とふゐ

いま、プロフィールを読むところの君とは何か。 あるいはその周りのそれとは何か。 哲学の深淵は”哲学する”こと。 活きた思考の深淵を共有する哲学エッセイ。

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いま、プロフィールを読むところの君とは何か。 あるいはその周りのそれとは何か。 哲学の深淵は”哲学する”こと。 活きた思考の深淵を共有する哲学エッセイ。

最近の記事

11月、木枯らしの東京にて〜「ルックバック」と"私"〜

ついこの間まで着ていた半袖が、いつのまにかクローゼットの届きにくいところにいってしまった。あんなに毛嫌いしていた35℃の猛暑が少し恋しく感じられる。 北海道の秋は短い、とはしばしば道民の口から聞こえる言葉である。本州のように夏から冬にゆるりと接続してくれるような秋は北海道にはない。自然の生々しく厳しい寒さがあっという間に大地を覆ってしまうのである。けれども、初めて東京で秋を迎える私からすれば、だからといって東京の秋が長いかと言えばそれもまた違うような気がする。東京の秋も短い

    • ”ルッキズム”の現在ー的外れな議論をしないためにー

      ルッキズムという言葉を最近(とはいってもここ5年くらいの長い期間だが)、よく目にするようになった気がする。X(旧Twitter)のTLに出てくる頻度は、エコチェンバー現象の可能性もあるのであまり参考にならないが、しかし例えば民放各局や大手新聞の記事でもこの言葉を目にする頻度が上がっているような気がする。間違いなくこの言葉が、そしてこの概念が確実に人口に膾炙してきているような、そんな実感がある。しかし、ルッキズムにかかわる多くの言説が欧米で長年蓄積されてきたルッキズムの議論や、

      • 流転する時間と再来する危機-終戦記念日に寄せて-

        今年も、終戦記念日がやってくる。 お盆の、この一年でもっとも伸びやかな時間の流れを掻い潜ってこの日がやってくる。お盆の実家で過ごす時間のようなものはたしかにゆっくりとしている。私の地元は田舎だから、夜半窓を開ければ涼しい風とともに鈴虫の羽音が和らげに聞こえてくる。茶の間に行けば、延々と民放のテレビが流れていて、それを見ながらとるに足りない会話を交わす。自分では買わないような、あの日よく食べていたものが冷蔵庫には常に入っていて、さながらノスタルジックな宝箱だなと思う。いずれにせ

        • 8月、北の大地にて。

          肌を突き刺すような日差しが照り、視線の先には陽炎が揺らいでいる。腕を振れば水蒸気の分子が移動する感触が伝わる。扉を出る前に小綺麗にしたはずの身なりだって、100メートルも歩けば汗によって無に帰してしまう。東京の夏は、地獄だ。そうとしか形容できない。べつに地獄に行ったことがあるわけではないが、しかし私にそう思わせるだけのものを、東京の夏は示してくれる。まったくもって迷惑な話だ。 『往生要集』によれば、地獄というものは輪廻転生によって生まれ変わる先である六道の一つの種類にすぎな

          差別への試論〜ある一つの直感・inspiration〜

          この直感的な形式で書かれる文章はおそらくアカデミックでもなければ、あるいはエッセイ的でもなく、詩的でもないだろう。 つねに、そこにあるなにかを平面的に記すことだけをこの文章の目的として考えるほかない。あらゆる形式のようなものに対する抵抗を通して、既存のフォームに対する多様的なるものを示さなければならない。前回、「オッペンハイマー」への感想を書いた時にもこのような現代フォーマリズムへの抵抗を明確に示したが、私は一層これを強めなければならない。 そしてまた私が強く思うには、「

          差別への試論〜ある一つの直感・inspiration〜

          市民と歴史を媒介するもの〜『オッペンハイマー』から見えた歴史の実践的存在

          先日、『オッペンハイマー』をついに観てきた。昨年の海外での公開に伴う熱狂は遠く東洋まで伝わっていたから、本邦におけるこの映画への注目度は近年の洋画離れの様相とは裏腹にとても高いものとなっていた。私もその例に漏れず、この映画への渇望は日に日に高まるばかりであった。そんな中で、昨夏日本で今作が配給されないことが発表されたのだから出鼻を挫かれた思いでもあった。一方で、このくらいのことは予想範囲内、という超然とした表情をもまた私は持っていたのである。『オッペンハイマー』という題の通り

          市民と歴史を媒介するもの〜『オッペンハイマー』から見えた歴史の実践的存在

          浪人淡々譚

          浪人、と口ずさんでみる。 嫌な気持ちはしない。むしろリズミックな言いやすさがある。 「〇〇さん家のあの子、浪人するみたいよ」という井戸端会議のセリフであっても"浪人"の響きに緊張感はない。しかし、それでも現役の受験生にとってみれば、この言葉はレクイエムに等しいのも同然だろう。昨今の"現役志向"(つまり、浪人せずにどこでもいいからとりあえず大学に入っちゃおうの精神)の高まりは浪人のハードルを大きく上げている。 先日、友人3人とハンバーグを食べに行った。決して3人でいて疲れるよ

          浪人淡々譚

          絶望の国の絶望の若者たちへ〜プロローグ〜

          2023年3月1日、とある式典の壇上において私の放った言葉である。 絶望。 この言葉が静謐な広々とした会場に充満したときの感情というものはなんとも言い表し難いものであった。なにか悦に入ったような不思議な感覚がそこにはあった。しかし私がこの言葉に込めた思いは、決して単なる自己陶酔やレトリックではない。あの瞬間私は大いに真面目だったのである。これから新しい道へと行く多くの若人を前にして、希望とは正反対の「絶望」という言葉を選択したことは多くの聴衆にとって意表を突いたものだった

