【気まぐれエッセイ】夜より朝が辛いとき

よく歌詞やドラマのセリフでは夜が辛いって出てくるけど、本当に苦しいととき、私の場合辛いのは決まって朝だ。

「あぁ、また、朝が来てしまった。また1日が始まる」そう感じるときは、私にとって本当に辛いとき。

例えば金銭的な悩みがあるときは、恐怖と焦りが朝の光とともにいっきに押し寄せてきて、心身を鉛のように重くする。「働かなくては」という想いと同時に、当面へとへとになるまで働いたところで到底必要額には及ばないという絶望感が、「全て面倒くさい。もう何もせずに毛布にくるまっていたい」と、私をベッドに貼り付けにする。

失恋してしばらくは、目覚めた瞬間に「あぁ、ひとりぼっちなんだ」って嫌というほど思い知らされるし、オーディションに落ちたり、人に傷付く言葉を浴びせられたりした翌日は、目覚めると同時に「私なんて」という無価値感に苛まれ、こんなに傷付いているのに休んでいられない今日が、ほとほと嫌になるのだった。


昨日をやっとの想いでやり切ったのに、「さあ、活動しなさい」と言わんばかりに日はまた昇る。今日頑張っても、明日の朝また同じように「頑張りなさい」と太陽は言ってくる。「1日の用事を全て終わらせ、1人ベッドの中でテレビやスマフォを観る至福のときが、ずっと続けばいい」という廃人的願望は、その時間を楽しんでいる夜よりむしろ、世界一心地良い場所である自分のベッドから出なければいけない朝にこそ、強烈に湧いてくるのだ。


ただもしかすると、命の危機を感じているとき(重病にかかったり余命を宣告されたりした場合など)は、夜の方が辛いのかもしれない。夜は気を紛らわせるものが少ないからね。というのも、私が人生で最も悩んだことは「人は誰しもいつか死んでしまう」ということで(病気になったわけでも余命を宣告されたわけでもないんだけど。小5~中2くらいまでがピークだった。そのことについてはまた別の機会に詳しく書いてみようと思う)、そのときばかりは夜眠る前が1番辛い時間だったからだ。今最も心地良いと感じている時間が、当時の私にとっては1番恐ろしい時間だった。そう考えると、多少朝が辛くとも、夜を心地良く過ごせるということは、最低限必要なもの、つまり「命」に恵まれている証しなのだろう。それさえあれば、人はこの世で、何だって出来る。


そして重たい朝が例え何度繰り返されようと、朝日を心地良く思える日が必ずまたやって来ることを、私は知っている。絶望的な朝と同じだけ、希望に溢れる優しい朝を、迎えたことがあるからだ。最初は照らされるほどに暗く感じる闇も、いつしか差し込んだ光で溶かされていく。だから、大丈夫。


幸せな時間で人生を埋め尽くしたい私にとって書くことは、不幸を無駄にしない手段の1つ。サポートしていただいたお金は、人に聞かせるほどでもない平凡で幸せなひと時を色付けするために使わせていただきます。そしてあなたのそんなひと時の一部に私の文章を使ってもらえたら、とっても嬉しいです。