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最強彼氏

第1章:優しい彼氏がそばにいる

あたしの彼氏は世界一強い。

どれくらい強いかというと、具体的な話がたくさんあって語り切れない。自慢にはなってしまうが、それくらい、あたしの彼氏は最強なのだ。

たとえば、あたしが街に出かけてナンパされると彼氏は相手につかみかかるような勢いで反論し、撃退してくれる。別なときには、海のそばの歩道を彼氏とデートしていたときのこと。そのときは、あたしが殴られそうになったのを、逆に相手をボコボコに痛めつけて返り討ちにしてくれた。

他にも、そういう話は数えきれないくらいあって、すべてを語ることはできない。

友達には良く、そんなのはあたし、都三奈つみなの嘘だと言われるけど嘘じゃない。すべて本当のこと。

あたしの彼氏はいつもあたしを守り、すべての悪い人間から守ってくれるのだ。

なんて、あたしは幸せ者なんだろう。

こんな彼氏、世界のどこを探してもどこにもいない。

今日も、そんなことを考えながら、あたしは彼氏の虎男とらおとデートをしていた。


週末ということもあり、会社から直帰しての待ち合わせだった。

虎男はやっぱり、待ち合わせ時間より早く来ていた。駅近くの有名な銅像のそば。そこで、あたしを待っていた。

照れながらも、あたしは虎男のそばを歩く。

夕焼けが終わるほんの直前。夕日に染まる街並みを二人でそぞろ歩くのが、あたしたちのデートだった。虎男の隣にいると、不思議と心が落ち着き、嫌なことをすべて忘れられた。

「今日は何食べたい?」

虎男が柔らかい声で尋ねる。あたしは少し考え込み、無邪気な笑顔を浮かべた。

「ステーキハウス! 前に一緒に寄ったお店、すごく美味しかった。また行きたいな」

「いいね。じゃあ、今日はステーキハウスに寄ろうか」

虎男が嬉しそうに言うと、あたしは胸が高鳴る気持ちをおぼえた。彼と過ごす時間は何よりも幸せだった。ずっと、こんな日常が続けば良いと願わずにはいられなかった。

やっぱり、あたしは虎男のそばを離れられない。くすぐったくも甘い気持ちが胸を占める。

あたしは虎男と肩がぶつかりそうなほど、近くに寄った。腕でも組んで、もっと虎男と一緒にいる時間を大切にしたい。そう思ったときだった。

あたしの愛しい時間は突然の悲鳴によって破られた。

「危ない!」

あたしが声のする方へ顔を向けると、スピードを出した車が歩道に突っ込む勢いで走って来る。

怖くて、体が動かない。

反応する間もなく、あたしの体は凍りついたように動かなくなった。迫りくる危険に目を見開いたまま、立ち尽くしていた。

その瞬間、強い力があたしの体を引き寄せた。次の瞬間には、あたしは虎男の胸の中に抱き留められている。

「大丈夫か?」

虎男の声が震えている。あたしは驚きと恐怖で何も言えず、ただうなずくことしかできなかった。すぐ近くで車が停止し、辺りは騒然となったが、二人の世界は止まったまま。

「ありがとう。虎男がいなかったら、あたし……」

「そんなこと、言うなよ」

虎男があたしをさらに強く抱きしめる。

彼のたくましく、分厚い胸板。いつもジムで鍛えて、この体を維持しているのを、あたしは知っている。早朝のジョギングも欠かせないと言っていたっけ。

そんな彼の人知れぬ努力を多くの人は知らない。

あたしは彼女だからこそ、くわしく知っている。

どう、うらやましい? そう言ってみたい気分だ。

友達に話すと、また嘘と作り話が始まった、そんなことはあり得ないと言われるけど、あたしは気にしない。

つまりは、彼の存在が、限りなくフィクションに近いのが問題だ。

信じることができなくても仕方ない。

虎男の腕の強さに、あたしは彼の想いの強さを感じた。守られている。彼がそばにいてくれる限り、あたしは安全なんだ。

虎男の瞳に浮かんだ、ほっとしたような感情。

あたしの彼氏は何と言っても最強なのだ。マンガやアニメから抜け出したような強いヒーローなのだから、優しさもお墨付きだ。

帰り道、あたしは無意識に虎男の袖をつかんでいた。車が向かってきたときの恐怖がまだ消えず、彼の温もりを感じていなければ不安でたまらなかったのだ。

「怖かったな。でも、俺がついているから」

虎男は優しい声で囁き、あたしの頭を軽く撫でた。その仕草に、あたしは再び胸が温かくなった。彼がいれば、どんな困難も乗り越えられる。そう信じて疑わなかった。

「それじゃあ、行こうか」

虎男はそう言って、あたしの手を引いた。

あたしは軽くうなずき、虎男の横に並んで歩きだす。

今日の夕食は確か、ステーキハウスで、という話だった。しかも、あのお店は外国産のお分厚い肉を使っていて、ほっぺたが落ちるくらい美味しいのだ。

ステーキにかけるソースにも凝っていて、たまねぎのペーストが入った濃い味付けがまた堪らない。日替わりでついてくる温かいスープや芳醇な香りのするパン。バターをつけてパンを食べるときなど、ここへ来て本当に良かったと思うくらいだ。

