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【SS】出会った男


あらすじ:
僕、津川泳斗つがわえいとは2024年10月に起きた火事の現場を訪れた。その場所は、実家からも近い。大学が冬休みに入ったことをきっかけに、僕は実家に帰って、火事現場を訪れた。
報道によれば、その場所に住んでいた父親と母親は火事から逃れたものの、姉と弟がどうなったまでかは詳細に報じられなかった。そこで、僕は一人の人物に出会う――。

第1章 事件のあった場所

2024年の10月。
実家近くで火事が起こり、僕は大学の寮に入っているため無事だった。
聞けば、火は瞬く間に建物を包み込み、吞み込むように家屋を取り囲んだという。煙が空を焦がすように立ち昇り、家屋はほどなくして燃え尽き、あとには瓦礫だけが残った。
市街地から少し離れた場所にある家だったため、消火には手間取ったという。消火活動を行い、鎮火できた際には家はなく、柱や基礎の部分が姿を現すのみだったという。
僕は冬休みに実家に帰った。両親としばらくの間、とりとめのない会話をした。
その後で、火事のあった現場付近へと一人で立ち寄った。

その場所は、僕の実家からは町一つ向こう側。車や自転車ならすぐだが、歩けば少々遠いというくらいだった。
久しぶりに実家に帰った懐かしさで、道を歩きながら、あの場所もこう変わった、いや、変わっていないなどと、ひとしきり新旧混ざった風景を視界にとらえていく。
崖を段々畑にしていたのを、後継者がなくなったのか、寂れていて栗の木を代わりに間隔を空けて植えている。古い民家が何軒もあったところは、マンションが建って新しい町並みの一部となっている。小さな山々は取り壊され、急こう配の道路の下に眠ったまま、かえりみられることがない。
子どもの頃の思い出の風景は、一体、どうなってしまったのか。
僕は微かな悲しみを抱えながらも、田舎の光景が残る場所が、どのように近代的で利便性の高い町へ変わるのかと、期待があるのも確かだった。
しばらく歩いて行った後に、僕の目の前の先で新しさが目立つ住宅街が続くようになった。

その間を歩いて行くうちに、ぽつんと端に林の群れが見え、その林伝いのある曲がり角に一軒家があった。
いや、現在では『家のようなもの』があったと言えるのみで、柱や基礎は黒く、すすけている。まさしく残骸といった様子で、触れれば、今にもこちらへ向けて倒れてきそうである。
僕が思い出せる限りでは、火事のあったのは2024年の10月で、今よりも2か月前のこと。出火原因は揚げ物後の不始末によるということだ。
ありきたりではあるが4人家族がこの家に住んでおり、父、母、姉と息子の兄弟という家族構成。父と母は無事一緒に逃げ出せたが、姉と息子の姿が見えず、今も見つかっていないのではないだろうか。
プライバシー保護の観点から、その後の報道は控えられ、現在も顛末がわかっていない。さほど世間の目を引かなかったのか、SNSでもニュースまとめサイトでも取り上げられることはなく、次第に誰も火事現場のことを話さなくなった。
未だにそんなことを言っているのは、僕みたいな暇人だけだろう。
家らしき残骸の近くには、報道陣の姿も当然見えず、記者をきどったインフルエンサーの姿もなかった。
荒れ果てており、今にも不吉めいた烏の姿だの、梟の鳴き声がどこからか聞こえてきそうである。
僕はそんな火事現場に近づき、はっと驚きで息をのんだ。

そこには誰もいない。いや、誰もいないはずだった。
だが、よく見れば残骸の端に膝をつき、残骸の欠片を指でつまんで、じっと見ている男性の姿があった。
外見は若く、二十代後半ぐらいではないだろうか。長いコートにロングセーター、黒のジーンズに高級そうな革靴。手首には、細いシルバーチェーンのアクセサリーをつけていた。
僕は少し迷ったが、一応、何がしかの情報を持っているに違いないと考えて、男性に声をかけた。
「あの、こんにちは。何をされているんですか」
非難がましい響きが混じってしまったようにも思うが、今にも倒れてくるかもしれない残骸のそばにいるのは危険だ。そう思って発した言葉だった。
若い男性はふり向き、僕をじっと見る。長めの前髪でよく目元が見えないが、華奢な体付きと言い、端正な顔立ちと言い、どこか視線を引きつけるものが彼にはあった。異性の僕でさえそう思うのだから、女性であれば、何かしら引きつけられるような印象を彼に持つだろう。

彼は立ち上がって、僕を視界の真正面にとらえた。
残骸で黒くなった指とは反対の手を、コートのポケットに突っ込む。取り出したのは、一枚の写真だった。
「ここに住んでいた家族の一人。姿見すがみ星晟ほしあき。ちょっと家のことが気になって来ただけだよ」
男の提示する写真を見て、僕は驚いた。4人家族が笑顔で写っている写真。父、母、紺色のジャケットとタイトスカートを身にまとって落ち着いた微笑みを見せる姉、隣に真新しいスーツを着こなした男性が写っている。彼一人だけが笑顔の一片もなく、写真の端に立って写っていた。
僕は顔を上げ、彼に言った。
「ここに住んでいたと言うのは、どういうことですか? 確か、ニュースでは、4人家族の姉と息子が火事でいなくなったまま、報道されなくなりましたよね。もしかして、あなたは4人家族で姿を消したままの息子さんだと言うことですか?」
「そう。よく知っているね」
事もなげに彼は言って、写真を再びコートのポケットにしまった。僕は呆然としたまま、彼を見つめる。ただし、好奇心に突き動かされて、僕は次の言葉をよく考える間もなく言い放った。

