”ルッキズム”の現在ー的外れな議論をしないためにー
ルッキズムという言葉を最近(とはいってもここ5年くらいの長い期間だが)、よく目にするようになった気がする。X(旧Twitter)のTLに出てくる頻度は、エコチェンバー現象の可能性もあるのであまり参考にならないが、しかし例えば民放各局や大手新聞の記事でもこの言葉を目にする頻度が上がっているような気がする。間違いなくこの言葉が、そしてこの概念が確実に人口に膾炙してきているような、そんな実感がある。しかし、ルッキズムにかかわる多くの言説が欧米で長年蓄積されてきたルッキズムの議論や、近年日本のアカデミアで真剣に取り組まれたルッキズムへの諸所の態度を踏まえておらず非常に煩雑で進展がない。同じような内容の言説が違う言葉で繰り返し繰り返し、TLに流れてくる。不思議なことにさほど本質は変わらないようなツイートであったとしても、毎回一定数の「いいね」を集めるのである。「ツイートは便所の落書き」とはよく言ったものだが、しかしそれにしても現在のこのルッキズムに関するネット上を中心とする多くの場面での議論や言説は稚拙すぎるし、改善に寄与しようとする姿勢が全く見られない。現状を肯定し、仕方がないと言うしかない今のあまりに保守的な論壇には大きな違和感がある。ルッキズムに苦しんでいる人がたくさん存在している一方で、同時にその多くが自分が美しくなることでルッキズムから解放され勝者になれると妄信している。実際には、ルッキズム的な世界に加担すればするほどその沼に捉われ続けるかもしれないにもかかわらず。私は、その保守的な論壇が成立している要因として、ルッキズムに関する解像度や共通認識の水準が低いことがあると考える。だからこそ、この短い文章がルッキズムに関心のある多くの人にとって生産的で有益な言説の土壌を提供することを望む。しかし、当然この文章は保守的なルッキズムに対する思考を否定しない。全体として、保革の両論が中立的に存在する中庸な論調が成立することを私は望むからである。
さて、ルッキズムが人口に膾炙してきた、とは言っても果たしてどの程度なのか。ここで、定量的にルッキズムという言葉への関心を観察してみようと思う。と、同時にこのルッキズムへの関心がいつ始まったのかを明確化していきたい。ここで使う指標は、月並みではあるがGoogle Trendsである。
上記の表を見ると、近年急進的にルッキズムという言葉が検索されていることが一目瞭然にわかる。また、2016年5月を起点としてこの言葉の関心の高まりが起こっていることも観測できる。だが、この小康が何を原因に起こったのかを探ってもなかなか見つからない。しいて言えば、yahoo newsの記事「「美」を愛でることと「醜」を憎むことは違う?――「劣化」という言葉とルッキズム」(2016/01/05)が該当するが、記事が一月にリリース
されているのに対してこの小康は5月の話なので、ここにダイレクトな因果関係があるとは考えにくい。では、もっと積極的にこのグラフを見たときに増加傾向に起爆的なインパクトを与えた場所はどこかを考えよう。それはおそらく2020年の6月になるだろう。この小康の要因ははっきりしている。それは、水原希子氏がインスタグラムに寄稿した「最も美しい顔ランキング2020」についての投稿である。(なお、現在この投稿は削除されて直接閲覧することはできない)ここで、水原氏は「自分が知らない間にルッキズム/外見主義(容姿によって人を判断すること)の助長に加わってしまっているかもしれないと思うと困る。見た目で人を判断するのは絶対違うと思うし、そもそも一番美しい人なんて選ぶことは不可能」(こちらの記事より 原文は削除済み)とルッキズムという言葉に直接的に言及しながらこのムーブメントへの抵抗を表明した。この投稿は6月13日にされたが、6月16日にはAbemaで「水原希子ルッキズム批判に賛否の声」と題して特集が組まれた。このことからも、水原投稿が社会に与えたインパクトの大きさがうかがえる。一方で、この投稿が社会に与えたインパクトはルッキズムへの興味を涵養するという単純な意味だけではない。
