見出し画像

舞台「オーランド」鑑賞記

 こんにちは。銀野塔です。先月、舞台「オーランド」のキャナルシティ劇場での大楽公演を観てきましたのでそれについて。
 
*******
 
 8月18日キャナルシティ劇場。7月パルコ劇場で開幕した「オーランド」の大楽公演を観てきた。大楽を狙ったというよりそこがスケジュール的にベストだったからそうなったんだが。なぜ観に行こうと思ったかというと、話は1990年代後半に遡る。白洲正子の『両性具有の美』(新潮社)という本を買ったんだが、それの一番最初に収録されていた文章のタイトルが「オルランドー」であった。舞台「オーランド」の原作小説(ヴァージニア・ウルフ著)と、それをもとにした映画をめぐって綴られていた。それを読んで、そういう話があるんだ、と漠然と興味を惹かれたが(もっとも、今読み返すと白洲氏は原作にも映画にもさほど好意的ではないのだが)、そこから原作を読むでもなく、映画を探して観るでもなく時は流れた。そして先頃、宮沢りえさんがオーランドを舞台でやる、それ以外の役は全て四人の男性俳優が代わる代わるつとめる、ということを知って、あの「オルランドー」だな、なんだか面白そう、と思って、少々迷ったがまあスケジュール的に比較的なんとかなるところだったんで観に行ったわけである。
 ちなみに、今までの人生で舞台の鑑賞経験は少ない。また、感想を書きたいという思いはありつつ時間が経ってしまったので、記憶もふたしかな面が多々あると思う。そういう人間の書いたものだと思ってお読みいただけると幸いである。
 観てよかった。スタオベした。かなりの方がスタオベしていた。ちなみに席は最後方である(迷っているうちに席がほぼ選べるところがなくなっていた)。主役としてかなりの量のせりふのある演技を続けた宮沢りえさんの存在感はさすがだったし、また残りの役を、女性の役も含めて、個別具体的な役からコロス的なものまで、入れ替わり立ち替わり演じた四名の男優の方々の演技も見応えがあった。音楽がヴァイオリン一本の生演奏というのも凄い。
 ざっくりとあらすじをいえば、オーランドは17世紀イギリスの生まれ、エリザベス1世女王の時代に女王から寵愛された(というより性的搾取されていたような感じの)美青年貴族。恋した女性の裏切りにあったり、お呼びでない相手から迫られたりして、逃げるように外交官としてトルコに赴任する。そこでジプシー(という呼称が適切かはわからないが舞台で使われている言葉を書いておく)に憧れてその生活に入ってみたりするも溶け込めるわけでもなく、そんなある日、目覚めたらなぜかオーランドは女性に変わっている。そしてイギリスに帰って生活するのだが、男性でいるときにはわからなかった女性のあれこれの大変さを感じたり、あるいは男性でいるときも自分には女性と共通するものがあったと感じたりしながら、ある人と結ばれて子どもができたりとか、娼婦たちと出会ったり、なぜか骸骨と話すシーンがあったりする。そんなこんなのあいだに時代はどんどん移っていて、最後は現代、オーランドは自分で車を運転して買い物に行ったりしている。つまりオーランドは約400年くらい生き続けているのだが、最初の時点で10代だったのが、現代でも30代の身体なのである。なぜオーランドはそんなに長く生きていてゆっくりとしか歳を取らないのかとか、なぜ突然女性に変わったのかとか、そういうことに対する説明とか謎解きは一切ない。
 原作を読んだわけではないので確かなことは云えないが、おそらく舞台にするために、大幅に翻案していると思う。また、原作小説は約100年前のもので、オーランドの人生もその時点までのことが盛り込まれていると思うのだが、舞台では現代までを含め、現代の世相に対する視座を盛り込むかたちになってもいる。
 そういうこともあってか、舞台としてはかなり抽象度が高い方に入ると思う。ここにリアリズムはなしといったような台詞(思わず笑ってしまった)もあったが、いわゆるリアリティを追求するような演劇だったら「説明的にすぎる」と感じるだろう内容も、モノローグや台詞としてふんだんに盛り込まれている。だから、そういう点で好みは分かれるかもしれないが、私にとってはとても好きな感じだった。舞台のセットもシンプルで、ホリゾントや床(最後方だったので床がよく見えた)に投影される映像や照明の効果などで場面を作っていた。そういう演出も見応えがあった。
 なんにせよ、オーランドは普通ではあり得ない長生きで、性別も途中で変わっていて、という、存在自体が不条理である。ただ、その不条理なオーランドを通して、性別とは、自分とは、時代の流れとは、ひいては、人間の営みとは、といった、深遠な問いがおのずから浮き彫りになるという感じだった。オーランド以外の役を、女性役も含めて男性が演じることで「性別とは」という問いがより彫り深く浮かびあがる感もある(そういえば、女性に変身したときは非常にいわゆる女性らしいドレス姿としてあらわれたオーランドだが、現代のシーンではパンツスタイルになっているのも象徴的だなと思った。女性のパンツスタイルが一般的になったのってわりと時代的には新しいことだし)。で、最後まで、別に答えとか救いとかがあるわけでもない。現代になってもいまだ戦乱のおさまらない世界で、オーランドはこれからも生き続けることが暗示されて終わる。
