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やっぱり奄美が好き

門松を年明けに見ることができた人はどれほどいるのか。
最近では百貨店、神社、空港で見られるくらい。

実際には、高価な本物を買える個人も、作れる人ももう少ない。
そんなことを思っていた昨年末、自宅のポストには、これが。

門松(絵)です。ちゃんと二枚あります。

いわゆる、門松の、「絵」。

神様をお迎えするための「門松」、「しめ縄」、「鏡餅」は揃えたい。
そんな人たちの想いを知ってか知らずか。

貧富の差など関係なく全ての人が暮らす家に、神様が立ち寄れますように。
そんな祈りを込めてか、村では年末これが各戸に配布される。

今年も各戸に配布された二枚の門松の「絵」は、「かたちじゃないんだよ」と、教えてくれている気がした。

やはり、神様に来ていただく為には目印が必要らしい。

一昨年、移住したばかりの年、12月初旬にポストに投函されていた物を見て「いったいこれは何?」という感じで部屋に放置し正月明けに廃棄していた私。

もはや、都会の門松と同じで玄関に貼っているお宅もほとんど見かけないのだけれど。

小さな玄関ドアの両脇に貼ってみた。
神様が、通り抜けられますように。と。

ああ……その前に、
神様が座れる場所を造らねば。
そうなると部屋を、窓を、玄関を、
掃除しなければ。
ああ、カーテンも替えたいけど、
間に合わないから洗わねば。
ドアの外側もぴかぴかにしなければ。
ベランダも片付けなければ、
どうして、通り抜ける、ってことに
なっているのだ。
辰年だからか? 
靴も、農作業用の長靴も、
綺麗に洗ってしまわねば……。
 ああ、これきっと、
年末に掃除させるための策略?
罠か?

二枚の紙を張るだけで大騒ぎになった時の心の声

そんなこんなで帰省前、ともかくも大掃除をやり終え、くたびれ果てた身体でやって来た大阪の地。

実家の近くに「門松」は、やはり見当たらなかった。

かつて法外な価格の「しめ縄」を準備して、玄関外に飾るのが、年末作業のひとつだったのに、感染症が広がって以降それさえ飾ることが無くなった。

門松は、根の付いたものを外に結ぶだけ。
けれど、それでもなかなか手には入らない。

「もうここを離れる時期だよ」と言われているような気さえしている。

訃報が多かったこの数年、祝い事もできず、しめ縄も見られなくなった。
今年こそ、またたくさん見られるかと期待していたのだけれど、「もう無くてもいいんじゃない」という感じになったか、やはり玄関前のしめ縄の姿はもうすっかり影を潜めている。

こうやって、文化は消えていくのか。

などと、感傷に浸りながら静かに過ごした年明け。
お祝い飾りがすっかり影を潜めた街。

この時期、阪神大震災を思い出さずにはいられない関西人。
その追悼の日を待ち、迎えた年明けの日。

手作りの門松と新しい鳥居

台風で倒壊した後、放置されていた神社の鳥居は、立派な石造りに変わっていた。数年間、コロナ禍で募金もままならなかったはず。

災害に遭い、感染症が広がり、それでも残そうとするのは、神道というものが日本人の無意識下に自然にあるという事なのだろうと思う。

そんな複雑な思いで過ごした日の、夕方に起こった思いもかけない地震。

奄美に移住して間もない頃、右も左もわからず、知り合いも殆どいない中で起こった津波のことを思い出した。
誰にも頼れず、どこに逃げて良いかもわからず、誰に連絡すればよいかさえわからなかった。暗くなってから逃げることは、とても恐ろしい。

『無事に年を越せることが当たり前ではない』ということをまた痛感した。被災された方が、一日も早く元の生活ができますようにと祈ることしかできない。

そして追い打ちをかけるかのように翌日には救急車に乗ることに。
奇しくもインバウント観光客からキャンセルメールが来た直後。

今年は一体どうなることやら。
厄年でもないはず。
奄美の神様が、
部屋のお掃除具合が気に入らなかったか。
それとも頻繁に留守にするからか。
氏神様、どうか穏便にお願いします。