投稿の原文でも、またAbemaでの報道のされ方でも同様にルッキズムという言葉が「外見主義」ないし「外見至上主義」と解されている。このファーストインパクトにおけるルッキズムの解され方は、本国におけるルッキズムの理解の仕方に大きな固定観念を植え付けたように思う。特にその影響を表面化し、強化したのは上智大学の「ソフィアズ・コンテスト」だろう。このコンテストはルッキズム批判の文脈から、いわゆるミスコン、ミスターコンを取りやめ人間の内面性を評価するものとして新たに出発したものである。このコンテストの思慮の浅さについて指摘している人がいる。ルッキズムを専門的に研究している社会学者の西倉実季は「「内面重視」のコンテストを「ルッキズ ム」に一石を投じるものとして評価しているのは、この言葉を「外見至上主義」や「外見を重視する価値観」と捉えているためで」(西倉 2020 p.148)あって、「従来よりも内面を重視するような審査基準に変更を加えただけでは、ミスコンやそれに類するコンテストが孕む問題をすべて克服したことにはならないはず」(西倉 2020 p.148)と批判している。ここで西倉が指摘しているように学術的なルッキズムの議論や定義を無視して、ルッキズムが一面的に「外見至上主義」として理解されることが根本的なルッキズムの問題の議論や解決に益していないという現状がある。西倉は上記の文献のなかで、非学術界の議論や視座を学術界が認識しきれていないことを課題として言及し両者を統合するような形での議論を進めようとする。しかし、この文章ではあえて統合するような形ではなく純学術的な環境下でいかにルッキズムが取り扱われてきたかについて、まず紹介していきたい。つまり、「外見至上主義」という言葉だけでない多面的なルッキズムの世界とはいかなるものなのか、ということである。
さて、ではルッキズムとは何であろうか。
この言葉の歴史が浅いということは、先ほどのグラフからもわかるだろう。それは、英語圏での原語的な”lookism"であっても同様である。PJシャファーリク大学のPeter Takáčによれば、1978年ワシントンポストの記事で「FAT PRIDE」運動における肥満の人々に対する偏見や差別を概念的に記述するために使われたのが”lookism"の初出だという。(Peter Takáč 2020 p,59)では、
この1978年に使われた"lookism"にはどのような意義があったのか。前提として、この時代のアメリカにおいて外見に基づく差別というのが公然と行われる土壌があったことを知っておいてもらおう。それはいわゆる「UGLY LAW(醜陋法)」の影響である。1867年に制定されたこの法律は1974年までの100年以上にわたって、公衆を不快にさせるような姿の者が公共の場に出てくることを禁じていた。この法律がアメリカ人にとって外見に基づく社会的な差別の温床を形成したことは言うまでもない。そのような中で、1978年にワシントンポストの記事の中で”lookism"という言葉が使われたことは差別の暴露としての大きな意義がある。また、もう一つ大事なことはルッキズムという言葉ができたからと言って純粋現象としてのルッキズムがその時点からできたわけではないということである。あくまで歴史的で継続的な現象に対する問題提起として、この言葉には意味がある。(そういう観点で言えば、より人文学的に歴史の視座からルッキズム的な現象を抽出する試みが今後望まれていくことだろう)
では、そのような差別を暴露する言葉としてのルッキズムについて、学術的にどのような議論が展開されてきたのか。あるいは、ルッキズムはどのような現象を対象としてきたか。
そもそも学術的な議論を成立させるには、仮説を建てた上で検証ができ、さらにそこに反証可能性がなければならない。もちろんこのようなフォームにきっちりと合わないものも取り扱われないわけではないが、しかし学術的な営為を成立させるにはその土壌が整地されたものでなければならないことは多くの人の理解するところだろう。だから、ルッキズムについての学術的な議論もそのようなフォームに適合しやすいものを中心として取り組まれてきた。例えば、労働や雇用の場におけるルッキズムがその代表的な例だろう。