「ここであった火事のニュース、僕は今もまだ興味を持っているんです。一体、火事の後に何があったのですか」
彼はくすっと小さく笑った。長めの前髪が揺れて、片目だけが髪の隙間から見えた。やはり、芸能人かモデル向きの美しい顔立ちだった。
「何があったか、ね。いいよ、話しても。道を歩きながら話をすることになるけどいいかな? 僕もここから少し離れた場所に用事があってね」
彼は言い終わるか言い終わらないうちに僕を通り過ぎて、歩いて行った。
僕はあわてて彼の後ろについていき、彼の背に向けて名前を名乗った。
「あの、僕の名前は津川つがわ泳斗えいとです。よろしくお願いします」
姿見が顔だけ少しふり向いて、僕を見た。突然、微笑を浮かべる。
笑っている? それとも、僕をインフルエンサーの類と見て、小ばかにしているのか。
彼の微笑の意味が僕にはわからなかった。眉根を寄せるものの、彼がその疑問に応えることはなかった。
「……よろしく」
曖昧に微笑んだ彼はそう言うと、僕達は二人並んで住宅街の中を歩いて行った。

第2章 出会った男

その後、会話をするうちに彼が僕と同じ小中学校を卒業していることが会話の流れでわかった。同学年ではないから知っている先生はかなり違うものの、小中学校の建物や教室の配置などは変わっていない。

通学した者だけが知っている学校の話に、僕達は夢中になっていた。
「そうそう。確かに小学校階段の踊り場には鏡があったよ。2階だったかな。あの鏡の前で夕方近くに――」
「3回まわって、3回だけ『花子さん』って呼ぶと、『花子さん』が出てくるっていう噂。じゃあ、昔もあったんだ。僕の頃は誰も信じていなくて、そんなことするより早く家に帰って友達と遊んでいたし。そういう噂の方がむしろダサいとすら思われていて」
「へえ。じゃ、小学校の近くに誰も住んでいない幽霊屋敷があって、その屋敷に小さな小窓から入れるというのも?」
僕は少しだけ首を傾げた。その噂なら、どこかの誰かが話していたような気がする。
「ああ、そう言えばそんな話があったような気も……。でも、僕の先輩の誰かが武勇伝みたいに語っていただけで、嘘か作り話だと僕の学年では思われていたかも。ほら、『スタンドバイミー』を見ても、誰も映画みたいに実際に行動しようなんて思わないでしょう」

懐かしの映画、『スタンドバイミー』。少年達がひと夏の冒険に出かける様子が描いてあるが、僕の実際の夏休みとはまるで違う。家の中にこもって、友達とゲームをしたり、テレビ番組を見て笑ったり、宿題を嫌々こなしたり、塾に行ったり、家族で花火を見に行ったりした、僕の小学校時代の夏休みとは全然違うのだ。
僕は調子に乗って、当時のことを姿見に語った。
「僕が小学生の頃は、七不思議や幽霊屋敷なんて言われてもね、って逆に白けるような雰囲気があって。それに、『花子さん』を呼び出す儀式、鏡があるのは小学校の2階でしょう? そこだけ、『3』じゃないのかよ、って小学生もツッコミを入れるくらいで」
彼が少し笑った。ただ、それも大人びた少し乾いた感じの笑い声だった。
「知らなかったのかもしれないが、本当は、あの小学校には幻の一階があってね。昔の大地震のときに一階部分が大きく破損して、一部が埋め立てられたんだよ。木造校舎だったときに。あの大きな鏡は移築したときに持ち込まれたもので……ああ、そこまでは話す人もいなかったのか」

僕は驚きに目をわずかに見開いた。
知らなかった。古い鏡だとは思っていたが、あの鏡は昔の校舎にあったものだったのか。
そこまで知っている教員も、僕の頃にはいなかったのだろう。
僕は微かにずれた眼鏡のフレームを指で持ち上げた。
「昔は、怖い噂話が結構あったってことですね」
僕は歩きながらも、右手で左手の肘を押さえ、腕を組みかけた姿勢になった。

「ただね、僕が聞きたいのは今のことなんです。去年の10月。一体、あの火事現場で何があったのか。ご両親だけは火事を逃れたって報道されていましたけど、その後、何があったんですか」
僕は慎重に言葉を選びつつ言ったつもりではあったが、好奇心というのは厄介なものだった。結局のところ、直球ぎみの質問になることは避けられない。

じりじりした気持ちで、僕は姿見の横顔を見ていた。
姿見といえば、僕の方を全く見もせずに歩いている。僕からすれば、何と言って言葉をかければ良いのかわからない。彼の心情すら、わからなかった。
「ああ、その話……」
しばらく間があって、ようやく姿見が口を開いた。あまり話したくないというような雰囲気が、そばにいても感じられる。
姿見がため息をついた。
「話しても良いけどさ、メディアで報道されていることと実際は、全然違うんだ」
「どういうことですか……?」
僕は訳がわからなくなって聞き返す。彼が歩くのを、突然に止めた。
「あの家には秘密があるんだよ。それも大きな、ね」
秘密? 僕は眉根を寄せ、黙っていた。
住宅街の中ということもあり、僕と彼は近くにあるコンクリートブロックの塀のそばに寄った。姿見が声をひそめて言う。

