「言葉を、みすてないで ~文学部部員の日常~」 #07
第三話 二
もう少し歩けば、駅が見えてくる。そんなときだった。
あたしは司の気分を変えようと、明るい話をしようとしていた。
「ねえ、司——」
左横の歩道から出てきた女の子がいた。ランドセルを背負っている。
その子は、どうもあわてているようで周囲を見渡した後、司の顔に目をとめて驚いていた。
「つ、司お姉ちゃん!」
女の子は司の名前を呼んだ。司は一瞬の間をあけて、女の子に言った。
「友美ちゃん……? どうしたの、こんなところで」
友美ちゃんは少し息をきらしながらも、あたし達に近づいた。ショートカットの髪型で、黒い円らな瞳が印象的な女の子だった。
司と似ていない気もするが、妹なのだろうか。そう思って司の横顔を見ると、あたしの視線に気づいたらしく、司が言った。
「少し前に、学童でボランティアをしたことがあってね。絵本の読み聞かせをしたのだけど、子どもに結構なつかれて。友美ちゃんとはそこで知り合いになったんだ」
そうなんだ、と、あたしは言おうとした。だが、そばにやってきた友美ちゃんが司の腕をつかむ。
「お姉ちゃん、大変なの! クラスメートの三木太くんが。三木太くんのお母さんが——。とにかく来てほしいの。大変なんだよ」
「ちょっと待って、友美ちゃん」
諭すように司が言った。穏やかな表情に、落ち着いた口調だった。
「一体、何があったか、話してくれないか。三木太くんとお母さんは、怪我をしている?」
「ううん。怪我は誰もしていないよ。三木太くんがね、ええと、ええと……。二日間、お家で何も食べていないって言っているの。それから、お母さんもお家に帰ってきていないって」
司の表情が、驚きに染められる。あたしでさえ、今聞いたことが信じられなかった。
友美ちゃんに、真剣な表情をして司は言った。
「わかった。三木太くんは、今、どこにいるの」
「こっち。ついてきて」
友美ちゃんは司の腕をひっぱり、目的地の方角へ誘った。司の後に、あたしも続く。
友美ちゃんに連れていかれたのは、駅から外れた、先ほどとは違う団地だった。
その団地の前の木陰で、友美ちゃんと同年代の男の子がベンチに座り込んでいる。
この子が、友美ちゃんの言う三木太くんらしい。やせた様子で、同年代の子どもよりも少し背が小さいようにも見えた。すでに家の中に一度帰ったのか、友美ちゃんのようにランドセルは背負っていない。
あたしと司は、三木太くんのそばに近寄る。
友美ちゃんが心配そうな様子で三木太くんを見ている。
「ええと、君が三木太くん——で良いのかな」
こくん、とうなずいて三木太くんが顔を上げる。優しそうな顔をした男の子だった。半袖の白いTシャツに紺色のゆるっとした七分丈のズボンを履いている。
「三木太くん、もう二日もお家で食べてないの。だから、さっき話しかけたらお腹が鳴っていて」
「それで、お母さんも二日間、お家に帰ってきていないんだね?」
また、こくんと三木太くんがうなずく。だが、今度はしっかりと司の姿をとらえたまま、うなずいていた。
「学校の先生には相談した?」
三木太くんが首を左右に振る。司が確認するように言葉を重ねる。
「それじゃあ、君の家は今、誰も家族がいないんだね? お母さんも他の人も?」
三木太くんが、うなずく。
あたしは、司と三木太くんのやり取りに暗い感情を抱いた。
明らかに、三木太くんはネグレクトを受けている。
ネグレクト——子供に対する適切な養育を親が放棄すること。例えば、食事を与えない、不潔なままにしておく、病気やけがの治療を受けさせない、乳児が泣いていても無視するなどの行為。虐待の一つだ。
それを学校も、近所の人も知らないなんて……。
司は友美ちゃんを見ると、優しく声をかけた。
「友美ちゃん。君はもう帰る時間だから、もう、お家に帰った方が良い。ここは、わたし達にまかせて、ね」
「うん」
友美ちゃんが、うなずく。名残惜しそうに、あたし達三人を見ると、決心がついたように家に向かって歩き出して行った。
「ええと、とりあえず」
めずらしく、司が考え込んでいる。あたしは事態の成り行きを見守ったまま、口をつぐんでいた。
「まず、何が起きているのか、事情を少し聞かせてもらおうか。お母さんが二日間、お家に帰ってきていないと言ったね。お母さんの行き先はわかる?」
三木太くんは首を左右に振る。司は戸惑いの表情を浮かべた。
「でもね、お母さんは二日も帰ってきていないんだろう。もし、事件か何かに巻き込まれていたら」