福助株式会社が2013年に企業の採用担当者200名に実施した調査では、実に96.0%という高い割合で企業の採用に当たって「見た目が印象を左右する」と回答している。このような採用活動は単純に、「企業側が労働者を平等に扱うべきだ!」というたぐいの簡単な批判によって看破されるような単純な話でないことは想像に難くないだろう。では、ルッキズムが取り扱ってきた労働側面における問題のうち主となるものを紹介する。
それが容姿を経済的に価値づける「容姿は資本である論」、いわゆる”EROTIC CAPITAL”(美的資本)などと言われる議論である。労働者の個別的な”美しさ”をお金を稼ぐ能力として扱うときそれを美的資本と言い、またそのような資本によって成立する労働を美的労働と言う。美的な形質を持ち、それでお金を稼げるならばそれも自分にあるスキルであって、採用基準から美的資本を除外するのは企業の利益を考えれば納得のいく話ではない。もし容姿以外の形質が同一条件の労働者が採用面接に来たとして、容姿の優れている方の労働者に企業が大金を稼ぐ能力があると判断し採用することは民間企業の「採用の自由」の観点から言ってとがめられるべきことなのだろうか。ここには、大きな難しい視点がある。単純に美的な価値観によって労働者を排斥することは、その賛否を判断しづらいかもしれないという点である。本当に顔採用のようなことをしていたところで、それを認定しとがめることは難しいからである。つまり、直接的に労働雇用面におけるルッキズムを批判するのはおそらくできないということだ。だが、重要なことはそういった美的労働の裏にある差別的構造である。一般に美的労働の対象となるような労働の多くは、女性によってその主たる労働が賄われてきたも多い。例えば、百貨店の化粧品コーナーのスタッフなどがわかりやすい例だろう。あるいは、風俗産業においてもその市場規模は女性を労働者として扱うもののほうが格段に大きい。つまり、美的労働には単純なルッキズムの表象現象の側面だけでなく、男女の性差を基とした差別的な構造が存在しているのではないか。もし、そのような構造が存在するのだとすれば既存のフェミニズム的な観点からこの美的労働について批判をすることが可能になる。では、男性の美的労働についてはどのようにルッキズムの議論が回収されるべきなのだろうか。やはり同様にジェンダー論的な回収、つまり異性に期待される在り方の再現という意味でのルッキズム批判が展開されるのかもしれない。このように現在のルッキズム研究の多くがジェンダー論やその他の差別(たとえばエスニシティや貧富の差のような)の議論に接続する形でルッキズム的な現象を批判しているという現状がある。
だが、個人的にはそれだけでは納得感が足りないような気もする。つまり、ジェンダー論の観点で言うならば、男性にも女性にも通底する一貫したルッキズムの批判軸が存在しないと言い切れるだろうか?例えば、いわゆる「清潔感論争」はジェンダーを越えた部分でのルッキズムの議論にはならないだろうか。あの人には清潔感があって、あの人にはない。清潔感があるからと言って、それぞれの人間が自分の持つ性的な魅力やコモディティ化された形質を強調しているかと言えば、決してそうではない。中高年だろうと高校生だろうと、女だろうと男だろうとそこには一貫した清潔感の軸があるように考えられているのではないか。(もちろん、今言ったような議論がまったく的外れである可能性はある。)人間の美的な価値観に踏み込むのは難しいが、しかしだからと言ってそれを理由に純粋にルッキズム的な問題から目を背け続けるのは結局のところルッキズム的な現象自体を精緻に描出することさえもできなくさせてしまう。既存の社会学や心理学の議論との接続によって現象を描出することのみならずいまルッキズムの学術的な議論に求められていることは、ルッキズム的な現象そのものが精緻に描出された研究の蓄積である。テキストベースで現象が蓄積されていくことで初めて独立した立論が可能になるだろう。そのようなことを今後学術的には期待しなければならない。