「借金だよ。それも膨れ上がって返しきれないような額の、ね。昔から父親の事業がうまく行かず、その度に母さんや僕に口汚い言葉を吐いて、ストレスのはけ口にされてきた。ある日のときなんか、母さんが急に姿を消して、行方不明になったときがあった。それでも、あの人は周囲に取り繕うことだけはうまくてさ、近所でも同情されていたよ。母さんも母さんで、ようやく見つかったときには、警察にもあの人にも『自分が悪かった』なんて、話してさ。数週間でも、別人のように痩せていた母さんの姿は今でも思い出す」
どこか嫌悪の混じる表情で彼は言った。僕は、彼の話を聞いて後悔にさいなまれた。

真実を知りたいと願ったのは僕だ。けれども、彼に、ここまで言わせる必要があったのだろうか。赤の他人の僕なんかに。
「それじゃあ、火事のあったのも、実はそういうことが影響したと……」
「ああ、そうじゃないか」
吐き捨てるような言い方で、姿見が言った。
「あの人が何を考えているのか知らないが、僕が不登校になったのも、姉さんが自殺を考えたのも、全部、あの人のせいだよ。あの人以外の僕達家族がどれだけ追い詰められていたか、どれだけ苦しめられたか。家族以外の人にわかるわけがない」

彼はそう言って、僕を鋭い目つきで睨んだ。激しい憎悪がこもっているような目で、僕は耐えがたい恐怖を感じた。
「で、でも、今はお父さんとも離れて暮らしているんでしょう? だったら、それはそれで良いじゃないですか。火事からも逃げることができたんだし」
「『それで良い』? まあ、家族以外の人間からすれば、そうなんだろうな」
若干、呆れたような侮蔑的な声音で彼は言った。僕の顔を真正面からとらえて、視線を一切、外そうともしなかった。
「火事のことについては話したし、もういいだろう。ブログかなんかに根拠のない噂話を好きなだけ書けばいい。そういうことがしたくて、初めから僕に近寄ってきたんだろう」

僕はあわてて手で制するような動きを見せると、早口で言った。
「そんな、根拠のないことをブログに書き立てたりなんか、しませんよ。今は、著作権とか人格権とか、名誉だとかいろいろ大変なんですから。ただまあ、暇だったから火事現場まで来たのは本当です。家族のことまで聞いてしまって、本当にすみませんでした。反省しています」
僕はそう言うと、恐る恐る彼の表情を観察した。
彼も良く見ると、そこまで悪い人ではない様子だ。プライベートなことを散々聞いてしまって本当に悪かったが、あまり事を荒げるようなタイプでもないだろう。僕は事の成り行きを心配しつつも、どこかで許されることを願っていた。

少しずつ感情がおさまってきたのか、彼がようやく僕から視線を外し、横を向いた。その視線の先は、進行方向だった場所である。
ふと、踵を返して彼は無言のまま、歩き去っていこうとする。僕はあわてて口を開いた。
「あの、どこへ行くんですか? その、駅はこっちですよ」
彼が突然歩くのを止め、ちらっとこちらをふり返った。
咄嗟に、言わなければ良かったと僕は思う。だが、後悔先に立たず。放った矢は返ってくることはない。
彼の瞳は強い恨みのこもった、深淵をのぞき込むかのような、昏い感情を浮かべている。
「姉さんのところだよ。いろいろと心配でね」
そう言ったきり、彼は僕をその場に残し、歩き去ってしまった。

第3章 調査 一

あれから、僕は迷いながらも姿見の後を歩いていた。
僕のことを許してくれないのはわかっている。ただ、何かしら、僕にはあの家事事件のことが気になって仕方ないのだ。勿論、家族全員が無事であることはわかっている。
けれども、今では、姿見のお姉さんの様子が気になって仕方ない。無事なのはそうだが、精神的に大変な状況にあるのではないだろうか。
そう思って、僕は住宅街の電柱のそばに姿を隠しながら、姿見の後を追っていた。
だが、慣れない探偵ごっこもふいに終わる。気づけば、姿見の姿を完全に見失っていた。

僕が周囲を見渡し、ある古びたアパートのところまで来たときだった。
アパートは3階建てで白壁のこじんまりとした造り。手前には駐車場などはなく、植え込みと花壇があり、手入れが良く行き届いている。玄関はオートロックではない。敷地内に入って整然と立ち並ぶ各部屋を訪ねる形式だ。
今風のセキュリティが堅牢なアパートではないものの、住み心地としては良さそうだと僕は思った。

僕がアパートの前で立ち止まると、アパートの敷地内の左端から声が聞こえた。どうやら、その奥に駐車場があるらしく、声の持ち主はそこから歩いて来ているようだった。
「ちょっと! 触るんじゃないよ」
腕を叩くような鋭い音が聞こえた。
咄嗟に耳を傾けると、女性と男性が駐車場側からアパートの正面まで歩いて来た。二人は60代に近いのではないかと思う外見で、夫婦のような気安い仲にはどうも見えない。