          絶望の国の絶望の若者たちへ〜プロローグ〜

          『SICK OF MYSELF』論考〜他者と差異の観点から〜

          映画館から出た私は、笑っていた。 ブラックユーモアと、悲劇的な結末を主軸とする映画にもかかわらず私の顔には笑みがあったのだ。劇中、衆愚な画像と人間の在り方に嫌というほど眉間にしわを寄せた。だが、映画の余韻が充満した"スクリーン2"から出た私は笑みに溢れていた。 この笑いはいったい何から来るのか、面白さなのか、意味のわからなさなのか、あるいは圧倒されきってしまったからなのか。すぐには理解することはできなかった。ただ確実なのは、私が熱狂し、興奮したことだけである。ストラヴィン

          『SICK OF MYSELF』論考〜他者と差異の観点から〜

          戦争と命のかがやき。

          「語弊があるかもしれないんだけどさ、」 令和5年八月某日、夜も深まったファミレス、クーラー直下の席。まさしく、資本主義的で頽落的な文明に四方八方を包囲されたこの場所で飛び出たのは衝撃の一言であった。 「いま日本に生きる私たちよりも戦前戦時中の日本人のほうが美しかったんじゃないかなって。」 もちろん、この言葉には文脈がある。というのも、それは現代美術というものが方向性を失い路頭に迷っていることへの議論の中で出た言葉であったからだ。 太平洋戦争へと突入していくあの混乱と破

          戦争と命のかがやき。

          思弁的アイデンティティ論。真の多様性へ向けて。

          (この文章は現代の実存の在り方を伝統的哲学の記述方で記す『実存の溶解』の前段階としての構想メモであり、その論理には依然未熟さがあることを認識しておいてもらわねばならぬ) 反吐が出た。 LGBT理解推進法案、というものが岸田首相肝入りで審議され、明らかに不十分な議論のまま、めまぐるしくも可決された。「差別をなくす」という崇高な御目的があるのだろうが、全くもってつまらない、というか表面的でくだらないもののように見える。そもそも国策としてこういった理解増進を進めることにすら違和感

          思弁的アイデンティティ論。真の多様性へ向けて。

          天才の非情さ。あるいは凡人の超えられないなにか。〜エゴン・シーレ展評〜

          年が明けてから東京都美術館にて開催してきた『レオポルト美術館 エゴン・シーレ展〜ウィーンが生んだ若き天才〜』も4月9日に会期末を控え、いよいよ後半戦というところに差し掛かってきた。開幕直後のごった返す人と、異様な熱気のようなものはそれはそれでいいのだが、鑑賞の目を狂わすものがあるので、なるべく開幕してすぐに展覧会に赴くことは控えている。今回もその通りに、会期末が近づいた頃合いを見て訪れたのだが、さすがに天才エゴン・シーレ、いかにも教養を匂わせた老夫婦から絵画という言葉さえも知

          天才の非情さ。あるいは凡人の超えられないなにか。〜エゴン・シーレ展評〜

          『未読の哲学』 〜実存的観点からの現代的再考〜

          現代というものを定義するときに、さてそれはどこからが現代と言えるだろうか。 近代は個人主義の時代であった。デカルトが「我思う、ゆえに我あり。」と言ったことが近代という時代を世界史から分節化し、駆動させた。近代は個人というものの実在を疑わない。いま、ここにアプリオリな自己というものがいて、それは認識の範疇にあるということが自明である。そんな条件の下に、近代は展開した。 であるから、近代の関心というものは自己に対しての他者であった。それは他人というよりかは、広く全ての外在物を

          『未読の哲学』 〜実存的観点からの現代的再考〜

          倫理西洋思想期末考査

          さて、この問題が皆さんに解けるでしょうか。 西洋思想分野(ルネサンス〜実存主義の最初まで)を範囲にしています。ルネサンスの出題はありませんし、範囲外の中国思想からも一問だしてるので少し総合的な力がいるかもしれません。 解答は9/14までに掲載します。 解答を送ってくださっても結構です。 まだ私も模範解答を作っていません笑

          倫理西洋思想期末考査

          "気づいたこと"に気づいたこと

          まずは、これを読んでいただきたい。 小学校の卒業文集。それは不完全で、未熟な文の延々なる羅列。親の目線から見れば、可愛いものなのかもしれないが、書いた当の本人からすれば後々には黒歴史地味たものでしかなくなるのであろう。この卒業文集もその例に漏れない。ほとんどのページに渡って書かれているものは、修学旅行にて「〜に行った、たのしかった。」とか学芸会で「〜の役をやった、団結が強まった。」、あるいは将来「〜になりたい、中学ではこんなことを頑張る」というような紋切り型がつらつらと続く

          "気づいたこと"に気づいたこと

          花火〜叫び嘆き感ず内気な日本人〜

          煌々と光る白熱灯に群がる蛾のようだな。 ー 一目して思ったのはそれであった ー 七月も下旬になり、夏の終わりがこちらに手招きし始めたような、けれどもその手招きさえも暑さにかき消されてしまっているような、そんな一日。久しく、"夏祭り"というものには行っていなかったのだが、ひょんなことから隣町の港まつりに出向くことになった。 というのもそれはとにもかくにも花火であった。行くという日、その日に花火が打ち上げられる。そのことひとつをもってして私は、そうひょいひょいと行く気もなかっ

          花火〜叫び嘆き感ず内気な日本人〜