さて、ここまで労働側面におけるルッキズムの学術的なあり方を紹介し、またその議論の在り方からルッキズム論の現状を説明した。しかし、ルッキズムについて日々ネット上でされている議論の多くは労働の場面のような特殊な状況下ではなく、もっと私的な領域の話のように感じている人が多いだろう。そこで、いくつかの観点から私的な領域におけるルッキズムの議論の論点を示し、私の見解を述べておこうと思う。この文章は学術的な側面におけるルッキズム論の現状をルッキズムという概念に対して広範な視野から興味を持つ人に向けて書かれたものである。だからこそ、そのような興味関心の人々が蓋然的に接近した領域の観点からも記述する必要性があるだろう。
第一に考えたいのは、「整形」という観点である。こういう問いを考えてみよう。それは、「個人的な美に関する意思決定に倫理的な問題が付随する可能性はあるか」という問いである。つまり、美の価値観に関して個人の自由が制限される妥当性はあるかという問いとほとんど一緒だと思ってもらって構わないだろう。ここから先の議論は主にこの問いの派生としての形をとるのでぜひ覚えておいてほしい。わからない人もその問いの派生形としての整形に関する次の問いを読めば理解が容易くなるかもしれない。というのは、「個人が整形をすることはルッキズム的に問題ではないか」という問いである。多くのひとは「そんなわけないじゃないか」と思うかもしれない。しかし、そう断言できるとも限らないのである。哲学的な話になるが、ここでまず我々は自由意志の議論について少し考えなければならない。もちろん一般的な自由意志論はアポリア(哲学的難問)であるから、ここで考えるのはもう少し特殊な範囲での自由意志論である。それは資本主義社会における自由意志の在り方である。19世紀の末以来、我々の社会は商品とその消費によって目まぐるしい回転を繰り広げながら急速に発展を遂げてきた。マルクスが言うように商品の対象は時代とともにどんどん拡大し、今では芸術作品さえもその大きさとブランドで値段が付くほど資本主義に馴致されている。美に対する価値観もその例外ではない。我々の決定は一見自身の崇高な選択によってなされているような表情をしているが、実態としては高度なマーケティングによって人知れず操作されているにすぎない。もちろん、情報があふれている情報社会にあってはすべての側面で言い当たるとも思わないが、少なくとも美の価値判断においてそのような評価を下すことに私は疑問を抱かない。youtubeでも、電車の車内でもひっきりなしに我々に脱毛を喧伝するあの広告たちを思い出したとき我々の自由意志についての理想的な妄想は瓦解する。(脱毛広告に関する論考として「脱毛広告観察 脱毛・美容広告から読み解くジェンダー、人種、身体規範」小林美香 『現代思想 特集 ルッキズムを考える 2021 11月号』p.90-105 は非常に興味深いので関心があればぜひ読まれたい)整形に関しても同様である。メディアによって拡張された美のイメージが現代では言葉になって我々に襲い掛かってきている。20世紀において美のイメージはたしかにメディアによって強く刷り込まれていた。そして多様性の21世紀にあって、そのような画一的な美の在り方は多くの人にとって消えたかのような風が吹いている。しかし現実はもっと残酷である。Twitterのような双方向型のSNSはこれまで言語化されてこなかった多くの現象を言語化する端緒となったと思う。(これを指摘している文献に出会ったことないのでもしそういう文献があったら教えてほしい)昭和の時代にはグラビアをみて「かわいい」という共感だけが育まれたのに対して、今令和にあっては「なぜかわいいのか」そして「なぜ私はかわいくないのか」という理由を分析する方向に言論の動向が変わったと思う。それは曖昧だった写真や映像に対する大衆の見解が言語化されることによって高度に一般化されるということである。そして個人の意思とは関係のないそのような強く一般化された美の塑像が我々に整形の判断をさせるのである。DAVEの駅頭広告がつい先日大炎上したことは記憶に新しい。「中顔面」、「バッカルコリドー」といった決して民主化されていない(せいぜいあのおぞましく下品な、Xのプロフィールに整形歴をまるで勲章のように記載している整形奇形界隈でしか伝わらないような)顔面表象に対する高度に一般化された美の価値基準があることが現に示されたわけであり、そしてまたそのような価値基準の存在がより多くの人に認知されることがルッキズムの苦しみを増長する格好な事例となった。