心がつらい時は『檸檬』を読むとややマシになる:日記
生活をしてると時々、漠然とつらい気持ちになって、なんだか何もする気が起きなくなることがあります。昨日までバカみたいに周回していたゲームが、なんでこんなことをしていたのかと虚無感まみれになって、うっかりデータ消しそうになる。消さないが…。(いっそのこと消せれば一番よいのに)
そういう「なんだかな」という日は、漠然と文字列を追っていると心が落ち着くことが多いのですが、最近特に読むのが梶井基次郎『檸檬』です。
要は「つらいときに見つけた檸檬が私の心を何故かひどく満たしてくれる」というだけの話ですが、鬱屈とした著者の日記的な作品だから故に、沁みる時にはとにかく沁みる。
普段楽しんでたものが、ふと楽しめなくなって居たたまれなくなる。今の時代はTwitterを眺めていれば、週に一回ぐらいは見かける鬱の初期症状的なTIPSを見かけますが、メンタルヘルスなんて概念がなかった時代、この気持ちのやりようのなさは如何ほどだったのでしょう。「何かが私を居堪らずさせるのだ」という言は、漠然と何かがつらいときを表す一文として、あまりにも適切すぎる。
同じように今までは刺激的に見えていたもの、生きがいとしていたものが、何故だか自分を攻撃してくるように見える。なんというかこれは、「好きなものを仕事にした」ときに、起きがちな感覚かもしれません。好きで始めたことなのに、すべてが責め立ててくるように見える。
しかし、そんなときに出会うのが一つの檸檬なのです。
当たり前のことしか言っていないのですが、レモンは黄色くて、いい香りがするから良い。そういう何の文脈もない良さが必要なときがある…。『檸檬』の最後では、この檸檬を丸善の書棚に置いて帰り、それが大爆発をする…という妄想しながら、映画でも見ようと出かけていく。
なんだか鬱々としてやりきれない、モヤモヤする…そういう時は自分が仕掛けた檸檬がこの後爆発して面白いことになるぞ…と、それぐらいの思考回路でやってきたい。
梶井基次郎が『檸檬』を執筆したのは1925年、彼がまだ東京大学を結核で体を悪くし、中退する前のこと。今からほぼ100年前の才能あふれる人間も、自分たちと似たように鬱々としたのかと思うのと、むしろ救われる気持ちになりませんか。「なにがさて私は幸福だったのだ。」そう思えるように…。
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