國分功一郎著『暇と退屈の倫理学』を読んだ。
内容はタイトルの通りだが、狩猟と定住、消費社会、疎外論(ホッブズ、ルソー、マルクス)、ユキュスクルの環世界、ハイデガーなど幅広く論じられている。文体が柔らかく、とても読みやすい。本書の後半で國分は、ハイデガーの退屈論による退屈の分類を紹介しながら、それらを批判的に読み解いていく。
ハイデガーによる退屈の分類と國分の指摘
本書のメインとなるのが、ハイデガーの退屈論であり、そこを理解することが重要な部分となる。ハイデガーは退屈について、3つの形式に分類している。
・第一形式…駅で長いこと、来ない電車を待つ退屈。何かによって退屈させられること
・第二形式…気晴らしのパーティーで感じる退屈。何かに際して退屈すること。第一形式では、気晴らしで地面に絵をかいたり、葉っぱの数を数えたりするが、第二形式では、パーティー自体が気晴らしという違いがある。
・第三形式…「なんとなく退屈だ」
ハイデガーによれば、この第三形式では最終的に自己と向き合わざるを得なくなる。そもそも自由であるが故に退屈するのだから、決断によって自由を発揮せよというのだ。いかにもハイデガーらしい考え方だ。
こうした考え方に國分は否定的だ。というのも、第一形式は仕事の奴隷、第三形式は決断の奴隷で、どちらも自己喪失がおきている。
國分はハイデガーを批判的に読み解きながら論をまとめるが、詳しくは本書で確かめてもらいたい。
『モモ』が取り上げられない不思議
ところで本書を読みながら生じた疑問は、國分はミヒャエル・エンデ『モモ』をどう捉えたのかというものだ。
確かに、児童文学がいきなり登場するのも唐突な気もする。一方で、時間との向き合い方といえば、『モモ』をスルーするわけにもいかないだろう。もはや取り上げるまでもないということなのだろうか。
『モモ』は時間泥棒である灰色の男と、モモが対峙する物語であり、いかに私たちの社会が時間の節約に追われているかを風刺する物語でもある。
モモの友だちである道路掃除夫ベッポは次のように語っている。
ここでベッポが感じる焦りとは、ハイデガーのいう第一形式を生み出すものと同じだろう。仕事に追われるからこそ、時間を無駄にしている退屈に耐えられない。
「今」に集中することで、退屈から離れる。ベッポはそうすることで「たのしくなってくる」と話している。本人が「これがだいじなんだ」と言っているとおり、それを國分は〈動物化〉という言葉で表現しており、以下のようにも述べている。
しかし、そうした生き方を灰色の男たちは認めない。
モモを懐柔するために、説得に赴いた灰色の男は、モモが持っている人形に言及し、「消費」を煽る。
ここでは、そもそも暇や退屈との向き合い方を心得ているモモに対して、記号としての消費を煽る灰色の姿がよく描かれている。そして、興味深いことに、灰色の男たちはいつも葉巻を口にくわえており、それがないと自身が消滅してしまう。葉巻は、人々から奪った時間を彼らに供給する道具となっている。葉巻は時間を視覚化する道具でもある。ちなみに國分は、ハイデガーがパーティーでの気晴らしの際に葉巻を渡されたことを紹介して、それについても論じていた。
それでも『モモ』が取り上げられない理由
では、なぜここまで関連性が強い『モモ』が、『暇と退屈の倫理学』では論じられなかったのか。おそらくだが、『モモ』を読むことで私たちは、時間に追われない、本当の生き方をするべきだという結論を出してしまうのではないだろうか。そして、國分はそうした本来性をめぐる議論に警鐘をならしていた。
だとしたら、國分はなぜ『モモ』を取り上げて、批判やその読み方に注意喚起をしなかったのだろうか。その答えは、『モモ』のあとがきにある。
ミヒャエル・エンデのこの予防線の張り方はとても示唆に富むものだし、安易に『モモ』を取り上げない國分も、さすがというべきか。一度、『モモ』に対する考えを聞いてみたいものだ。