あたしは顔をほころばせながら、虎男について歩いて行った。


翌日、会社の仕事が終わった後、あたしは軽く腕を伸ばした。

こうも目の前の仕事ばかり見続けていたら、目は疲れるし、肩も凝ってしまう。

どこかで聞いた話だが、西洋では人の感情は脳が支配していると考え、東洋では漢方の流れから、肚――つまり、お腹が人の感情を中心的に支配すると考えているそうだ。

言われてみれば、納得する点は多々ある。それに、もし昼に仕事が終わった場合は、東洋的には感情が一番高揚した地点で仕事を切り上げられるということではないだろうか。

仕事が終わって、その場で夕食を食べることができる人など早々いない。職場から電車か車で通勤している人がほとんどだからだ。西洋では自分自身を律して帰宅することができるのかもしれないが、東洋的には理解できない。

少なくとも、あたしは仕事が終わるとものすごくお腹は空いているし、不満だらけだし、疲労がたまって早くお風呂につかりたいなどと散漫的に考えてしまうのが普通だった。


ふと、昨日、車がかなりのスピードで向かってきたときのことが頭をよぎる。

だが、虎男が守ってくれたことを思い出すと自然と笑みがこぼれた。

「虎男がいるから、私は大丈夫……」

そう呟いて、職場のロッカー前で身支度を整えた。職場では制服に着替えなくてはならないから、どうしても仕事後に私服に着替える必要があったからだ。

職場を出て、あたしは駅へと向かう。いつも通りの日々、いつも通りの景色。しかし、胸の奥に小さな違和感が残っていた。

駅の近くを歩いていると、友人の奈美江なみえの姿が見えた。

アパレルで働いているからか、外見は普通よりも派手目である。髪色は明るいし、ネイルも派手。勤め人では絶対つけないようなチョーカーや、可愛い指輪を複数個つけている。

あたしを見ると、奈美江はこちらへすぐに駆け寄ってきた。

「都三奈、大丈夫!? 昨日、あの場所で怪我しそうになったって聞いたけど!」

「え? ああ、うん。大丈夫。あたしには最強の虎男がいるし。虎男が守ってくれたから、怪我は全然ないよ」

あたしが笑顔で答えると、奈美江は不思議そうな顔をした。

「虎男くんが? でも、あの場所、よく事故が起こるそうで危険な場所なんだよ。なんでも、カーブと道路のミラ―がある時間帯になると、よく見えないらしくてね。本当に怪我がなくて良かったよ! 前にもね、あの場所で虎男くんを見かけたっていう人がいて……」

「え……?」

あたしは一瞬、驚く。

奈美江はなぜ、そんなことを知っているのだろう。あたしの知らない虎男の話?

そんなわけないじゃない。あたしよりも虎男についてくわしいなんて、そんなの奈美江に限ってあり得ない。いや、もしそんなことがあったら、あたしは許さない。

友人が彼氏にちょっかいをかけるとか、横取りするとか、そんなことが現実に起こるだなんて思ってもみなかった。雑誌か小説の中でのこと。今までは、そう思っていた。

もし、あたしの彼氏を横取りする気なら――絶対に許さない。

あたしの心が嫉妬で燃え上がりかけたような気がした。そんなはずはない。虎男は、あたしだけをずっと見てくれて、あたしを守ってくれるはず。

「そんなの、見間違いだよ。虎男はデート以外であんな場所には行かないから」

無理やり笑顔を作って答えるが、あたしの違和感はますます大きくなっていった。

「でもね、本当に見たって言う人がいて……」

聞かなくていい。奈美江の言っていることが全部嘘だ。

本当は、友人の最強の彼氏がうらやましくて仕方ないのだ。本音を言えばいいのに。

あたしは肩に落ちた長い髪を片手ではらった。

「ちょっと急いでいるの。時間もないから話はまた今度ね」

失礼にも程がある。あたしは内心、奈美江の言い方に怒りをおぼえていた。

だが、大人の余裕とやらで、それを少しも顔に出すことなく、足早にその場を去って行った。


虎男との待ち合わせ場所に行く最中、あたしは集中できなかった。虎男の姿を思い浮かべるたびに、先ほどの出来事と奈美江の言葉が頭の中で反響する。

――本当に、虎男は奈美江と何の関係もない。信じていいのよね?