そのままアパートの木々の影から見ていると、2人はさらに会話を続けた。
「大体ね、最近は変な人が多いものなんだよ。そんなの、わかりきったことじゃないか。運が悪かったと思うしかないね」
女性が辛辣な口調で言うと、男性がおどおどしながら言った。
「でもさ、こんな住宅街の中にまで来て路駐するなんて、信じられないね。一体、どうすれば良いのかね。こっちも、ああいう手合いには関わりたくないのだが……」
ため息をついて言う男性を、女性が容赦のない言葉をあびせる。
「そんなこと言われてもね。あの姿見なんて女が越してきてからだよ。まったく、厄介なことだね」

そう言うと、女性はさっさとアパートの敷地内の門扉まで歩いて来た。僕は咄嗟に木々の裏に隠れ、女性に見られないように努めた。
ほどなくして、性格のきつい女性は住宅街の中へと歩いて行き、僕はほっとして木々のそばを離れた。
アパートの敷地内を見て、まだ先ほどの男性がいるのを僕は目にした。丁寧に、植え込みの手入れをしている。
僕は周囲を見渡して誰もいないことを確認すると、アパートの敷地内へと足を踏み込んだ。

「あのう、すみません」
僕の声に男性が顔を上げる。急に現れた僕に、驚きの表情を浮かべている。
何と言えば良いものか戸惑ったが、僕は正直に男性に伝えることを決めた。
「先ほどの会話が聞こえたのですが、姿見さんという方が、こちらに住んでいるのですか?」
「姿見さん? ああ……」
男性は、すぐに物思いに沈んだような暗い表情を見せた。
「何のことだか、さっぱり。勝手にアパート内に入らないでくれ。『関係者以外は立ち入り禁止』だと貼り紙もしているだろう」
「その、姿見さんという方のお姉さんがこちらに住んでいると思うのですが、他の方と一緒に住んではいないですか?」
僕の言葉に男性は一瞬、呆然とした表情を浮かべる。口元は開き、目は僕だけを一心にとらえている。
だが、すぐにその様子も消え失せた。

「馬鹿馬鹿しい。今の若い人が何を考えているのか知らんが、さっさとどっかに行ってくれ。迷惑だよ。これ以上何かをする気なら、警察に連絡するよ」
僕は警察、という言葉を聞くなり、僕は考えていた質問を投げかけるのを止めた。これ以上の会話は、僕のためにならない。
「わかりました。ご迷惑をかけたようで、すみません。失礼しました」
僕はあわてて言葉をまとめて、アパートのそばを離れた。
高齢の方と話をするのは、いつも疲れる。最近では、両親も少しずつ耳が遠くなって、会話のし辛さが年々わずかではあるが、明らかだった。昔の両親とは違うのだ。親も時間とともに変化をしてきている。
認めたくはないが、親と僕との関係性も、実家付近の開発のように痛切なほど身近に迫ってきている。実家に帰って、親のそばに四六時中いないのも、そうした理由がある。

僕は住宅街の中をとぼとぼと歩き、これからどうしようかと考えた。
空を見れば、そろそろ日暮れ時に近くなる頃合いである。
駅前の商店街にでも行って、今川焼きでも買おうか。
老舗の今川焼きが子どもの頃から好きで、僕は商店街に行くと、よく親にねだって買ってもらったのだった。
赤銅色の型に小麦粉、卵、砂糖を水に溶いて作った生地を流し込み、具材として、餡やカスタードクリームなどを落とし入れ、半ば熱が入ったところで、再度生地を流し込んで蓋をする。
具材も白餡やチョコクリーム、抹茶クリームなど最近は多種多様で、手軽なおやつとしても昔から人気がある。

名前としても、今川焼きという呼び名以外に多様な呼び名があり、大判焼きや、おやき、回転焼き。その他にも日本地域によって多様な呼び名がある。
台湾では、なんと車輪餅(チュールンビン)と呼ばれているそうだ。
所変われば味も変わり、名前も変えて親しまれる有名おやつ。
考えていると僕は口元がわずかに緩みそうになって、商店街へと向かう道へ足を進めた。
いや、そうしたかったのだが——。

「君、ちょっと聞きたいことがあるのだが、いいかな」
背後から男の声が聞こえ、僕は咄嗟にふり向いた。
スーツ姿の男性が無表情で、僕の後ろに立っていた。綺麗に髪をなでつけ、ほっそりとした体つきの男性である。外見から判断するに、どこかの企業の営業か、会社員のような風貌だ。少なくとも警察官にはまったく見えない。

「ええと、たとえば、どんなことでしょう?」
思考を邪魔されて、僕は落ち着いて言葉を返すことができなかった。
急に見知らぬ人から質問されても——まあ、僕も同じことを今日、していたのだが。
「ああ、まずはこれを」
男性が名刺を取り出して、僕に渡す。名刺には、『日凪ひなぎ探偵社 日凪ひなぎ有穂ありほ』と書いてあった。
探偵? 僕は顔を上げて男性を見た。

「先ほど、そこのアパートで管理人と話をしていたようだが、君と管理人は知り合いか? それとも親戚同士なのだろうか」
「え? いえ、まったくの無関係……ただ、僕がアパートでの会話を聞いただけで」
「アパートの会話?」
不審そうな表情で日凪が眉を寄せた。
僕はアパートの管理人ともう一人の女性が話していたことをまとめ、彼に伝えた。

