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コロナ禍に父を看取る

「母に会いたい」と母の友人にメールをし、「夫婦なんだから会えばいいじゃない」と返答をもらっていた父が亡くなったのは、コロナ禍の2月8日のこと。父は心臓の人工弁の手術を二回しており、夏に一度心臓が止まったこともあり(幸運にも病院内だったためすぐ蘇生した)、もう一回心臓手術を医師からすすめられていたのだ。今思うと寿命だったと思う。再手術のリスクは高かったが、父は三度目の手術を決意した。ポジティブで楽観的な父に「手術をしない」という選択肢はなかった。手術は2021年10月7日に執り行われた。手術直前の父に立ち会う。私に冗談も言い、何度も「ありがとうね」と告げ、オペ室に笑いながら運ばれていった父。持ち前の明るさを保持したまま手術を迎えた父だが、コロナ禍もあり、直近2年ほどは私とはろくに会話もせず、大好きな外食もままならなかった。孫との出会いも、21年5月に一度したきりで、極端に会う機会は減っていた。

手術は無事終わったものの、術後が悪く、再び11月10日に入院することになる。そのとき私は父の命の限りを感じもしたが、父の明るさ・前向きさに甘んじ、さして思いやる言葉もかけず、異性の親子にありがちなそっけない対応をしていたと思う。

一度退院したが、血管炎で足が腫れて歩くのもままならず、再び12月22日に入院。「父が再度入院した」と私が聞いたのは、クリスマスパーティーに母を招いた12月25日のことだった。母は父の病が怖かったらしく、父の病の話題は極力避けていた。そのため父が再度入院した事実を知ったのは、ケーキを食べる終盤だった。「パパがまた入院したの」。母のつぶやきで判明したのだ。病院からの電話を一切取らなかった母は、父の死を直前まで拒み続けた。母は自分が見たくないことを徹底して見なかった。最期は医師から「緊急を要することもあるので、そろそろ電話に出てください」と懇願され、しぶしぶ母は電話を取るようになる。だが、そのことで父の様子が私の耳に届かなくなった。私とは意思疎通がままならなかった父だが、母とは毎日メールのやりとりはしていたらしい。母の「病院から電話が来て疲れる」といったメールに「ごめん、ごめん。病院が勝手に電話する」と謝っていた父は、最期までコロナ禍の母を気遣っていた。思えば父ががんばっていたのも、母のためだったと思う。母より先に逝かないと約束していたから。

2月8日日付が変わってすぐ、父が臨終の途についたと病院から連絡があり、私と母は急いでタクシーでかけつけた。病床に横たわった父の意識はまだあったし、声なき声を発することができた。それから6時間ほどだろうか、父の意識があったのは。一方的に私や母が声をかける会話のやりとりが始まった。「がんばって」の母の叱咤に近い励ましに「がんばる」と静かに頷く父。1月17日、一度危うい状態に陥ったときには、父は自分の運命が逆転することはないと察していたにも関わらず、医師から「9割は退院できる」と告げられた私は、医師の言葉を疑わずにいたため、父の臨終は青天の霹靂の出来事であり、心の準備もなく迎えたその日は、父にかける言葉も見つからなかった。「これが最期」と割り切り、死を前提にした声がけは難しい。しかたがなしに思いついたのは、父と幼少期に食べた食事の思い出だった。

私の名前を村井弦斎の『食道楽』に登場するお登和嬢から名付けただけあって、父は根っからの食いしん坊だった。休日は家族で出かけ、外食するのが日課だった。よく行ったごはん処は、浅草のロシア料理屋の「マノス」。小さい私にはボルシチは土臭く痩せ我慢して食べた。鉄板にぎゅうぎゅうに詰められた生き物の塊と小骨の抵抗に勇気を費やした「駒形どぜう」。カウンターで目の前に迫る壁に向かってミートスパゲティを食べた「レストラン大宮」。神楽坂の「坂」という名の焼肉屋。壁に大きなおたふくのお面飾りが印象的だった中野のとんかつや「とんき」。銀座の小松ストアーや吉祥寺第一ホテル内(2022年3月末で閉店するよ)の寿司屋では、父は決まってひもきゅうを頼んだ。御猪口を2つ選ぶのが楽しみだった根津の「はん亭」(足は車だったと記憶しているのだが)。おどろおどろしいビュッフェの闘牛士の絵がそこかしこに飾ってあった御殿場のロシア料理「バラライカ」。山中湖にあるジョイパティオ、ペパームーン(いま立川に出店しているよ)。正月に行った浜名湖の寸座ビラのディナー……。父と二人きりで二・三度旅行もしたこともあった。小学生のときに新潟のスキー場に行く道すがら食べた烏賊飯。10年前には北海道の祖母を訪ね、居酒屋でルイベを食べた。ルイベと言ったところで、よく聞き取れなかったようで、父は耳を傾ける仕草をする。もう一度「ルイベよ。鮭が凍ったやつよ」と言うと、「ああ」と深く息を吐きながら頷いてくれた。