あたしは心の中で何度も自問自答を繰り返す。けれども、答えは出なかった。

駅から電車を乗り継ぎ、あたしは待ち合わせ場所に向かった。いつも通り、虎男が優しい笑顔で手を振っている。

「お待たせ、都三奈」

「ううん、あたしもね、今来たと・こ・ろ」

茶目っ気たっぷりに言ってみた。虎男が苦笑している。

何事もなかったかのようにあたしは振る舞い、さりげなく先ほど聞いた話を虎男にぶつけた。

「ねぇ、虎男。さっき、奈美江と出会ったの。奈美江が、昨日の車が向かってきた場所で虎男を以前、見かけた人がいるって聞いたんだけど……」

虎男の顔色が一瞬曇ったが、すぐに普段の表情に戻った。

「ああ。奈美江の言うことは本当だよ。でも、別に俺は誰かと出会うために、あの場所にいたわけじゃない。それは本当だ」

そう言って微笑む虎男の目が、ほんの一瞬だけ悲しげに見えた。

あたしは胸の不安を振り払うように、虎男に向けて言った。

「そうだよね……。奈美江が、そんなこと言うから悪いの。疑ったりして本当にごめんね。あたしは虎男のこと、信じてる」

その後、二人でいつものように街を歩き回った。あたしの好きなカフェに寄って、飲み物と軽食を注文する。そう言えば、以前にこのカフェでカップル用のメロンソーダを注文したっけ。ハートを描いたストローが二人分あって、一緒に照れながらメロンソーダを飲む、あの衝撃的に甘ったるい演出付きのドリンク。

写真も撮ったけど、虎男はその度に恥ずかしいから見せないでくれって言っていたな。

あたしはカフェのテーブルに肘をつき、頬杖をついた。口元が自然と緩む。

こういう思い出が、あたしと虎男にはたくさんあるのだ。

その一つ一つが、たまらなく愛おしい。


しばらく会話をした後に会計を支払い、カフェを出た。あたしと虎男は駅までの道を歩く。

デートも、もうそろそろ終わり。これから家に帰って、また変わり映えのない仕事が翌日も待っているだけだ。虎男との時間が永遠に続けば良いのにとすら思う。

そんなこと言ったら、西洋では神様に――ああ、いけない。あたしがいるのは東洋の日本であって、神様と時間は宗教的に関係ないのだった。でも、だったら、なぜタイムマシンだのタイムループだのと西洋では言うのだろうか。

東洋にいるあたしからは、どこかが矛盾している理屈のようにも思えるが、人間なのだから完璧に一貫した考えを持つことがそもそも、おかしいのだろう。

精神的なことは人間によって違っていて当然なのだ。

あたしはそう思い、虎男を見る。

虎男はなぜか、向かい側の鋪道を見ている。あたしたちは白い柵で囲われた鋪道を歩き、車道には帰宅時ということも相まって走る車の数は多かった。

あたしは虎男の視線を追う。あの場所は、昨日のステーキハウスとも近い場所だ。

視線の先にある鋪道には、横断歩道のそばに花束がいくつも手向けられていた。

「……誰か、亡くなったのかな」

あたしが言ったものの、虎男は黙ったままだった。その表情は悲しげで、何かを隠しているようにも見えた。

「虎男……?」

「……行こう、都三奈」

それだけ言って、虎男はあたしの肩に触れる。彼の手は温かかった。けれども、彼の表情はどこか寂しそうに見えた。

あたしの心の中に不安が広がる。まるで、青いインクを透明な水が入ったコップに垂らしたかのようだ。

何? 虎男、正直に言って。

彼が隠し事をするたびに、あたしの心が震える。

見れば、向かい側の舗道では事故の目撃者がおらず、目撃情報を募る看板がそばに立てかけられていた。

もしかして、虎男は何かを知っている? 知っていて、何かを隠している?

彼が事件のことを――いや、彼が事件を起こした、ということはないだろうか。

そこまで考え、あたしは心の中の衝撃を受けとめきることができなかった。動揺はきっと、表情にも表れていただろう。

もしかしたら、いや、そんなことは――。

重そうに足を動かしながら、ゆっくりと歩き去って行く虎男。

あたしは、彼の姿をただ目で追うことしかできないのだった。


第2章:すれ違ったままで

その後の虎男との日々は幸せだった。

仕事が忙しくて、ここ数日はあまりに疲れて家に帰ったきり、すぐに寝てしまうことが増えた。

生活のためだ。仕方ない。

でも、虎男との大切な時間を奪われ、大きな寂しさを感じないわけがなかった。

それに、この前の虎男の何かを隠している態度。

あたしは、胸の奥に広がる不安を打ち消すことができなかった。

虎男は優しく、普段と何も変わらない。あたしに対して、辛辣な態度を取ったり、そういう言葉を言ったりもしない。けれども、あたしには、虎男が答えにくい質問を避け、疑惑をかわしているような気がしてならなかった。