 まあ、逆に、わかりやすい答えとか救いとかがあったりしたら、このストーリーとしては興ざめだと思う。それに、オーランドほどはっきりと謎めいていなくても、人間の人生誰しも不条理だよなあと思う。私だって、なぜこの時代に、この環境に、女性として生まれてきたのかなんて、誰も答えてくれるわけじゃない。自分が何者なのかという問いだって、本当の答えはつかめることがない。とにかく気づいたら生きていて、変化する時代の中でそれなりに生きてゆかなければならない。それ自体はすごく不条理なことではある。とにかく、オーランドに凝縮された不条理さが浮かびあがらせる、存在や時代というものに対する数々の問いかけ、それはオーランドという存在のファンタジー性にもかかわらず、いやむしろファンタジー性ゆえにこそ、リアリティをもって迫ってくるものがある。
 オーランドが詩を書く人だというのも、詩歌を書く人間としてはなんか身につまされるものがあったというか。オーランドは最初の方で詩をけなされて凹んだり、最後の方で詩が売れてでもだからといって満たされるわけでもなかったりするのだが(詩をけなす人と詩を売り出す人は同一人物で、オーランドと同様何百年の時を渡って生きているらしい)、波乱の人生の中、とにかく詩を書き続けているのである。詩を書く、ってそういうことだよなあ、と思う(詩に限らず表現一般そうだろうが)。それが何になるか、とかではなく、とにかく書いてしまう。あと、詩などの作品が売れるとか受け入れられるとかについての結構シビアな視点も盛り込まれていたりして、そういうところもなにかすごく実感的にわかる気がした。オーランドが詩を書く、という設定のせいもあるだろうが、舞台全体の印象も散文詩のような感じもある。
 そして、男性であったときにはわりと恋愛方面は不遇だったっぽい(そこそこ遊んではいたと思うが)オーランドが、女性になってから、ようやくこの人と巡り会えた、というような男性と結ばれるのだが、その後のあたりが非常に私の琴線に触れてくるものがあった。オーランドは、二人は孤独どうしでつながっているというようなことを云う。二人の共通点は孤独であり、また自分の中に男女両性を持っているということだと。
 そういうふうに、自分の孤独、相手の孤独をそれとして認識していて、愛し合っても孤独が消えるわけではないということも認識して、なおかつ、それぞれの精神の中にそれぞれの両性具有性がある、ということを認識し合える関係性って、あり得るとすれば至高のものではないか? と私なんかは思っているのだった。オーランドの場合は結婚して子どもを産むわけだけれど、互いの性別がどうかとか、そこに恋愛感情や性愛が介在するかとかはケースバイケースでどうでもいいと思う。それで幸せか、その関係性を現実の中で維持してゆけるのか、というのもまた別問題だと思うが、ただそういう関係性には憧れるところがあって、そういう意味ではオーランドをうらやましく思ったりもした。でもやはりそういう関係性というのはこうやって作品の中で垣間見るのが精一杯のものかもしれない。
 いろいろと余韻を曳く作品だった。関わった全ての方々に感謝したい。
 
*******
 
 ところで、男性が女性に変わるという設定のある作品として忘れがたいものに大島弓子氏の漫画『ジョカへ』がある。こちらはなぜ変わってしまったのかという理由づけはあるが。何かに感動して泣きたくなるというようなことが滅多にない私がラストで泣きたくなる作品である。だが、作者の大島弓子氏自身は、作品としてはダイジェストみたいになってしまって不満である旨述べている。
 舞台「オーランド」も原作から考えると相当ダイジェストであろうし、作者のヴァージニア・ウルフの目から見ると納得いかないところもあるかもしれない。ただ、作者の目から見ればダイジェスト的なものであっても、何かが強く深く伝わる場合というのはあり得るもので、作者の意図と作品の受け手との関係というのはなかなか一筋縄ではいかないものだなと思う。もちろん、なんでもダイジェストにすればいい、ファスト映画で十分、という気はさらさらないが。ダイジェストにする、あるいははからずもなってしまうにしても、そこになにかしらの思い入れのようなものがないと、誰かの心に触れるというようなことはないと思うけれど。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集