「すると、君は姿見さんのことが気になって、アパートの管理人に声をかけたと言うことか?」
「はい、そうですけど……」
僕の言葉を聞いて、日凪の眉間に皴が寄った。あまり良い兆候ではないことは確かだ。僕はそろそろ、日凪から離れて早く商店街へと行きたくなった。
「君と姿見さんの関係は? 親戚なのか?」
「え? いいえ。今日初めて会っただけで。なんでも、姿見さんの精神状態が、どうも不安定だそうで。気になって来たのですが、部屋番号もわからないし……」
「ふん、そうか。では、本当にあのアパートを通りがかっただけということか」
突き放すような日凪の口調に、僕は慣れることができない。返す言葉も、しどろもどろになってしまう。
「そうですよ。僕は本当に、ただの通りすがりで……」
「では聞くが、姿見さんの精神状態がどうして不安定なのか、その理由をうかがってもいいか?」

日凪が冷徹な、鋭い口調で言った。僕は彼の言い様に、呆気にとられる。
どうして、そこまで容赦なく無遠慮な質問を尋ねることができるのだろうか。普通は、もっと配慮をまじえて会話をするべきではないかと僕は強く疑問に思った。だが、相手は所詮、初対面の人である。二度と会うこともないだろう。

気を取り直し、僕は日凪の問いかけに応えた。
「それは、事件があったからですよ。近所の――あっちの方で火事があったでしょう。そのせいもあって、ということです」
意外にも、僕の言葉に日凪が黙りこんだ。しばらく間があった後、口元に手を当てて考え込む。その後に、小さな声で呟いた。
「やはり、そういうことか」
「……どういうことです? もういいですか、僕も用事がありますし」
適当に用事をでっち上げて、僕はその場を去ろうとする。日凪がこちらを見て、ふと表情を微かに和らげた。
「いや、引き留めて悪かったね。すまなかった。もう行っていいから」
彼にも彼の言い分があるのだろうが、僕には彼の真意がまったく理解できなかった。

訳が分からず、日凪のそばを離れて、僕は商店街へと歩いて行った。
心の中に曖昧にわだかまる、よくわからないものがおりのようにたまる。それらが海の潮のように、渦を巻いて微かな音を立てるのだ。不協和音のように。
木々の葉擦れのように音がいくつも折り重なって、一斉に、ざわざわと——。

第4章 調査 二

翌日になり、僕は駅前の辺りを意味もなく歩いていた。早朝に目が覚めてから、することもなく部屋にいたが、朝の散歩も悪くないと外に出たのだった。

朝7時を少しまわった時刻だからか、駅前には人の姿がちらほら見かけるようにはなっていた。
駅前は、意外なことに子どもの頃と大きな変化は見られない。近くには深夜まで営業しているスーパーがあり、コンビニがあり、昔のままの花屋と洋食店、居酒屋、外食のチェーン店が並んでいる。
そのまま辺りを歩いていても良かったが、大きな駅とは違い、郊外の小規模な駅のことである。数十分も歩くと、あまり見るものがなくなった。
駅前を何周もしていると不審な目で見られるだけなので、僕はあてどもなく駅前を歩いた後、近くの公園へと足を向けた。

駅近くにある小さな公園だ。遊具がいくつかあり、休日ともなると親子が訪れているのをよく目にする。僕は公園入口から足を踏み入れ、ベンチがある辺りに視線を向けた。
すると、先客がベンチに腰かけているのを目にする。長い丈のダウンジャケットを着ていて、ダウンジャケットの下は暖かそうなニットに紺のジーンズ、スニーカーを履いている。
――姿見だった。
僕は軽く手を振り、姿見に声をかけた。
今日の姿見は、どこか表情に元気がなさそうに見えた。何かあったのだろうか。
彼の隣に座り、僕は何と言って良いものか迷う。だが、結局は平凡な挨拶にたどり着いた。
「おはようございます。今日も寒いですね」
姿見はあまり興味がないようで、僕に会釈を返すのみだった。
僕は戸惑ったが、なんとか会話を続ける。

「家はここから近いですか? この地域の小中学校を卒業していたら、実家は近くですよね」
「……ああ」
姿見の反応はまたしても薄いものだった。僕と会話をしたくはないということだろう。
僕も無理に会話に付き合わせることもない。そろそろ、実家に帰って、こたつでミカンでも食べた方が良いのではないだろうか。
「実家に帰って、親と話をするのか」
姿見が、急にぽつりと言った。
僕はあわてて姿見の方を向く。
「まあ、普通に会話くらいしますよ。親ですし、当然でしょう」
「反抗期は?」
「反抗期……? 高校生のときは父親と進路のことで喧嘩もしましたけど、それくらいですね」

