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資質と意欲についてのごく私的な経験と所感
こんにちは。銀野塔です。
資質があるということと、意欲があるということについての関係についてなんとなく考えたことを。
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『クリエイティヴィティ フロー体験と創造性の心理学』(M.チクセントミハイ著 浅川希洋志監訳 世界思想社)という本を数年前読んだ。世界的な実績のある、クリエイティヴな人々にインタヴューをとった研究結果をまとめた、結構分厚い本である。インタヴューされた人々の分野は学問、芸術、ビジネス等多岐にわたる。全体としてとてもいろいろ興味深いことが書いてあったのだが、それらについて触れ出すときりがない。ただ、今日はその中でごく短く触れてあったことについて思うことがあったのでそれを。
「学生時代、自分より優れた人がいたのに、その人は意欲がそれほどなかったので後年自分の方が結果を出すことになった」といった話が二例ほど出てくる。資質と意欲が必ずしも共存していないということだ。
これについて二通りに思い当たる経験がある。
私は、研究者になりそこねた人である。ただ、自分で云うが、大学院時代、研究に対する資質はあったと思うしそこそこ評価もされてきたと思う。けれど、非常勤講師など始めて、研究者という職業を自分の中で具体化してゆく段階で挫折した。というのは、非常勤講師をやっているとどうしても身体の調子を崩すのである。数学期トライしたが、何度やっても体調を崩す、最後の学期の終わり頃は点滴を打ちながら授業しに行ったり、学期が終わって入院して病室でテストの採点をするはめになったりしていた。それで断念した。考えてみれば、それ以前も、学会の時やその後に体調を崩すケースもあり、要するに人前で何らかの話をするというようなことに極端に弱いのだ(授業でも学会発表でもその場自体は一通りこなせるのだが、そのことでの疲れが尋常じゃなく身体に出てしまうということのようだ)。だが研究者として生きてゆくには、それは避けて通れない道、だけれども、その苦手感を頑張って克服しよう、と思えるほどには、私は研究に対する意欲がなかった。さらに云えば、知っている研究者の先生方が、研究や授業以外にも、院生やゼミ生の研究指導や進路支援、学会活動、大学内外のなんとか委員とか、それから研究費を獲得するための諸雑務とか、さまざまな事柄にすごく忙しくて、時には海外も含めて結構な頻度であちこち行ってたり、という様子を間近で見ていたというのもある。非常勤講師だけでも倒れる私には絶対に無理だし、そんな生活に自分を投げ込むほど私は研究に対して意欲が持てなかった。研究に対する資質はあっても研究者としての資質はなかったとも云える。
もう一つの経験は詩歌について。これについては研究者についてとは逆のかたちだ。詩歌をそれなりに長く書いてきて、同人誌やネットなどで他の人の書いたものを読んできたりもしていて「うわあこの人すごいなあいいの書くなあ」と思った人を、そのうち見かけなくなるケースというのは結構あった。いや、私の目に入らない場所で書き続けているのかもしれないけれど、なんにしても「あれだけのものを書ける資質があるのにもったいないなあ」と思うわけである(ただし、そういう人が後に戻ってきたケースというのもままある)。その点、私は、自分によいものを書くための資質がもともとあるとは思わない。が、なんだかんだ云って、書くことを続けられる力だけはある。それも別に「続けよう」と思って続けているというよりはむしろそれが性質であるという感じ。資質があるなあと感じる人の作品に憧れてあんなの書きたいとじたばたしながら何はともあれ書き続けている。
だからって「意欲」があるとも云いきれないのだが。詩歌に対して私よりずっと意欲や向上心がある人は周りにたっくさんいるよなあと思っている。ただ、私は書くことが好きではあって、最低限の健康状態があれば自分なりのペースで書き続けることはできるみたい、という感じ。そして続けてるからっていうほどの実績などが残っているわけでもないが、それがなくても書くことはやめないんだろうなという感じ。
詩歌については、研究の場合と違って私の場合それを仕事にすることを目指さないからその分楽だなあというのは正直ある。まあ仮に目指しても、そもそも詩歌で食べてゆくというのはものすごく確率の低い道、で、詩歌を書く人が仕事としては研究者や先生ってわりとあるケースなんで、そうなれればという邪心は若干あったのだが、そういう邪心でなれるほど研究者は甘くはなかったということでもある。ちなみに現在細々とやらせてもらっている仕事は、特に好きというわけではないけれど資質としてはまああるんだろうなということを、自分の体力気力に見合う範囲でやれている感じ。
あ、そういや、若い頃会社員だったときはプログラムやシステムを組む仕事をしていて、これも資質はあったと思う。でも数年で辞めた。会社自体がしんどくて、会社のしんどさを我慢し続けるほど仕事に意欲を燃やせなかった。まあ要するに根性なしの履歴。
資質と意欲の方向が重なっている幸運な人もいるだろう。意欲はないけれど資質で何かをやっている人もいるだろう。資質はないけれど意欲で何かをやっている人もいるだろう。どのケースでも、結果や実績がついてくるかどうかは、環境や時の運などまた別の要素も絡むから簡単には云い切れないだろう。また、結果や実績を必要とするかは人によるだろうし、それが仕事なのかそうでないのかによってもいろいろと違うだろう。好きこそものの上手なれということもあり得るし、でも下手の横好きでも楽しければいいじゃないかということもある。継続は力なりということもあるかもしれないし、そうでないこともあるかもしれない。そんなこんなの中で、資質由来であれ意欲由来であれ、何かそこそこできることがある、というのはありがたいことではあるなと思っている。