見出し画像

誰かを想い、泣いてしまう自分と向き合いながら

2024年に変わり、親戚と年1回のご飯会をしていた夕方。
突如僕がこの世で1番嫌な音とともに、テレビの画面が変わっていた。

1月1日 16:10、能登半島地震が起きた。

僕自身はもともと揺れや音に敏感な人なのですぐに気づいたが、家族や親戚は揺れに気づいていなかった。

新年早々、テレビでずーっと被災地の様子ばかり観ながら過ごし、どこか気が滅入ってしまっている僕が居た。
でも同時に、被災地の様子を目にするたびに、顔も名前も知らない人の無事を強く願っている僕がいた。

・できる限りみんな無事で居てほしい
・「お正月」という思い出が、大切な人を失った日になってほしくない
そんなことを想うたびに、1人で泣いてしまった。

同時に、SNSでは見ず知らずの誰かのために命をかけて救助に向かう人や、インフラの復旧に徹する人たちの姿がUPされていた。
彼らがいるから誰かが助かり、遠くから大切な人の無事を願う人が安心でき、寒さをしのぐことができる。

そんな彼らの勇姿と、「何もできない僕の分も頼んだ」という勝手な願いが、また僕を泣かせた。


幸い僕のご縁ある方々に被害はなく、みんな無事だった。
東日本大震災の時ほどの被害にはならなそうではあるけれど、それでも、大切なや場所、思い出を失った人たちがたくさんいる。

「自分は被災しなかったからよかった、万事OK」
そう思うこともできるだろう。

でも僕はそうは思えない人らしい。
いまだに東日本大震災の映像を見れば、見ず知らずの人を想い、被災地で奔走してくれた人へに感謝し、泣いてしまう。


泣くことを堪えることもできるけれど、そんな僕も「僕」として受け入れ、2024年の6割分くらいは泣いた。

僕にできることはほとんどないけれど、誰かを想い、願うことはできる。
「想うだけ、願うだけなら誰にでもできる」とか「結局何もしてない、無力だ」と思う僕もいるけれど、今はそれでいいと思う。

そうやって想い、願える僕がいることを認め、受け入れ、愛していく。
僕の周りで何かが起きた時、想い願うだけでなく、目の前の人のために僕の全部を懸ける。


今回の震災で被災した方と、彼らのために正月も家族も放り出して全力で頑張る方への最大限の愛を込めて。

誰もがいつもどおりの日常、“等心大” で居られる日々が早く戻ることを願って、2024年を生きていく。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?