国とは
『哲学的な100の質問』のつづき。
なんのこっちゃと言う方は、一番最初のこちらの記事をごらんください。
024.国とは?
ちょっと前置きが長くなるが、わたしは作家の高橋源一郎さんがすきだ。以前明治学院大学で在学生じゃなくても参加できる連続講義していて、会社を辞めたばっかりのときだったので都合が合って参加してた。めちゃ面白かった…
いつもゲストを呼んでいて、時には発明家だったりして、超幅広かったのだが、長谷部恭男さんという憲法学者の方のときに、
「国とは…その国の憲法のことです」
と……いや、はっきりは覚えてない!はっきりは覚えてないけど、そういうことをおっしゃられてた記憶があって。
ノート取ったけどどこか行ってしまったな…だから、違ったらごめんなさい。
でも、結構このワードはずっと頭の中にあって、この国では何が許されていて何が許されていないのかが国の形をつくっているということ、をおもった。何かの権利を重んじて何かの権利が軽んじられていることも。
最近、香港での条例の改正があったりして、対岸の火事ではないよなとおもったときもこれを思い出した。
憲法をいじるときに、はっきりと、この国の形は変わるんだろう。法が変わると行動が変わる。
自分にはあんまり関係ないだろうとおもっているうちに、国の形がめちゃめちゃに変わっていることはありうることだとおもう。
わたしはこの春まで6年間ぐらいNYに住んでいた。つまり別の国にいた。
NYの歩行者は基本的に信号をみんな無視していて、車が来てないときにガンガン渡ってて、日本のように赤信号で渡るとバチが当たる、みたいな精神はないんだな…というときに、国が違うということを意識した。(そこ?)
あと基本的に店員さんにまったく愛想がないし、店員さん同士でしゃべってるし、歌ってさえいるけど、「これある?」と聞いたときには渋々ながらも探してくれる。仕事だから。
12歳までの子を一人にしちゃいけないので、朝の登校時間になると、必ず保護者かシッターさん連れの登校風景を見ることができた。公園には親ではなくシッターさんがいっぱいいる。
なんかこまごまとしたばっかり浮かぶんだけど、わたしはそういうのを見て、今までなんとなく絶対だと思ってきたことは、国が変われば絶対じゃないんだな~とおもった。
でも一方で、英語やスペイン語や中国語の親子連れがいて、その子がふざけて何か言ってるとき「あー、こういうこと言ってんだろうなー」というのがどこの国でもおんなじなんだなーという感じで、おんなじ人間感もすごい感じた。
誰かが引いたただの線だよ、という回答もそのとおり。
でもただの線じゃないのもそのとおり。
この線のかたちがひとを攻撃したりするようなものになるのはいやだ。
住みよいものに、やさしいものに、多様性をすくいあげるものになってほしいとおもう。
まただいぶ間があいてしまった…
ずっと書いてる文章があるんだけど、だんだんよくわからなくなってきてしまった。最初は怒ってたんだけど、じゃあどうするべきだったのかなっておもったら、よくわからなくなったのだ。
かなり心身に停滞感をかんじるので、とりあえずひとつ何かをあげてみる。
過去の回答もマガジンにまとめてありますので、よければどうぞ。
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