赤茄子を育て、斎藤茂吉に触れる

セレンディピティー。広辞苑によると「(お伽話「セレンディプ(セイロン)の三王子」の主人公が持っていたところから)思わぬものを偶然に発見する能力。幸運を招きよせる力」とある。

使い古された言葉であるけれど、偶然の出合いはいつだって大歓迎。偶然の出合いに出合うために、私は家族が図書館に行ったときにランダムに雑誌を借りてきてもらうようにしている。雑誌を隈なく読む時間はないけれど、パラパラと目にするだけで自分の知らない世界が山ほどあることを教えてくれる。豊かな気分になるのだ。


先日、借りてきてもらった雑誌のなかに1954年に創刊された雑誌『短歌』があった。短歌なんて小学校の授業で作って以来無縁なものだったし、このご時世で一番役に立たない存在にも思える。うんうんいいチョイス。パラパラと眺めていると、ある歌が私の目に止まった。

赤茄子の腐れてゐたるところより幾程もなき歩みなりけり

これは斎藤茂吉のもので、茂吉の処女作歌集「赤光」に収められているものだという。なぜこの歌が興味を引いたかというと、この夏トマト作りに挑戦したからだ。赤茄子とはトマトのことなのだ。

初夏にトマトの苗を3本買ってきて庭に植えてみた。苗から植えたからのが良かったのか、トマトはみるみるうちに育ち、六月の中旬には緑色の立派な実を実らせた。それから緑色のトマトが色づき始めたのはどのくらい経っただろうか。1ヶ月ほどしたのではないか。

七月は、梅雨という言葉に似つかわしくないスコールのような雨が降り、未だ緑色のトマトをうがつように降り注ぐ。色づく前に落ちてしまわないかと冷や冷やした。人の心配をよそに七月中旬には赤く色づいた。初めは心配はしたももの、何も策を講じなかったこともあり、「こんなに簡単に(トマトは)できるのか」と拍子抜けしてしまったのだが、そのあとが長かった。

庭の芝生をひっぺがえて作った小さな畑だ。3本のトマトは目一杯に葉を広げ、塀も超え明らかに密になっていた。それでも15個ほどのトマトが実っただろうか。だが育てば育つほど養分の横取りが始まったのか、どれも生育が悪い。

8月の長雨によって真っ二つに割れたものもあれば、色づくものの真ん中で亀裂が入り、得体の知れない芋虫が群がっているものもあった。そうなると私の手の施しようがない。トマトの末路を傍観するのみ。真っ赤に熟れたまま、大地に落とすものもあった。数日すると、割れたところから腐敗が始まっている。育ちはじめて約3ヶ月半。夏が終わろうとしていた。


そんな矢先にこの歌に出会ったのが、この歌だったのだ。現代風に訳すとこうなるらしい。

「トマトが捨てられ腐っているところがあり、そこから幾程もない歩みをして、それが妙に心にかかっている」秋葉四郎著「新論 歌人茂吉 ーその魅力再発見」P195

「〜なりけり」は詠嘆だから、「幾程のなき歩みだったなぁ」となる。茂吉は「<新しがりや>*1の側面」があるようで、珍しいものを歌に取り上げることが多いという。農林水産省*2によると、日本でトマトの需要が増えたのは、第二次世界大戦後とあるので、当時はまだ珍しい野菜だったのかもしれない。

*1 引用「茂吉を読む 五十代五歌集」小池 光著 P122
*2 参考 農林水産省HP こどもそうだんhttps://www.maff.go.jp/j/heya/kodomo_sodan/0011/08.html

私は当初、この歌は虫の視点から歌われたものかと思った。なぜなら、ちょうどその頃、元気に闊歩していた黄金虫やら蝉やらが息絶え絶え庭をうろついていたからだ。トマトと同様、虫たちも土に還る心づもりでいたような気がした。私自身もこの季節の変わり目に毎年のように体調を崩す。もし自分が土に還るのであれば、秋だろうと思い込んでいる。秋は再生の季節なのだ。

虫たちには、大地に落ちた赤茄子にそそられつつも、赤茄子に飛びつく余力は残ってはいない。息絶え絶え赤茄子の横を通り過ぎたにちがいない。そして、力つきる寸前に腐敗しつつも張りのある赤茄子を思い出したのだ。そんな虫視点で茂吉は読んだのではないか。

赤茄子は真っ赤に色づき生命あふれるように見えるものの、裏を返すと腐敗が進み、死の影が漂っている。生死は表裏一体。生から死へと反転する様を描いているように感じた。

いや、普通に茂吉目線かもしれない。すると茂吉自身の実存が立ち現れる。晩夏の生き物や植物たちの生死の境をさまようなか、道半ばの生の道程をゆく茂吉自身の生に焦点を置いているようにも思える。この歌は、時間と空間の奥行きにあり、一元的ではない。赤茄子を見た時間からズレた地点から再び赤茄子を思い出している。この多元的な時間軸を描くのは茂吉の歌の特徴でもあるらしい*3。

*3 参考「茂吉を読む 五十代五歌集」小池 光著 P15。「茂吉の歌を読んでゆくとしばしばこのような時間点を複数に取る表現に出合う。主体が分割されて複数化するような印象を生む」から

そんなことをぼんやり考えるも束の間、夏休みが終わり、息子(6歳)も二学期が始まっていた。朝起きて、息子の尻を「早く早く」とせかして朝ごはんを食べさせる。

「今日は絵の具セットはいらないの?」
「今日は図書でしょ! 図書バックを持ってって」
「帽子はかぶったの? マスクは?」

もっとゆとりを持って朝支度ができまいか。慌ただしく家から息子を送り出し、仕事に取り掛かる。それも束の間。日中になると「ただいま〜」と声がして、「そうだ、今日は学童がなんだっけか? サッカーか?」と、ユニフォームを急いで着させて、都内のサッカーに送り迎えをする。家に晩御飯ができているときもあるし、お弁当を事前に作ることもある。「遊びたい」という子どものトランプなどで付き合うこともある。目まぐるしい毎日が、まるで大縄跳びをするかのように跳ぶように過ぎてゆく。

気がつけば、庭先のトマトは枯れ果て、大地に落ちたトマトはいつの間にか姿を消していた。洗濯物干しには、木と間違えた蓑虫が蓑を張っている。どこからか金木犀の香りが漂ってくる。四月に越してきたばかりの住処だ。なんの変哲もない庭の低木が花を咲かせている。百日紅だったか。いつのまにか秋になっていた。

あの威勢よく闊歩していた虫たちはどこに行ってしまったか。あれから幾程もない歩みなのに。

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