」などの書籍を読んで、これらの経験や知識が混じり合い「ありがとうは大事である」という知識が生成された時、その副産物として、ものすごい楽しさを感じます。これが知識生成の瞬間です。そして、そうやって生成された知識は、実生活で使うことができます。そしたら「もっと学びたい!」って思うことができます。



 ここでこんなことを思うわけです。学校教育が、もっと学びの自由度を与えられてくれたら。もっと若い段階で「知識生成」の楽しさを知ることができてたなら。人生変わってたかもしれないなと。(僕は今のところ人生に満足してますが)。

 さらに傲慢にもこんなことも思うわけです。僕は「知識生成」の楽しさを知ることができただけマシなのかもしれない。もしかしたら、一生その楽しさを知らずに死んでいく人もいるのかもしれない。それはかわいそうだ・・・と。

 そしてそしてこんなことも思うわけです。「知識生成」の楽しさを知る人が増えれば、学び続けられる人が増える!幸せな人が増える!そしたらもっと社会は良くなる!

 だからこう思うんです。

 学校教育は進化しなきゃいけない!子どもに学ぶ楽しさをもっと伝えられる場所にしなきゃいけない!

って!😆





 余談というか、とはいえですが・・・。僕は「全ての人間が生来的に学ぶことが好きである」という前提をもとに、あらゆる記事を書いていますが、そうじゃない可能性もあるのかもしれません。たまたま僕が学ぶこと大好き人間に生まれたってだけで。

 これってどうなんでしょうか?詳しい人がいたら教えてください! 

 そして、仮にこの前提が正しかったとしても、とにかく学校で自由に勉強させればいいっていう暴論を振りかざしているわけではありません。

 学校は学ぶ楽しさを教えるのと同時に、これまで先哲が築いてきた知識体系を確実に伝承する場でもあります。先哲が築いてきた知識体系は、要はは素晴らしい素材であり、これらを混ぜ合わせるから優れた知識が生成されるんです

 知識体系=学習内容だと捉えた時に、これまで通り、学習内容の確実な定着も必須になってきます。

 だから、学校にはこれまで通りの機能に加え、児童が「知識生成」できるようにするための環境も整えていかなくちゃいけない・・・。ここに難しさがありますよね😢

 頑張りましょ〜〜!!








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