祈らずにはいられない心

その翌日にはインバウント観光客対応。
病院にいたところで何もできることがないと、気を紛らわそうと仕事を続けた。困っている観光客の為に、と。

そして続けて羽田での事故。
空港閉鎖により新幹線予約カウンターは大混雑。
はじめての日本だったお客様は、どれほど不安だったろう。

「あなたがいてくれて、柔軟に対応してくれて、助かった。また必ず日本に来て、この会社のツアーをお願いするよ」
その言葉を胸に刻む。

それでも、思っていた。怖い、と。
この人たちに万が一、何かあったらどうしよう、と。

きっと、生きているだけで感謝、なのだ。

正月早々山積み仕事を片付け、複雑な思いで乗り込んだ航空機。
何ごともなかったかのように2025の万博デザインの航空機が横付けされて、拍子抜けした。

何ごともなかったかのよう

こうやって、関係のない所では何事もなかったかのように日々が過ぎていく。

果たして自分は2025万博の頃、どこにいるのだろう。
変わらず、お客様と共に日本中を旅していたい、と思う。

あまりにも慌ただしかった新年の一週間。
今年は、どれほど多くのことが起こるのだろうかと思わずにはいられない。

寒さと疲労でくたびれ果てて戻って来た奄美は20度の気温。
いつもと変わらない暖かな空気。

太陽が当たるとぽかぽか気持ちがいい。
プレーリードッグがお腹を太陽にあてようとする気持ちがわかる。

太陽の下、紫外線がどうとか考えるのは無駄。
暖かな日差しに筋肉が緩み、心も緩む。
同じ鹿児島なのに、鹿児島市内とは全く違う気候。
京都とは20度の気温差。

空港を出るや否や、村歌がラジオから聞こえてきた。
正午になると、村じゅうに響き渡る力強く、でも温かな音色。
小学校の校歌を思い出す。

思いがけず、午後13時ごろにラジオから流れた。
DJの女性も、村の出身者。
まるで「おかえり」と言ってくれているようだった。

例年一番人気の「たんかん」が、今成長の真っ最中。
村に戻るとすぐにあちこちでたわわに実るたんかんが出迎えてくれた。
侮るなかれ、奄美大島のたんかんは、大人気の特産品。

あちこちの畑で少しずつ色をつけ、大きく育ち始めている。
勿論、カラスたちも色づく頃を狙っている。

輸送に数日かかってしまう奄美大島。
出荷の為には、痛ませないための処理、幾つもの段階の手作業が必要。
ただ、もぎとって送ればよい、というものでもないらしい。
ハサミ入れの時期には、その後の作業も含め猫の手も借りたいほどになる。

ふるさと納税用の高級たんかんを取り扱う農家さんが、日々生育確認に余念がない季節。お正月だからと言って、休める訳ではない。

この時期、畑のお手伝いをすると何かしらいただくみかんたち。
もう食べきれないので、おすそわけにと他所に持って行く。

そして、このループがあちこちで発生する。
持って行った分だけ、また、いただく。

よく言われるのが、「何のみかんかわからないけど、お裾分け」。
冬の奄美、「みかん無限ループの術」。

こうやって、この時期、家の中には、「なにかわからないみかん」が山盛りになる。食べても食べてもやってくるみかんたち。

黄色の大きいのは、無農薬レモン。果汁たっぷり。

こっちに来てから、みかんを買わなくなった。
何なら、自分の家に木ごと一本欲しいのだけれど。
実は手入れが結構必要らしい。

手入れをしなくても勝手に実がなるパパイヤと島バナナの木が欲しい。
スモモの木とか、羨ましくて仕方ない。
けれど、ちいさなハンギングバスケットの花ひとつまともに大きく育てられなかった私。
どうやら、農家のセンスがないということを1年目で自覚した。そもそもが移動の多い私の仕事では、どうやったって、水やりができない。

とてつもない時間と労力をかけて造られているということを頭では分かっていたけれど。島に来てから尚のこと、しみじみ感じる。

農閑期以外は、旅行にも行けなくなる仕事。
日々見守られ、大切に育てられた野菜や果物たち。農家さんの愛の結晶。

不揃いな野菜、虫食い野菜が並ぶ市場は、地元の人の生活の糧となる場所。
今日も地元のおばあやおじいが、草を引き、苗を植え、水をやり、また草を引き、せっせと作った野菜や果物たちが並ぶ。

自分達が食べるもの以上に採れたものを、皆で分ける。
そんなことが、今でも普通の村。

ここで何かできないか。
地域おこしとして初めて来た頃の想いが少しだけ復活する。

疲れ果てた心と体が、少しだけ、和んだ日。

『明けましておめでとうございます』

その言葉を、出会う人たちと笑顔で交わし合えるのは、
決して当たり前ではない。

心に重く、様々な思いが残った新年。

やっぱり、ここが好き。


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