その当時はマンガとアニメが大好きで、僕は進路のことで父親とは大喧嘩をした。家の壁の一部を蹴って壊したくらいだ。自慢できることではまったくないが。
後日、おっとりしている母親が「戸建てだから良かった」ということを言っていたような気もしたが、一時の激情であんな馬鹿なことをしたことを今では猛省している。
両親の前で正座させられ、数時間以上、説教されたことが昨日のように思い出される。
姿見はこちらに視線を向けた後、じっと僕の顔を見た。
「父親に殴られたことは?」
僕は突然の質問に黙り込んだ。父親に説教をされたことはある。だが、殴られた思い出はなかった。
「その……姿見さんは父親に殴られたことが……えっと」
「ある。何回もね」
くらい影のようなものが姿見の表情に忍び込む。
僕は驚きとともに彼を見たが、姿見は気づくような素振りも見せず、話を続けた。

「あの家で、僕に優しかったのは姉さんだけだった。火事が起こってからは、両親も今までの態度を改めるようになったけど、それでも遅かった。僕を殴る父。暴力を避けるため、僕を身代わりにして見ないふりをする母。あの家を離れることができて、心底良かったと思う。今にして思えば、あんな地獄のような環境にいる必要もなかった。
僕が殴られた後に、いつも姉さんがこっそり寄ってきて、傷の手当てをしてくれた。殴られた箇所が染みて痛いのに、僕も声を上げることができなくて。それなのに、姉さんはどこで覚えたのか、手早く傷口の手当てをしてくれて「痛いの痛いの飛んでいけ」って笑って言って。
そんな風に優しい性格だから、姉さんはあんな風になってしまった。今の姉さんは昔の姉さんと違う。心が壊れて、あんな風に」
姿見が両手に顔を沈め、泣き顔を僕に見られないようにした。何か、深く傷つくことがあったのだろう。

「ある日、高校から帰ってきたら、あの人が会社に行かずに家にいた。それで、すぐに自分の部屋に行こうとしたら急に引き留められた。
あの人に、突然言われたんだ。『お前は実の姉に惚れているんだろう』って。その後に反論したけど、まったく聞いてくれなかった。『嘘をつけ』って言われて。
何度も、何度も殴られた」
押し殺すような嗚咽が聞こえる。僕は黙って聞いているしかなかった。
「……姉さんと会うのも、僕は実は怖いんだ。あの人とのこともあって。でも、どうしても昔の優しかった姉さんが忘れられないし、忘れることはできない。姉さんに、どうしても、そばにいてほしい。昔のときの姉さんを取り戻してほしいんだ」

僕は昨日のことを思い出した。姿見の姉が住んでいるというアパート。管理人と知り合いの女性は、どう見ても姿見の姉に対して良い印象を持ってはいない。
それも、今の姿見の話を聞けば当然だろう。誰しも、当人の過去など言われるまで知らないものだし、昔と違って、この付近でも今は住民同士の関係が希薄だ。
人生を大きくゆがめられる過去。それがあるかないかなど、どうして他人が容易に察することができるだろう。誰も気づくことができないのは当たり前だ。

「……あのアパートに一緒に行きませんか」
僕は姿見を見ながら、呟くように言った。
「僕もついていきます。二人なら、お姉さんも落ち着いて話ができるのではないですか」
姿見が顔を上げ、僕を見た。長めの前髪の隙間から、微かに濡れた瞳が僕をとらえている。
まるで、信じられないという表情だった。
「大丈夫です。重要な話のときは、僕も離れますので」
そう言って、僕は姿見が涙を手でぬぐうのを見ると、彼に合わせてベンチから離れ、公園の外へと出て行った。

第5章 隣の人

住宅街の中を歩き、昨日のアパートへと向かう。
朝だということもあり、住宅街の中は閑散として人の姿はあまり見られない。
年末だからということもあるだろう。仕事納めをして、家の中で休日を過ごしている人が大半の時期だ。
アパートの近くまで来たが、人の姿はまったく見られない。
あまりに静かで、住宅街の中を歩いているような気にもならなかった。

僕はアパートの木々の影から、敷地内をのぞく。昨日の管理人の姿を探したが、今日はなぜか知り合いの女性が箒を手に、敷地内に落ちた枯れ葉を集めている。
「あら」
女性は僕の視線に目ざとく気づく。向こうの方から気さくに声をかけてきた。
「おはようございます。このアパートに何か用かしら」
昨日の女性の様子とはまったく違う。二重人格かと思うくらいの激変ぶりだ。
表情も、今日は穏やかで荒々しいものはほとんど感じない。
かなり驚いたものの、僕はしばらく間をあけた後に『おはようございます』と言葉を返した。

「ええと、姿見さんのお姉さんに会いに来たのですが」
「――姿見さん? ああ」
女性は軽くうなずくと、中断していた掃除を再開した。
僕が姿見の方を見ると、彼は僕と視線がぶつかったことに気づき、二階へ続く階段へと歩き出した。
姿見の姉はアパートの二階に住んでいるということだろう。
階段を登り、アパートの二階へとたどり着く。二階の端からまっすぐに歩いて行き、階段と反対側へと向かう。
二階の角部屋。アパート正面から見ると、二階右端にある部屋である。
扉の前に立つと、意外なことに玄関は昔風ではなかった。丸い小型のカメラが付属したインターフォンが設置されている。確か、録画も可能で、室内から訪問者が確認できるタイプである。
僕がインターフォンを見ていると、隣室の方から微かに音が聞こえた。
どうやら、隣人が玄関の郵便受けから郵便物を回収しているらしい。