職場でも、あたしは休憩時間の、同僚の会話に集中できなかった。何日も、ずっと上の空で人の話を聞いている。虎男のことを思い返すたび、あたしは心が影に侵食されるような思いだった。疑念と言う、闇を引き連れた大きな影だ。自分が疑っていることが、強い罪悪感となって心にのしかかる。不安が大きくなり、胸を締めつけた。

仕事終わり、あたしは虎男と待ち合わせをした。今日は海辺をまた二人で歩きたい。そう思ったからだ。

モノレールで湾岸地域へと行き、観覧車が見える駅の近くで待ち合わせをした。

虎男との初デートでの場所でもあり、二人にとっては思い出深い場所だ。その後、何回かこの場所には二人で来たし、虎男と初めて手を繋いだのも、この場所だ。この場所に来るときは、いつもあたしの方が虎男よりも早く着いている。虎男の職場から来た場合、少し電車の乗り換えが面倒なことも原因の一つ。だが、あたしの方がこの場所への思い入れが強いということもあるだろう。

あたしはどことなくウキウキした気分で、夕方にも関わらず人の多い駅の改札口で虎男を待っていた。

「お待たせ、都三奈」

虎男が穏やかな笑顔とともに現れた。あたしは彼が無事に来てくれたことに胸を撫で下ろしたが、同時に胸の奥が痛むような思いがした。

「ううん、今来たところ」

いつも通りのやり取りを行い、駅の改札口を離れる。ただ、あたしは虎男の瞳の奥にかすかな翳(かげ)りを見たような気がした。

二人で海近くの遊歩道に来て、地平線に沈んでいく夕陽を眺めながら話をする。

あたしは半ば唐突に話を切り出した。

「ねぇ、虎男。最近、何か隠していることがあるよね。そのことが気になっているの」

虎男の瞳が一瞬、たじろいだような色を浮かべる。だが、それもほんの一瞬のことだ。

「隠していることって? 何のことか、わからないな……。どうしてそんなことを言うんだ?」

「奈美江のことや、この前の――事故があった鋪道のこと」

あたしはそこまで言って、一旦、言葉を切った。

「最近ね、虎男があたしに隠しごとをたくさんしているような気がする。あたしを信じてくれなくなって、虎男がどこか遠い存在になったような気がするの」

あたしは、もうそれ以上言うことができなかった。くやしいけど、あたしは虎男を傷つけてまで核心に迫ることはできないのだ。虎男が心底優しい性格だと知っているのは、彼女であるあたしだけだからだ。

あたしは虎男の瞳をまともに見れなくなって、視線を外す。

ふと遊歩道の先を見ると、見覚えのある顔が現れた。あたしの友人、奈美江だ。奈美江はあたしを見つけると、驚いたように片手をふって呼びかける。

「都三奈! こんなところで会えるなんて偶然。二人でデートしていたの?」

「まあ、そうだけど」

見栄を張るように、あたしは言った。虎男の彼氏はあたしであって、他の人じゃないのだから。

「ヒューヒュー、熱いね、お二人さん。いつもラブラブでうらやましい」

何よ、奈美江ったら。茶化すのもいい加減にしてくれないと。

ただ、あたしはそう言われて別に悪い気は全然しなかった。あたしと虎男との関係は誰にも邪魔できないもの。奈美江がこう言うくらいだから、やっぱり虎男と奈美江の間には何もないのだ。拍子抜けするくらい、やきもきしていた自分が浅はかだった。

「本当はね、心配していたの。でも、真実を言うと、都三奈を傷つけるだけだってわかっているから」

「え……?」

あたしは奈美江の言葉に驚きを隠せない。

とっさに、隣にいる虎男をあたしは見た。けれども、虎男は呆然としたような表情で奈美江を見ている。

「奈美江? 一体、何を言っているの」

あたしが言うと、奈美江は少しおびえたような表情で言葉を返した。

「ううん、やっぱり何でもない。二人が幸せだったら、それで良いの。わたしが、おかしいことを言っているだけ。デートの邪魔をして、ごめんなさい。邪魔者はもう、消えるからね」

奈美江はそう言ったまま、足早にその場を去って行った。彼女が向かった先は近くに駅がある方面だ。もっと夕日が地平線に溶け行く様子を眺めたかったのではないだろうか。それに、あたしには奈美江の言葉がひどく不思議に感じられる。

