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【小説】灰色の海に揺蕩う⑦

 ボロボロの机の前で呆然としてから、澄華は職員室に駆け込んだ。
 まだ教師の大半が出席していない職員室は、ガランとして静まりかえっている。その中で一人、パソコンに向かっているのは教頭だった。ひょろりとした体型で、黒縁の眼鏡をかけている。昔の担当教科は理科だったらしい。時々、代理で教壇に立ったりしている。
 それは、ともかく。
「教頭先生、ちょっと、教室がヤバいです」
 要領を得ない澄華の説明に、怪訝な顔をしながら教頭は腰を上げた。
 3組の教室。
 関口あざみの机を見て、教頭が口に出した一言はこの上なく澄華の心情を表していた。
「なんだ、こりゃ」
 本当に、なんなのだ。これは。
 喘ぐようにしながら、澄華は教頭に対して訴えていた。
「なんとかして下さい」
 その後の教頭の行動は迅速だった。
 既に出勤していた校務補に連絡を取り、倉庫から新しい机を持ってくるように言いつけると、デジタルカメラでズタズタにされた机の撮影を始めた。校務補が持ち込んだ机と、ズタズタの机を交換し、生徒指導室に机を運び込む。木屑を綺麗に掃いて、ゴミ箱に捨ててしまえば、そこにはいつもの教室の風景が広がっている。
 澄華が机の惨状を報告してから、僅か三十分ほどの出来事だ。
 ――管理職って、さすが。
 見当違いに感心していた澄華は、そのまま教頭によって生徒指導室へと連れて行かれた。
 あれは、この間、転校して来た関口さんの机です。
 朝、登校して来た時にはああなっていました。
 関口さんが誰かと喧嘩していたかは知りません。
 関口さんの家族についてですか?
 えーと、クラスのタカサキさんとクラミチさんが、LINEの友だちに聞いたとかで、大きい声で話していました。
 多分、3組の人間なら誰でも知ってます。
 ハイ、分かりました。
 今日のことは誰にも言いません。
 出勤してきた順に、クラス担任・生活指導・体育教師・養護教諭が入れ替わり立ち替わり話を聞きに来る。視界の隅には、悪意の総決算みたいな机がある。何度か同じ話を繰り返して、始業時刻のギリギリになってから、澄華はようやく教室に戻ることを許された。
 教室の中のざわめきは、いつもと何ら変わらない。他愛の無いおしゃべりと、朝の挨拶が満ちている。
 机の上に投げ出したままの鞄から、教科書やノートを取り出して机の中に突っ込む。始業の鐘から少し遅れて、クラス担任のタテイシが教室の中に飛び込んできた。
 相変わらず、利き手のジャケット袖が汚れている。
「スマン、遅れた。日直、号令かけて」
「きりーつ」
 日直のやる気の無い声。ざわめきと共に、生徒たちがガタガタと立ち上がる。
 澄華はチラリと教室を見回した。相変わらずのブレザー姿。無表情のあざみが、何事も無かった様に自分の席に着いているのを見て、澄華は妙に安心した。

■■■■■

 机の一件を誰にも言わない、と教師に約束したが、あざみ本人には伝えても良いのでは無いだろうか。その日の授業は、そんなことを考えていたせいでずっとモヤモヤしていた。
 クラス担任も、生活指導も、特にあざみを呼び出す気配は無い。
 いつ教えるつもりなのだろう。
 澄華は段々と腹が立ってきた。
 自分に向けられる悪意があること知らされるのは、気持ちの良いものではない。けれども、知らされるのならば早い方が良いと思う。心構えがあるのと無いのとでは、攻撃を受けた時の被害が違う。教室の海の中を泳いで生き抜いて行く為に、自衛は必要不可欠だ。
 そんなことを考えている内に結局、帰りのホームルームが始まってしまった。
 緊急の職員会議があるので、今日の部活動も委員会活動も中止だとクラス担任が告げるのに、教室の空気がドッと沸き上がる。
 議題はきっと、あざみの机のことだろう。
 話すべきか、話さないべきか。
 澄華が迷っている内に、ホームルームは終了して教室には誰の姿も無くなってしまった。
 ――まぁ、いいや。
 少なくとも、するべき事はやったと思う。
 後は大人に任せて良い。
 そうやって自分に言い聞かせながら、澄華はイスから立ち上がる。
 そろそろ、人もいなくなっているだろう。そんな予想と反して、大勢の生徒たちが玄関に屯っている光景に、澄華は眉を寄せた。
 家路に着くために、そそくさと席を立って教室を飛び出して行った生徒たちの大半が留まっているのでは無いだろうか。
 普段は静まりかえっている時間帯なのに、そこかしからざわめきが聞こえてくる。
 どこからともなく電子的なシャッター音が響いた。
 それも複数。
 妙な興奮が切れ切れに伝わってくる。
「やべぇ」
「どうすんの、あれ」
「誰だよ、やった奴」
「げー、マジ無いね」
「無理だわー」
 飛び交う感想は、何が起こったのかを知るのに全く役に立たない。
 澄華は苛立ちながら、人波を縫って自分の下駄箱に向かう。
 何が起こったにしろ、澄華には関係無いだろう。
 亮か玲が某かの情報を仕入れて来るだろうから、後から聞いてみれば良い。
 そんな風に思っていたのに、下駄箱に近付けば近付くほど人垣がどんどん密集して厚くなっていることに気が付いた。
 それから、ツンと鼻を付く嫌な臭いにも。
 ――なに、これ。
 2年3組の生徒たちにあてがわれた下駄箱。
 そこを中心にするように、生徒たちはグルリと半円を描いて固まっている。
 下駄箱に近付けば近付くほど、嫌な臭いが強くなっていく。
 人垣から頭を突き出すように下駄箱をのぞき込んで、澄華は呆気に取られた。
 卵の殻。
 野菜の屑。
 米粒。
 魚の皮。
 肉の骨。
 ぐちゃぐちゃに、原型を留めていない何か。
 それらが靴入れの中にブチ込まれている。
 下駄箱の前にポツリと、生ゴミ用の黄色い袋が落ちているのが惨状を物語っていた。
 ナマモノが腐って発酵した時に醸し出す、刺激があって酸っぱい臭いが、玄関に充満している。
 生ゴミと、学校の下駄箱。
 あまりのギャップに澄華は呆然として、それから瞬きをした。
 ――あれは、誰の靴が入っている棚だ?
 澄華は急いで首を巡らせる。
 半円を描いた生徒たちから、距離を置かれるようにして、ブレザー姿のあざみが立ち尽くしている。
 下駄箱に注がれた虚ろなあざみの目が、答えを示していた。
 パシャ、パシャ。
 また誰かがスマートフォンを構えて写真を撮った。
 死にそうな顔をしているあざみの次の行動を、興味津々に見守りながら。
 誰も、何もしようとしない。
「ひっどいねー」
「誰? やった奴」
「臭ッ」
「ねぇ、あれってさぁ」
「あ、そうかも」
「だよね」

「フジコサン」

 その名前が耳に入った途端に、澄華の頭の中でガリッと何かが擦れる音がした。
 それが痛いぐらいに噛み締めた奥歯が発した音だと気付いたのは、人垣をかき分けてあざみの前に飛び出したのと同時だった。
 血の気の引いた顔をしているあざみの腕を、有無を言わせずに掴んだ。
「帰ろう」
 一方的な宣誓。
 あざみの返事も聞かずに腕を引いたまま、上履きのまま玄関に降りると、澄華は校門めがけて走り出した。

続く

※この作品はエブリスタでも掲載しています。