「ううん。事件じゃない。お母さんは、三日か四日間、帰ってこないときがあったから」
初めて、三木太くんが口を開く。素直そうな印象の、心に響く声音だった。
「そ、そんなことが、あり得るのかい。親は母親一人だけなんだろう?」
こくりとうなずいた三木太くんに、あたしは疑問を持つ。彼に質問を投げかける。
「待って。その間、お母さんは、どこに行っているのか、三木太くんは知っているの?」
三木太くんはうなずき、答えてくれた。
「多分、『恋人』のところ」
「『恋人』?」
司が緊張した声音で言う。眼鏡のブリッジを指で押さえていた。
「前に、お母さんの『恋人』がぼくをなぐったから、『恋人』を家に連れてくるのはやめたって。代わりに、『恋人』の家に行くことにした、って」
「うーん……」
司が困ったように両腕を組んだ。
あたしは三木太くんに言う。
「お家の冷蔵庫には、どれくらい食べ物が置いてあるの。もう全然ない状態?」
「うん」
この時ばかりは、しっかりとあたしの目を見て三木太くんが言う。
あたしは、その声を聞いて涙がにじみそうな気分になっていた。
「とりあえず、学校に電話しよう。担任の先生か、他の方に連絡がつくかもしれない」
司は言うと、携帯を取り出す。友美ちゃんの通っている学校に電話すると言うことだろう。
あたしが司の方を見ていると、急に横から誰かのお腹が鳴る音が聞こえた。
見ると、三木太くんが恥ずかしそうにお腹を押さえている。当然だろう、直前に食べたのはお昼の給食しかなかったはずだ。
「もう少しで、先生が来てくれるから。あともう少し待っててね」
あたしが声をかけると、三木太くんが嬉しそうに微笑む。その優しい表情に安堵したのは、あたしの方だったかもしれない。
しばらくして、小学校からクラス担任を名乗る男性が走ってやってきた。近くの時間貸し駐車場に停めて、走ってきたのかもしれない。
「三木太くんの担任の花園です。事情を教えてくれて、ありがとう」
息を切らし、弾む息の中、先生は言っていた。若い男性教員で、直線的な眉と意志の強そうな目が印象的だった。スーツ姿も相まって、熱血教師的な情熱と勤勉さを感じた。
「三木太くんのお母さんに連絡してみたけどね、なぜか連絡がつかなくて——これでも、五回以上は間隔をあけて連絡したんだけど。今日は、もしかしたら、お家に帰ってこないかもしれないし、私の方で三木太くんをあずかります」
「ええと……」
司が考えをめぐらせているようだ。だが、先生の様子を見ていると、どうも三木太くんのお母さんには何か事情があるのだろう。そこを詮索することはあたし達がしてはいけないことだし、社会や学校などが介入すべきことなのだろう。
花園先生は司に向き直って言った。
「君の話、とてもわかりやすかったよ。今日あったことは、すでに学年主任にも伝えてある。一応、電話番号だけ教えてもらっても良いかな」
「はい——わたしも、三木太くんの今後が心配なので」
花園先生が携帯を取り出す。左利きなのか、左手に携帯を持ち、薬指には結婚指輪をしていた。二人は電話番号の表示された画面を見合っていた。
あたしは三木太くんの様子が気になって、ちらっと視線を動かした。
三木太くんは何を思っているのか、花園先生と司を、じっと見たままだった。
数日たって、あたしと司は他愛ない話をしながら、駅までの道を歩いていた。
その日話していたのは、砂糖のかかったラスクにはシナモンパウダー、ココアパウダー、ココナッツパウダーのどれをかけて料理したときが一番美味しいかと言う、世界で一番くだらない話題だった。
「あたしはココアパウダーが一番、美味しいと思う。給食の時間のココアパウダーをまぶした、揚げパン。あれが、すごく美味しかったし。ラスクはパンだから、やっぱりココアパウダーが一番——」
あたしはそう言いかけて、司の携帯が鳴っていることに気がついた。
司が携帯を取り出して、不審そうな表情で言った。
「もしもし——」
携帯の奥から女性の声が響く。あたしはその声を聞きとろうと耳を近づけた。すると、司がスピーカーフォンにし、二人だけが聞けるように音量を下げてくれた。
「困るのよ。あなたのせいで、学校から面談を受けることになったじゃない。人の家庭に迷惑をかけるのはやめて。こっちも忙しいんだから」
若い女性の苛立たし気な声が、スピーカーフォンから流れた。戸惑いながらも、司は言葉を返した。
「……どうして、この電話番号を知ったんですか? 電話口の方は、三木太くんのお母さん、ですよね」