あたしは虎男の方を上目遣いに見た。虎男が視界の端で、あたしに気づいた様子があった。

彼がぽつりと呟く。

「奈美江には、俺が見えてないのかもね」

どういうこと? 虎男は確かに、ここにいるじゃない。虎男も虎男で何を言っているのだか。

「虎男、何を言っているの? あなたは、ここに確かにいるじゃない」

「そうだけど、奈美江さんは都三奈の友達だから、俺よりも都三奈のことが好きなんだよ。だから、俺と都三奈が一緒にいるのは、友達を取られたようで悔しい気持ちになるんじゃないか」

ああ、そういうことか。

あたしは納得して、虎男の言葉にうなずいた。

「なんだ、そうならそうと奈美江も言ってくれれば良かったのに。ここ最近、こっちは不安で大変だったっていうのに」

虎男が微笑み、あたしの頭にそっと手を添えた。

「心配させて、本当にごめん」

そのまま、あたしの頭を愛おしむように撫でる。あたしはくすぐったくなる気持ちを噛み殺しながら、虎男の体に頭をあずけ、沈み行く夕日を陶然とした心持ちで眺めていた。


第2章:揺れる記憶

その後も、虎男との関係は良好で申し分なし。仕事さえなければ、片時も離れず、虎男のそばにいたいくらい。そんなことを考えつつ、仕事をテキパキとこなし、働いていた。

今日もかなり速いペースで仕事を片付け、あたしは虎男との待ち合わせ場所に向かった。この前とは違い、虎男は普段通り、あたしよりも早く待ち合わせ場所に来ていた。

今回は、いつものように駅近くの街を歩くデートコース。

二人で街をそぞろ歩き、鋪道を歩いていたときのことだった。

そう言えば、この近くは、虎男と一緒に行ったステーキハウスがある場所だ。あたしは周囲を見渡し、ある方向を見つめる。

目撃証言を募る立て看板。

あった。あの、交通事故の現場だ。

あたしは虎男と一緒にいるにも関わらず、つい事故現場の方へ視線を向ける。

手向けられた花束は、どれも色鮮やかなものばかりだった。

あたしは、そっと目を伏せる。

――誰かがここで亡くなった。その事実に、あたしはひどく悲しい気持ちをおぼえる。

胸が痛い。どうしようもなく。

それに、あたしは何か忘れているような気にもなった。何か大切な、でも、思い出せないことがあったような気が……。

「都三奈?」

虎男が心配そうに、あたしを見てきた。あたしは黙って首を左右にふり、「ううん。何でもない」とだけ言った。

「そんなわけ、ないだろう」

虎男が、あたしの頭を軽く撫でる。

「思い出しそうになったんだね。わかるよ」

虎男? 彼が何を言っているのか、訳がわからない。

「どういうこと? 虎男、本当のことを言って」

「無理だよ。俺からは何も言えない」

虎男は優しい目で、あたしを見つめている。

「虎男……」

あたしは彼に近づき、疑問をぶつけた。

「ねぇ、虎男。あたし、忘れていることがあるのかな? 虎男は、それをおぼえている?」

虎男は驚いたような表情をしたが、すぐに普段の優しげなものへと戻った。

「何を言っているんだよ、都三奈。安心してくれ。心配することなんか、何もない。そんなこと、考えなくていいんだ」

あたしは虎男の言葉に違和感をぬぐえない。なおも言い募り、虎男に詰め寄った。

「どうして? 虎男はやっぱり、何かを隠しているじゃない。あたしの知らない、何か。どうして言ってくれないの。ここではっきりさせましょう」

虎男は、あたしから視線を離す。そのことに、あたしは心を鋭いもので突き刺されるような思いだった。

どうして? 虎男、どうしてなの……。

虎男は、あたしから視線を外したまま、呟くように「ここから離れよう」とだけ言った。

あたしは心の中に湧いた、あふれるような感情を引き留めるのに必死だった。そうしなければ、心のままに虎男にあらん限りの言葉をぶつけていただろう。

にじむ涙をこらえながら、あたしは黙っていた。

虎男は踵を返し、駅へと向かって行く。

焦り。怒り。猜疑心。嫉妬心。霧がかかったような記憶。

涙が一筋、頬を伝う。それでも、あたしは虎男に対して傷つけるような言葉をぶつけることはできないのだった。

 

第3章 揺れる思い

その後、数日は虎男の言葉が頭の中でくり返し、響いていた。

 

――何を言っているんだよ、都三奈……安心してくれ。

安心してくれ――……。

心配することなんか、何もない……。

心配することなんか……何も――……。

そんなこと、考えなくていいんだ――……。

 