すぐに隣室の扉が開いた。隣人は男性で30代半ばといったところ。スーツ姿であるのを見ると、これから会社へ向かうところらしい。遅めの出勤ということか。
「……あの」
僕が声をかけると、男性が僕の方を見た。
「何か」
ぶっきらぼうに言うと、僕を頭のてっぺんからつま先まで無遠慮に眺める。見知らぬ他人なのだから仕方ない。
そうは思うものの、僕は居心地の悪さをおぼえる。わずかに下がった眼鏡のフレームを指で直す。
「いえ、その――」
僕はそう言った後に、アパートの奥、駐車場方面を指さした。
「ええと、アパートの向こう側に駐車場がありますよね。そちらに勝手に車を停めたりなんかしていないですか。昨日、管理人が話しているのを偶然、聞いたのですが」
「何の話だ? こっちは管理人に毎月駐車場代を払っているが」
依然として横柄な口調で男性が続けた。

「いや、そのですね。昨日、このアパートの近くを歩いていたら変な探偵に話しかけられたんですよ。そのときに、ここに住んでいる姿見さんのことや、最近起きた火事のことも訊かれまして。僕なりに考えてみたのですが、あの探偵は、もしかして姿見さんではなく、隣の方と間違えているのではないかと思ったんです」
「探偵?」
男性が困惑した表情を浮かべる。少しの間考え込んだ後に、早口で言った。
「ああ、もしかしたら、ウチの奥さんが――」
「奥さん?」

今度は、僕が聞き返す番だった。どうも、口を滑らした失言のようだったが、僕が聞き逃すわけがない。
男性が立っている玄関口を見ることができないかどうか、僕はそっと視線を向けた。だが、この立ち位置からでは、玄関が邪魔している。開いた扉越しでは、男性が同居している人物の気配など、知る由もなかった。
ただし、どう見ても、男性の一人暮らしといったような雰囲気が色濃い。現在、一緒に女性と生活しているようには見えなかった。
まったくの勘だが、当たらずも遠からずといったところだろう。自信はそれほどないものの。

「いやそのね、一応、離婚はしているものの……」
男性が観念したかのように呟いた。けれども、言葉の最後辺りは聴きとることができなくなってしまう。
男性ははっとして、こちらに鋭い視線を向けた。
「まあ、いろいろ詮索するのは止めてくれ。こっちは忙しいんだ」
そう言ったきり、男性は二階の階段へと向かった。あとには、僕と姿見だけが残される。

「……一体、どういうことだ?」
僕は訳がわからずに呟いた。
姿見が言った。
「偽装離婚だろう」
「どういう意味?」
「離婚したふりを装って、ここに住んでいるということ。探偵が来たのは、偽装離婚した奥さんの方に彼氏ができたか、それとも男性に彼女ができたかのどちらか。いずれにせよ、奥さんの側から探偵に依頼が入って、ここまで来たということだろうね」
姿見の言葉で、僕はようやく納得する。
なるほど。世間には、そういう夫婦も存在するのか。道理で、昨日の探偵は無遠慮に質問してくると思った。

僕は姿見に向き直り、彼が姉の部屋に向かうのを見つめる。
姿見が指でインターフォンを押した。だが、何度押しても人が在室している気配はない。
気落ちした様子で、姿見がひどく寂し気な表情を見せる。
タイミングが悪かったということだろう。僕は姿見の様子に憐れむような視線を投げかけた。
また、出直したらと僕が言いかけたとき、姿見が僕の方を見た。
「――ここまでついてきてくれて、ありがとう」
僕は突然のことにどうしてよいのか、一瞬わからなかった。姿見が僕に感謝するとは思わなかった。よく見れば、彼の顔つきは常日頃とは違い、柔らかなものだ。
これまでの家族関係を考えれば、それも当然ということだろう。

彼の言葉に、僕は両手を振った。
「いえ、別に。大したことではないですし」
階段を降り、アパートの一階へと向かう。
アパートの敷地内では、先ほどの女性がいなくなり、代わりに管理人が植え込みのそばで作業をしていた。
管理人が、僕と姿見に顔を上げる。
「昨日は、失礼しました」
手短に昨日の件で詫びを入れ、僕は軽く頭を下げた。

「今日はその、姿見さんのお姉さんを一緒に訪ねにきたものですから」
管理人が僕と姿見を交互に見る。姿見に視線を向けて、少しうなずくように言った。
「ああ、そうなの。そう言えば目元が姿見さんと似ているような気もするね」
そう言うと、管理人は植え込みの作業に再び戻ってしまった。その後、こちらを見ようともしない。
僕は多少呆気に取られたが、気を取り直し、「……お邪魔、しました」と言った。
管理人のそばを通り過ぎ、アパート敷地内の外へと出る。姿見も一緒だ。

しばらく歩いた後、僕はアパートの方をふり返った。
管理人や彼の知り合いの女性が周囲にいないことを確認してから、姿見に言った。少し意地の悪い口調になってしまうのはいなめない。

「あのアパート、一体、どうなっているんだろうね。探偵がうろうろしていたり、管理人の知り合いの女性もいたけど、どうも変なんだよ。その女性も、会う日によって、二重人格みたいに性格が激変して」
姿見がアパートの方をちらっと見てから言った。
「その人は多分、管理人の恋人の女性だろう。高血圧か更年期障害か何かで、朝と昼では性格が変わるって、前に姉さんから聞いたことがある。アパートの住民からも不評だそうだ」