「あそこの店で何を食べた、あれが美味しかった」といった話が楽しかったらしく、ひとしきり私が話をしたあとも、声なき声で「もっと話せ」と言う。だが、終始ごはんの話で終わらせていいものか、小学校高学年に上がった頃は、それまでの飽食も過去のものになり代わっており、家族でごはんを行くこともめっきり少なくなった。悩んだ末、父の手料理の思い出話をすることにした。

休日は父が台所に立ち、腕をふるってくれた。どれだけ父の手料理を食べただろうか。私の記憶の片隅にしまっていた父の手料理は、ラムの香草パン粉焼き、茶碗蒸し、あじの南蛮漬け、トルティージャと片手で数える程しかない。思わず「意外と覚えてないなぁ」つぶやいてしまったが、自分の記憶と娘の記憶が重なり共鳴したことに、父は安堵したように見えた。意識が遠のく直前は、マドリッドで作ってくれたエビちりや唐揚げの記憶をたぐり寄せた。はるばるスペインに来たのに、父の手料理ばかりのもてなしに、いささか面を食らったが、父はご飯を食べることも作ることも好きだったのだ。

かれこれ40数年生きてきたのに、父との思い出が3、4時間も話せば済んでしまったことに拍子抜けしてしまったが、それでも父は満足だったと思いたい。美味しい話の合間に「何か言いたいことはないか?」と聞くと、父は「何もない」と声なき声で言った。生前の父は大笑いが特徴で、父の同僚からは「(父の)大笑いをもう一度聞きたかった」「大笑いに元気がもらえた」と数々のお悔やみの言葉を貰っている。私も大笑いの父にだいぶ癒された、というか騙されていた。家族でごはんに行っても、父がずっと笑っている。母も私もつられて笑う。笑っている私たちを見て、さらに大笑いする父を見て、また母と私が笑う。会話をせずとも笑いがたえない明るい食卓を父は築いた。

そんな父が、今息絶え絶え、笑みひとつ浮かべず真顔で横たわっている。本当はこんな顔をしていたのか。孤独のなかで生を終えようとする父の顔をまじまじ眺めた。サービス精神旺盛の父のことだ。無意識にせよ、日頃から周囲を笑わせようと他人に向けた顔をしていたのではないか。だから、最期はようやく自分に向き合えたのではないか。父の本当の顔はこの凛々しい顔つきではなかったか。白髪染めをせずとも黒々とした父の髪の毛と眉毛からは、とうてい死にゆく人間に見えなかったが、2月8日午後2時22分、父は生に満ち溢れた顔つきのまま、静かに息をひきとった。

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3月24日、少し早めの父の四十九日を迎えました。入退院を繰り返しながらも自分の強運を信じて疑わなかった父。晩年はきだみのるに憧れていて、彼の悪癖を見習ったのか、父の亡きあとの部屋は物にごった返しており大変です。あれだけ「身辺整理をしてください」と言ったのに、捨てずにとっておく習性のせいで、母と私は父が残したパズルを完成させようと、ピースを拾っては嵌める作業に明け暮れています。四十九日経ち、いまや多くのピースは母の手中にあります。ある種事実は母色に書き換えられています。

晩年はアーティストになりたかった父。父が残したスケッチや文、写真に母も私も癒されています。先日母は一人暮らしの母の知人に「一人暮らしはどう?」と聞き、「いいわよ、自由で快適」の返答により、「私もこの路線で行こう」と決意したと言います。あれだけ心配していた母ですが、前向きに今を生きています。

ただこの世を去った父にどこか疑心を抱く自分がいるのです。あまりにも父にしてはできすぎていると。どこかに爆弾がしかけてあるのではないかとハラハラしながらの後始末は、私たちをいまだ安心させてはくれません。良きにつき悪しきにつき、すべてのピースが揃ったとき、「なーんだ、パパ。すべて帳尻があったわよ。全部計算づくじゃない」。そう安堵する日もあとわずかと願わずにいられません。「ごめん、ごめん。僕は全部考えてやっているんだよ。でも一つ大きなピースを残っている。それはあなたです。あなた自身です」。そう茶目っ気のある目で父に言われているような気がして戸惑いを隠せません。時として家族から顰蹙を買い、家族には遠慮がちではあった父ですが、つねに自分を疑わずに未来を突き進んだ父を愛したのも事実です。

一つ後悔があるとすれば、父とともに異国の地に身をおかなかったことでしょうか。当時の私には難しかった選択ですが、別の物語を語りえた行路も見たかった。結婚直後メキシコに留学した父はラテン人になりたかったと口にしていました。そのせいか、おおらかで明るく、どこか日本人離れした稀有な人でした。

さて父が残したピースとして、今後どう生きていくかは目下私の問題。それはゆっくり考えるにして、今晩は何を作りましょう。今日ばかりは父に捧げるごはんを作りましょうか。いや、私が父のために張り切るにはもう少し猶予が必要です。

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