あたしは思考をふり払うように、軽く首を左右にふった。

もっと、この霞がかった記憶――記憶の一部をはっきりさせたい。

本当は、何があったのかを。

そのためには、友人の奈美江に会わなくてはならない。

彼女が知っていること。彼女が見聞きしたこと。

それらがすべて、虎男が隠している過去につながっている。


あたしは部屋のカーテンに手をかけ、外の陽光に目を細める。

今日は週末でもあり、職場に行く必要はなかった。

奈美江に会いたい。彼女に会って、ゆっくりと話をしたい。


その日の夕方。あたしは奈美江が働いているビルのそばで、彼女が退勤するのを待っていた。

すでに、奈美江とは会う約束を携帯でしている。

多くの人がショッピング目的でビルを出入りしている中、奈美江の姿が見えて、あたしは手をふった。

「こっち!」

奈美江に向けてそう言い、彼女がこちらへ駆けてくる。

やはり奈美江の服装は特徴的で、この前の恰好もそうだが、今日はパンクスタイルできめている。とげとげしい鋲が打ち込まれたベルトだの黒革のジャンパーだの、あたしだったら着ることのないタイプの服を着こなしている。

二人でビルの地下へ行き、一緒に夕食をとることになった。

うらやましいことだが、奈美江はショップ店員としての特権で、ビル内のショッピングや飲食は多少割引ができるらしい。勿論、自分自身のときの場合に限り。あたしは定価で飲食をとることになり、おごりということにはいかない。

それほど高い価格の夕食ではなく安堵したが、もし奈美江が高級デパートに勤めていたら大問題である。そうしたことは言葉にこそ出さないが、次に奈美江と話すことがあるとすれば、そのときは奈美江が働いていない日にしようと思った。

「それで、話って――?」

奈美江が切り出し、あたしは数日前に起こったことや、虎男が言ったことを説明した。

「それで、この前に車がスピードを出して、あたし達に向かってきたことがあったでしょう。そのときに、奈美江が言ったよね、『この近くで虎男を見かけた人がいる』って。そのことについて、いろいろ聞きたいの」

「ああ、あのときのことね」

奈美江が片手を口元にあてて、考え込む様子を見せた。

「近くに住む花屋さんのご主人とわたしは実は親戚同士でね、近くで事故が

あったでしょう。ほら、目撃証言を募る看板が立っているけれど。看板を見ていない? ああ、見たことがあるの? そう。その付近でね、虎男くんを花屋のご主人が見たっていう話なのよ。それも、事故があった当日にね」

「本当に?」

あたしは信じられない思いで奈美江に尋ねた。

奈美江が一瞬、驚いたような顔をする。

「すべて、本当のことよ。だからね、もし虎男くんが何かを目撃していて、事故のことについて知っているのだとしたら、証言をしてほしいの。どんな些細なことでもかまわない。事故に結びつくような情報があれば、教えてほしいのよ」

あたしは考え込むが、これと言って有用な情報は思いつかない。

差し当たって言うなら、虎男が何かを隠している素振りを見せていたことだ。

あたしは事故現場付近に行くと、虎男の様子がいつもおかしくなることを伝えた。

奈美江はうなずいて、注文したサイダーを一口飲んだ。

「なるほどね。虎男くんがそれを話さないのは、きっと辛くなるからなのね。わたしも、事故現場の花束を見ると辛いもの。何もできない自分自身が責められている気がして……。ううん、わたしなんかじゃ力にもなれないのはわかってる。虎男くんは都三奈の彼女だもの。都三奈がそばにいてあげるだけで、虎男くんも元気になれると思うのよ。だからね、もし事故のことで何か伝えられることが少しでもあるなら、協力してほしいのよ」

カラン、と注文したアイスコーヒーの入ったグラスで、少し溶けた氷がかすかな音を立てた。あたしには何も言うことがない。何も話をすることができない。

あたしの脳裏に浮かぶのは、どこか遠い世界を見つめているような虎男の横顔だけだった。

「ねえ、都三奈」

あたしの名を奈美江が呼ぶ。あたしは顔を上げ、彼女を視界の正面にとらえた。

「ずっと、ずうっと友達でいてね。約束よ」

奈美江の目の端には、うっすらと涙がにじんでいる。

あたしは黙ったまま、ついには奈美江から視線を外して、うつむいた。

彼女の中にあたしはいて、あたしの中にも彼女はいるのだ。まったく同じ姿はしていないけれども、思うことは似通っている。

虎男のことを自慢するたび、友達には嘘だの虚言だの散々言われた。でも、思い返せば、奈美江だけは、あたしのことを肯定してくれた。そういうことを言わなかった。

あたしも――あたしには、もっと虎男のことを友達に普通に伝えることができるはずだった。変な意地を張って、どうしようもなく虎男のことを持ち上げた言い方をして。

それでも、そんなすごい彼氏ができたんだって、彼女は言ってくれた。応援してくれた。

それで、十分じゃない。あたしのことを理解して、受けとめてくれたのは、友人の奈美江だった。そんな彼女にひどい感情を抱いて、許さないなんて思って。

あたしはあふれ出しそうになる涙をこらえていた。

彼女の思いを確かめるような言い方をして。本当に、あたしったらなんてひどいことを……。


しばらくの間、二人して黙り込んだ後、あたしと奈美江は夕食をとった後にビルを出た。

にじんだ涙のせいもあって、料理の味はあまりおぼえていない。ただ、胸の奥はじんわりと温かいもので満たされていた。

彼女と別れた後に駅へと向かった。

電車に乗り込み、外の景色をぼんやりと眺める。

虎男――虎男は事故現場で一体、何を見たの? あたしに話せないようなこと?