なんだ、そういうことか。僕はあまり感心しない気持ちではあったが、特段、それ以上の興味も関心もない。あえて、他に何かを言うということもなかった。
ふと、視線を空へ向ければ、朝方の冷たい新鮮な空気が辺りにただよっている。意識や気持ちが目覚めるような、清冽せいれつな朝の空気だ。
僕は気分も軽くなって、再び駅前に足を向けたい気持ちになった。
そろそろ、行きつけの甘味処も開店している時刻だ。お土産を少し買って、家に帰るのも悪くない。
そう考えて、僕は姿見の方をふり返った。
一緒に商店街へ行き、何か食べ物でも買わないか。
僕が、そう言おうとしたときだった。

「そこの君、ちょっといいですか」
男性の声が背後から聞こえて、僕は驚きに身をすくめる。
もしかして、あの探偵の日凪だろうか。
まだ、僕から聞きたいことがあるのかと憤懣ふんまんやるかたない気持ちで僕はふり返った。
「日凪さん、もう止めてくださいよ。僕は、あのアパートとは何の関係も――」
ふり返って、声の主に僕はあまりの衝撃に言葉が出なかった。

警察だった。
警官が僕の背後にいて、日凪の姿はどこにも見当たらない。
言葉もなく、僕はその場に立ち尽くしていた。
「身分証明書を見せてください」
警官に言われ、僕は財布に入れていた学生証を見せた。確認が終わると、荷物の確認がしたいと警官に言われ、僕はあわてて肩にかけていたサイドポーチを手渡した。
姿見のことが気になって後ろをふり向くと、姿見も警官に何かを言われている。
僕の視線に気づいたのか、意味ありげな視線を投げかけると、警官とともに、どこかへ歩いて行った。
僕は呆然として、その様子を見つめていた。
何が起こっているのか、事情が少しもわからない。
僕は確認が終わったサイドポーチを警官から受け取り、唐突に言った。
「あの、姿見がどうかしたんですか? 僕は何もしていないですけど……」
警官は眉根を寄せたものの、確認が終わったことを手短に伝え、僕を残したまま去って行った。
僕は手にサイドポーチを抱えたまま、事情が呑み込めず、しばらくの間動けずにいた。

僕はその後、おぼつかない気持ちで商店街へと向かった。
子どものころから行きつけの甘味処、今川焼きが美味しいと評判のお店だ。
僕が訪れると、店の店主の奥さんが出迎えてくれた。体格が良く、響く声は昔から変わらない。
少し混乱しながらも、僕は店の奥さんに今までのいきさつを話した。奥さんが僕の肩に手を置き、店の端へと誘導する。そこで、僕にささやくように言った。
「その子ね、泳斗えいとくんがいない間、商店街で有名だったのよ。いろんなことがあってね」
「いろんなこと?」
僕が聞き返すと、奥さんは何度かうなずいた。周囲に聞く者がいないことを十分に確認した上で、僕に言った。

「あの子の両親とは、実は知り合いなのよ。だから、よく知っているのだけれど。ご両親は大変優しい方達よ。だけど、どうもあの子との関係がうまく行かず、最近では話しかけても一言もしゃべってくれないって、ご両親が言うのよね。あの子の気持ちがまったくわからないって。泣いて言うのよ。
なのに、ご両親とは今でも一緒の家に住んでいるのよ、あの子。
どうも、大学の頃に別れた彼女に対するストーカー行為で、捕まったらしくてね。それ以来、定職にもつかないで、人妻と付き合ったり、女子大生と一緒にいるのを見かけた人もいるって。まあ、噂だけどね。
時々、モデルみたいな服装をしているときがあるじゃない? だから、そのせいもあって、人がいろんな噂をしているの……。一体、何をしているのかは本人しかわからないけどね。
いずれにせよ、ああいう子とは仲良くしない方が良いわよ。話すことが、一から十まで真実じゃないからね。あんな変な写真までつくって」

「え? どういうことです」
突然のことに、訳がわからず僕は聞き返した。
奥さんは悲しそうな表情を浮かべた後に言った。
「……最近は、どうも火事にあった家に住んでいたなんて、言いふらしているらしいのよ。『姿見すがみ』なんていう、嘘の名字を名乗って。明らかに嘘の家族写真までつくってね」
その途端、僕は目の前にある世界が、音を立てて崩壊するような感覚に襲われた。
――嘘?
そんな、会ったときから彼の言っていたことは?
ぐらぐらと眩暈めまいがしそうだった。
僕のこれまで見ていたこと、聞いていたことは何だったのか。
それでは、あの火事現場は? 姿見という名字は?
姿見と姿見の姉は? 火事現場で暮らしていた家族は?
姿見が話した家族関係は? あの家族写真は?
彼が公園で語った、家族でのやり取りは? 涙は? 苦しみは?
姉が住むアパートのことは? インターフォンを押したことは?
僕の心の中を様々な葛藤と疑問が去来する。
頭を両手で抱える。そうでもしなければ、大声で叫び出しそうだった。
僕がこれまで見ていたこと、聞いていたことは、一体――――。

奥さんは残念そうにため息をついた後、弱々しい声で最後に言った。
「嘘なのよ、全部」



〈了〉

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東西 七都
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