以上のことを踏まえて個人的な整形の倫理的な可否について考えたときに、果たして個人的な整形は完全に自分の意思で行っていると断言できるだろうか。あなたが依拠している高度に一般化された美の概念はあなたが整形をすることで強化されないだろうか。そしてあなたが整形したその部位を見て、整形を報告するツイートを見て、ルッキズムによる社会全体の苦しみが増加しないと言い切れるだろうか。私に言わせれば、整形とは社会に対する裏切りであり逃亡に他ならない。ルッキズムに苦しみながらも、自分だけはその枠組みの中で幸せになろうとして整形をする一方で、その行為によってさらにルッキズムを増長させていく。だからこそ、整形は問題なのである。ルッキズムの問題にとって最大の敵はこの整形という行為である。私にいわせれば、整形を肯定的に語っているような人間のほとんどが資本主義に馴致されたかわいそうなマリオネットである。一生出ることのできないルッキズムの沼に整形という手段で無駄にもがくことでよりその沼から抜け出せなくなっていく。なんて滑稽なんだろうか。私に他者の整形を止める権利はないが、あざ笑う権利はある。というか、ルッキズムを申告に考えているものとして整形という行為をあざ笑う義務がある。このことについて私はっ反論を聞く余地がある。それは、反論の中にこの整形論争で描き切れていない現実があると思うからだ。なので、少々感情的にこの整形についての考えをここで述べておくことで多くの反論が上がることも期待しておきたい。(ここに述べた論理はあえて煩雑なものにしており、反論ありきで書いているということだ)
「個人的な美に関する意思決定に倫理的な問題が付随する可能性はあるか」という問いに派生する問題としてもう一つ、よく議題に上がるのが「恋人や好きになる人を容姿で選ぶことは倫理的にとがめられるべきか」という問題がある。古来、美徳として内面から相手を好きになることが言われてきたわけだが、それは本能的に内面から他者を好きになることができないことのいら返しである可能性すらある。つまり、生物として強い個体を好きになるというのは繁殖という動物の最も重要な要件からして覆らないことだという可能性もある。一方では、人間は社会的な動物であるから純に動物的な強さでなく社会的な強さとしいての内面性を評価して個人的な好悪につながっているという可能性も考えられる。だが、どちらにせよ整形の問題とこの手の問題が違うのは資本主義的なマーケティングの有無である。もちろん今後、マッチングアプリイが高度化することで恋人を選ぶことが急速にコモディティ化される可能性はあるが現状整形や脱毛に比してそうとは言えない。資本主義や商業主義の問題からのルッキズムの問題への批判が可能になる一方でもう一つ必要なのは、本能的な性質、あるいは脳科学的な見地から身体表象に関する生理学的システムが解明されることである。これは、ルッキズムが対象とする問題の限界を決めるときに大きく作用する。つまり、ここから先の問題は仕方ないよ、という線引きを科学的に線引く必要性があるという事だ。この人間の好悪と身体表象の在り方の問題は、その線引きの騰落線上にあると思う。もちろん人文社会学的に現象を精緻に見極める必要はあるだろうが、それだけでは決めきれないルッキズムの際限に位置している問題と言えるのではないだろうか。
ここまでルッキズムの学術的な議論の動向をざっくりと紹介し、またそれに伴って私的な領域での議論が今後どのように進むべきなのかということについて言及した。ルッキズムに関し様々な感情を持っている人はいると思うし、そしてそのような感情が言語化されることがルッキズム論を確立するための事例の蓄積に重要であることは確かだ。ぜひ、多くの人の声を聴かせてほしい。また、今後もより詳細な事例についてルッキズムの観点から分析する論考を時折書くつもりなのでぜひそちらもあわせて読んでほしい。
ルッキズムで苦しむ人が一人でも減ることを願って文を締めさせていただく。
参考文献は文中に記載
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