彼の横顔が脳裏に再び浮かんで、また消え去っていった。

 

第4章 隠された真実

あたしは抱え込んだ情報をもとに、翌日、虎男と会う約束を急にとりつけた。虎男の方も別にあたしとの約束を断るようなことはせず、別に用事もないから、と待ち合わせに応じてくれた。

いつも街を歩く際の駅で待ち合わせをし、あたしは改札口で虎男を待った。

今日の虎男はどこか様子が違い、息せき切った様子で待ち合わせの場所までやってきた。

二人でカフェに行き、向かい合うように座った。

虎男の表情には元気がなく、昨夜は良く眠れなかったのか顔色も悪かった。

「あのね、虎男」

あたしは、おずおずと話を切り出した。

「昨日、奈美江と会ったの。最近、虎男が何かを隠しているように思えたから。でもね、彼女が言うには、虎男が――」

「都三奈」

言い終わる前に、虎男があたしの名前を呼んだ。

「もう止めないか。都三奈は知らない方が良いことなんだ」

「あたしが? どういうこと?」

虎男は、あたしから視線をそらす。その瞳には、深い苦悩が浮かんでいた。

胸の奥がざわつく。ただ、その正体が一体、何なのか。あたしには何もわからなかった。

「……話せば、都三奈が傷つく」

ようやく虎男が言葉を口にする。苦渋の末に言葉にして言った、そんな様子が見え隠れした。

「別に、それでもかまわない。あたしね、虎男が何を見たのか知りたいのよ。いつも何かを隠していて、辛い思いを抱え込んだような虎男を見るのは、もう嫌なの。はっきり言ってほしいのよ」

虎男はうつむき、肘をついて両手を重ねた。考え込んでいるようだった。

あたしに、何を伝えるべきか、と。

「……俺が、守れなかったんだ」

「……え?」

虎男の言葉に、あたしは驚きを隠せなかった。

いつも、あたしのことを守り、そのために体まで鍛えている虎男。

その虎男が、あたしのことを守れなかった?

「俺は、あの日、都三奈を守れなかった。だから、本来なら、ここにいてはいけない人間なんだ。罪滅ぼしの気持ちで俺はいるけど、本当なら、都三奈は俺を離れるべきなんだ。俺のそばに、ずっといてはいけないんだよ」

あたしは口元に両手を添える。なぜ、そんなことを虎男が言うのか、理解しようとしてもできなかった。

「虎男、あたしを守れなかったって、どういうこと? そのときに、一体、何があったの?」

「それは――」

虎男は重ねた両手を何度か揉むように動かした。けれども、ようやく決心がついたように、あたしを見た。まるで過去と決別するかのような、強い意志を感じる瞳だ。

「あの日、俺は都三奈と一緒に歩いていた。あのステーキハウスから帰る途中で、俺の携帯が鳴ったんだ。会社の上司からの電話で、翌日の仕事に関することだった。話が長くなりそうだったから、都三奈とは、その場で別れることになった。でも、その後――」

あたしは、なぜだか耳をふさごうとした。なぜ、そんなことをしようとしたのかはわからない。

「その後、何があったのかはわからない。俺は電話をしながら駅の方へ歩いていた。車の鋭いブレーキ音が聞こえていたのかもしれない。ただ、俺には電話の会話以外には気に留めるような音は聞こえなかった。何も知らずに、俺は駅までの道を歩いて、家に帰った。都三奈が亡くなったと知ったのは、翌日のことだ」


嘘――。

あたしは虎男の言葉が信じられなかった。

これは、彼一流の冗談に違いない。それでなければ、あたしにドッキリを仕掛けて驚かそうとしているか。

嘘、嘘、嘘。

あたしは言葉を失い、黙り込んだ。


虎男の言い分を信じるなら、あたしは既に死んでおり幽霊になっているということ?