「そうよ」
不服そうに、三木太くんの母親は言った。
「あなた、花園先生に電話番号の画面を見せたでしょ。その画面をね、三木太が見ていたの。うちの子は、物覚えが早いから」
司の顔が驚きの表情へと変わった。
「あの一瞬に、わたしの電話番号を三木太くんが見て覚えていた——?」
めずらしく司が動揺している。
「そうよ。うちの三木太は、視力は良いし、記憶力も抜群に良いのよ。あまりそのことを話さないのが、もったいないけどね」
自慢気に言う母親に、あたしは内心、苛立ちを抑えられなかった。そもそも、子育てからして、この人は常識外れなのだ。
あたしは司から携帯をひったくりたい気持ちを何とか静めようとしていた。ただし、司も同じような気持ちだったらしい。
眼鏡のブリッジを指で押し上げて、司は言った。
「お言葉ですが——三木太くんのお母さんは、わたしが悪いと言うのですか」
「そうよ」
「いいえ、それは考え違いと言うものです。第一、お子さんを置き去りにして『恋人』に会いに行っているようですが、本当は『恋人』などいないのではありませんか」
「はぁ!? 一体、何を言っているのよ——」
三木太くんのお母さんが驚きの声を上げた。司は、なおも言葉を続ける。
「それでは、教えてください。頻繁に数日間、家を空けて子どもを置き去りにしている理由を。お母さんは、子どもに『恋人』に会いに行くと伝えていましたが、その実、言えない事情があるのではないですか。それは、数日間かけて、遠方に出かけていると言うことです。遠方に出かけ、一体、何をしているのか——。子どもを連れて行こうにも、視力も良く、物覚えも良い子が一緒にいては困る。あなたはそう考え、実際起きていることをごまかし、冷蔵庫に食料を詰め込んで出かけていた。今回は、詰め込む食料が少なかったから発覚しましたが、決して許されることを、あなたはしていません」
「知った風な口を……」
「では、なぜ、わたしに電話を? 学校に思うところはあっても、わたしに電話してくる必要はないはずです」
司の言葉に、相手は黙った。図星だと言うことなのだろう。
続けて、司は言った。
「ですが、子どもの年齢が高くなるにつれ、あなたのしていることは絶対にばれてしまうことです。それに、お母さんの体の健康にも差しさわりがある。親として、もっとお子さんと向き合うべきではないでしょうか。お子さんを優秀だと思うのなら、なおさら。わたしは学校が間違ったことをしているとは思いません」
母親は黙っていた。子どもを愛していることは間違いないのだろう。ただ、どうして、こうなったのか。
社会のせいなのか、それとも母親自身のせいなのか。
あたしは母親が語ってくれることを期待して、電話口に耳を傾けた。
「……わかったわよ。ここまで言われるとは思ってもみなかった。学校の面談は受けるし、もう、あなたにも電話しない。それで良いでしょ」
「はい。どうか、三木太くんのことを学校と一緒に話し合って——」
そこまで司が言ったところで電話が切れた。
三木太くんのお母さんから電話を切ったのだ。
あたしの心を落胆した、やるせない気持ちがよぎったが、司は感情を表情に出す様子もなく、さっと携帯をしまった。
司は少しだけ考え込んだ後、ふいに顔を上げてあたしを見た。
「わたしの言いたいことが伝わってくれれば良いのだが……」
「多分、『家を空けるな』ってところは伝わったとは思うよ」
司が少しだけ首を傾ける。目線は下に向けていた。
「まあ、伝わってくれれば。学校側から面談を受けると言っていたし、学校が関わることで、事態がうまく動いてくれれば——」
「それに」
あたしは司を元気づけるように言った。
「花園先生の家庭がどんなものか、あたしは知らないけど、三木太くんが他の家庭を見ることは、とても良いことなんじゃないかな。あたしは、そう思う」
「そうだね。きっと——」
司が弱々しくも、微笑んだ。
今回の出来事は、きっと多くのことを照らし出し、良い方向に進めてくれる。
希望を持って、先を見守るしかない。
あたしは行こう、と言うように、駅を指し示し、司よりも数歩先を進んでふり返る。
気づけば、あたし達の後ろには、雲一つない青空が広がっていた。
透き通るような青。触れれば、吸い込まれそうな、澄み切った青。
その光景を愛おしむように、あたしは目を細める。
日光はまぶしく、あたしの視界を明るく染め、新しい世界——未来を迎えようとしていた。