【気まぐれエッセイ】「私たち」の使い方

「私たち」

この言葉を使うとき、私には1つ、決めていることがある。


それは、落ち込んでいるときに、勝手に相手を巻き込む形で「私たち」とは使わないということ。


「私は」「あなたは」と話を進めるより、「私たち」と話した方が相手に親近感を与えられるため親しくなりやすい、とよく言われる。たしかに話し相手から「私たち」と言われると「同類だと思われている」ことは伝わるよね。だからこそ私は、「私たち」の使い方には注意しているのだ。

つまり、「負け犬同士仲良くしましょうね」というニュアンスでは、絶対に使わないということ。だってそんなの失礼極まりないでしょ。


別に、明るく楽しい話ばかりしたいわけじゃないし、自慢し合い、褒め合ってばかりいたいわけでもない。マイナスな話をし合うのも悪くないし、愚痴を言い合い、慰め合うのも嫌いじゃない。むしろ必要な時間だと思っている。

だけど同じ不幸を共有しているその間も、根底には「私たちは大丈夫」という自分たちを肯定する空気が流れていなければ、ただ惨めなだけの時間になってしまう。

本気で、自分なんてクソで、この先なんの希望もなくて、惨めだ、なんて感じているときは、決して相手に「私たち」と使ってはいけないと私は思っているのだ。

傷の舐め合いは、それによって傷が治るのであれば素晴らしいヒーリングタイム。でも舐め合うことで雑菌が入り、余計に膿んでしまうなら人生のロスタイム。

もしどん底の状態で、同じ不幸を共有し合える相手が見付かったらなら「私たちこんなもんだよね」と慰め合い、クソな人生を歩んでいるのは自分だけじゃないことに安心するための間柄なんかじゃなく、「私たちは大丈夫」という自己肯定感を一緒に培う同志になりたい。

「私たち」って、そういう使い方が相応しいと思うんだよね。

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とわ 歩志華 (Hoshika Towa)
幸せな時間で人生を埋め尽くしたい私にとって書くことは、不幸を無駄にしない手段の1つ。サポートしていただいたお金は、人に聞かせるほどでもない平凡で幸せなひと時を色付けするために使わせていただきます。そしてあなたのそんなひと時の一部に私の文章を使ってもらえたら、とっても嬉しいです。