冗談じゃない、そんなこと嘘、嘘、嘘に決まっている。

「嘘じゃない、すべて本当のことなんだ。都三奈」

虎男が言うものの、あたしは信じきれない。

もしかして、あたしの嘘と作り話の癖が虎男にまでうつったのではないか。そんなことすら、思ってしまう。

「はっきりさせよう、都三奈。これからの将来を、それぞれが前へ歩いていくために」

思考が混乱する。虎雄、もう止めて。そこから先を言わないで。お願いだから。

「納得できないのは、わかっている。でも、もう君を苦しめるのは終わりにしたいんだ」

嘘。そんなこと、信じられない。

あたしは涙でにじむ視界の中、虎男がテーブルの下で足を動かすのを見た。

反対に、虎男の向かい側には、あたしは座っているものの、ふわっとした感じだ。

その上、照明に照らされてあるべき影も存在していない。何の影も存在していない。

あたしは、あたしが椅子に腰掛けているということを認識できないでいた。顔の真下に視線を移動しても、誰かがそこに存在し、座っているという事実すら見ることができない。

「そんな、そんなことあり得ない。本当は……」

「もう苦しまなくていいんだよ、都三奈。君は君のままでいいんだ。君は、あるべき姿のままでいるべきなんだ」

あたしの肩に虎男が片手を置く。

温かい。人間の温もり。彼の思いを感じるほどの、熱い手のひら。

「今までいろんなことを言って傷つけて、本当にすまなかった。都三奈にもいろいろ言いたいことがあったと思う。それでも俺のことを許してくれるなら、都三奈には――」

虎男の頬を涙があふれるように伝う。それでも、虎男の顔は、にこやかに微笑みをたたえたものだった。彼なりの、精いっぱいの優しさとともに。

「都三奈には――俺のことを忘れてほしくないんだ。俺も都三奈のことを忘れない。だから、消える前に、俺にそう言ってほしいんだ。一言だけでもいいから」

あたしは頬を伝う涙を抑えることができなかった。何度も両目の涙をぬぐう。それでも、追いつくことはできなかった。

でも、あたしは言わなくてはならない。

虎男との幸せだった日々。虎男がそばにいて、笑いあえた日々。

あの日々を、あたしは――。


「忘れないよ、虎男」

あたしは思いを込めて、虎男に大切な言葉を伝えた。

大好き。大好き。あたしは虎男の一番の彼女で、ずっと忘れられない彼女で、最愛の彼女なんだ。

あたしは何度も涙をぬぐう。

虎男も涙をぬぐい、いたたまれなくなったのか、あたしを連れて手早く会計を済ませた後、カフェの外に出た。


あたしは、ずっと、ずっと虎男のことを忘れない。

虎男のことは、あたしが遠くの場所から見守ってあげる。

そうだ、そうだ。

あたしにある考えが思い浮かぶ。そうすればいい。

本当は、ずっと前から――こうすれば良かったんだ。

あたしは心の中で思いを固める。声にならない声で、あたしは虎男に向けて伝えた。


決めた。虎男に守ってもらうのではなく、今度は、あたしが虎男を守ってあげる。

あたしの愛の証明。

いつまでも。いつまでも。

あたしは虎男を愛している。

ずっと遠く。虎男の手の届かない場所から――。


カフェのドアベルが虎男の後方で鳴った。店内から出て来た、ある親子が虎男の方を見る。

明らかに不審そうな表情で虎男を見ると、足早にそばを通り過ぎていく。

母親に手を引かれた男児が、ついに黙っていられず、声を上げた。


「ねえ、ママ! あの人、何を持っているの?」

五才か六才かになる男児。その子が虎男を指さして言った。

母親は驚きに目をまるくして立ち止まる。その後、恐る恐る虎男の表情を確認して、男児を制するように手を引いた。虎男に聞こえないように、小声で話す。

「止めなさい、早く行くわよ」

ほとんど引きずるようにして、母親は男児の手を引いた。二人が向かう先は、駅への方面である。その最中にも、男児は興味津々といった様子で何度も虎男の方をふり返った。

たまらず、男児がひときわ大きな声を上げる。

「えっ、ママ。その『いえい』って、いったいなに? あの男の人がもっていた大きな顔写真のこと?」

母親は無言のまま何も答えずに、二人は虎男からだいぶ離れた場所へと歩き去った。


虎男は、ようやく周囲が静まり返ったことに安堵した。細い枠におさめられた遺影を片手でそっと愛おしむように撫でる。

硬質な手触り。写真には、ある日の都三奈の笑顔がおさめられ、今も彼女の美しさは色あせることがなかった。

遺影を持ち歩くことで、あるときは笑われ、あるときは傷つくようなことを言われた。取られそうになって、殴り返したこともあった。

ただ、虎男はそれでも彼女のそばにいたかった。

彼女の笑顔にずっと、見守られていたかった。

いつまでも、最愛彼女は都三奈だけなのだから――。

虎男は、じんわりと微笑をたたえ、遺影をもう一度だけ片手で撫でた。

愛しているよ、と呟きながら。


〈了〉

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東西 七都
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