有吉佐和子『悪女について』によせて
Good girls go to heaven, bad girls go everywhere. (いい子は天国に行ける、でも悪女はどこへでも行ける)。わたしの好きな名言のひとつで、『悪女について』を読んだあと頭に浮かんできた言葉だ。
この本の主人公は、突如謎の死を遂げ、さまざまな憶測とスキャンダルが飛び交う、美しき女実業家・富小路公子。彼女を知る27人の語りから、彼女の人生と死の真相が少しずつ明らかになっていく。
27人目の次男義輝の話が謎を解くキーとなる、と解説にもあったが、わたしは彼女の真相は明らかになっていない、あるいは、27通りの真相があるだけで、1つに収束できるものではない、と感じた。一人ひとりの独白のなかに、君子(公子の本名)本人のものはないからだ。子どもたちは誰の子なのか? 彼女は、本当に無邪気な理由のために死んだのか? どこまでが彼女の悪意で、どこまでが周囲の人間の悪意なのか? 読み終わってもつい推理を続けてしまう、そんな後味の残る本だった。
有吉佐和子作品は『華岡青洲の妻』を中高生の頃に読んで、描かれる嫁姑関係と女性の内面の解像度の高さにひいいと恐怖を抱いて以来だったけれど、この作品も1978年の連載ながら全く色あせない怖さと面白さで、一気に読み終えてしまった。
個人的に読んでいて一番衝撃が大きかったのは、「その21 鈴木タネの話」。嘘つきな母から見て、「自分に似ていない、清く正しく生きている子」が、誰よりも嘘を重ねている。母すら欺く娘、めちゃくちゃ遺伝しているではないですか、とぞっと恐ろしくなる。本書の中にはいろいろな親子が登場して、親子の関係性や遺伝は、裏テーマになっているのではと思う。
美しさを追求し、賢く成り上がっていく君子。やり口はあざとく、計算しつくされているのだが、ときにだまされた当人たちもだまされたと気づいていない。読者であるわたし自身にも、「いい子」の部分と「悪女」の部分が共存していて、だからこそ君子を恐ろしいと思いながらも、ついあこがれてしまうのだと思う。
日頃は人には親切に、曲がったことはしないように、と思って生きているけれど、偽らずとも人によって見せている自分の面は異なるし、長く生きていれば一つや二つ、誰にも言わないこともある。ちょっと背伸びした贅沢を楽しむときや、お付き合いを宣言していないが複数の異性と時期が重なってお会いしているとき、よぎる罪悪感を「君ちゃんに比べたら、かわいいものよ」と思うことで勝手に免罪している、うふふ。
われわれ女の子たち、自分の好きな美しさに囲まれて、もっと自分本位に生きましょう。悪女はどこへでも行けるのだから。