【気まぐれエッセイ】振り幅は大きい方が好き
中学校の同級生に、去年の今頃、久々に会った。
中学生の頃から、芯が強く美しかった彼女は、お金のかかりそうないい女っぷりに磨きがかかり、ますます素敵な女性になっていた。
美人だとか知的だとか、話していて楽しいとかいい女だとか、そういったことで言えば魅力的な友人はたくさんいる。でも彼女のようにお嬢様気質の友人は少なくて、私は久々に触れる類の価値観に、なんだか今更救われる気持ちになった。
彼女が価値を置くものたちは、私が10代、20代に1番長く過ごした環境には馴染みのないものだったからだ。
例えば学歴。
昔から成績が良かった彼女は、関西で有数の名門大学を出ている。「真面目に勉強している人=ダサいガリ勉」というその考えこそがダサいだろ、とツッコみたくなる価値観を持つ人の割合が比較的高い環境で、その価値観に馴染めないまま思春期を過ごした私にとって、彼女の「高学歴であり、それに相応しい仕事に就いていること」に対する誇り(もちろん肩書のみならず、それだけのものを積んできたという自信)や、恋人にもそれを求める拘りに、何故か救われた気持ちになったのだ。
それは彼女が、美しいからに他ならない。
「勉強=芋いガリ勉がするもの」というスクールカーストの頂点がヤンキーである田舎の学校特有の偏見を、見事に覆す、凛とした美しさと上品な色気が、私のつまらないコンプレックスを、掻き消してくれるようだった。
じゃあ、私は勉学に励んでいたのか?と言えば、それは別の話(笑)高卒の私が、彼女の、学歴や社会的地位を重視する価値観に癒されるなんて傍から見れば意味不明かもしれない(笑)。
たぶん8割くらいの人が多感な年頃に感じたことがあるであろう「真面目に頑張ること」への抵抗。そしてそんなガキ臭い価値観に振り回されることへの羞恥心や、そんな自分への嫌悪感。当時抱えていた複雑な劣等感を、彼女の迷いない生き方と洗練された美しさが一掃してくれたと言えば分かってもらえるだろうか?
こんな風に書くと、私は10代、20代を自分にはそぐわない環境で過ごしたように思われるかもしれないが、そういうわけでもない。子どもの頃から(小学校高学年くらいからは特に)窮屈な集団生活と、その中では当たり前とされている広い世界から見ればちっとも当たり前じゃない風習から、今すぐにでも逃げ出したいと思っていた私が当時選んだ環境は、たぶん、そのときの私にとってベストだった。
だからこそ、あるコミュニティでは価値があるとされることも、また別のコミュニティでは価値を失うことがあるってことに、救われる気がするのだ。
人それぞれ価値観が違うだなんてそんな当然のこと、色んなタイプの人と関わってみなければ忘れてしまいがちだ。私はそれを改めて感じる瞬間が、たまらなく好き。往復する世界の振り幅が大きいほど私は、フラットに戻れるから。自由に改めて気付くことができるから。そして 、コンプレックスのくだらなさにも。
色んな人と関わって、色んな環境に身を置き、色んな価値観に触れて、どこにも染まらず、でもそれぞれからいい影響を受けて、私はこれからも、私らしさを磨いていきたい。
そう思ったのがついこの間のようだけど、考えてみればもう1年以上経つ。今この瞬間のことも、数年後にそんな風に振り返るのだろうか。
今日も、ちゃんと生きよう。
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![とわ 歩志華 (Hoshika Towa)](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/8432105/profile_05c2e28ed49a5e9875f53f136e07f1d7.jpeg?width=600&crop=1:1,smart)