散文1

「ところで」という言葉が好きだ。この言葉を唱えると、全く脈絡のない話をすることができるからだ。同じ話題ばかり話せないのは、たぶん僕は面倒くさがりだからなのだと思う。基本的に身体が怠くて、身体の怠さゆえに、普段は何をするにも面倒くさくなり、朝に関しては声すら出したくない。

朝、誰かとすれ違うときに挨拶をしようとしても、声が出ないことがある。あまりにも声が出ないので、長年悩んでいた。そこで大きく会釈することでなんとか乗り切ることを思いついた。大きく会釈することで、他者に対し挨拶をしていますよという意思表示を比較的容易にすることができた。たまにしっかりと挨拶を返されると、こちらも自然と声が出るので不思議だった。まるで心が通じたように一瞬だけ元気になれる。

面倒くさがりは直感に関しても起こる。だいたい直感が示す選択は正しいのだが、面倒くさがりがたたり理性が蓋をしてしまうことがある。例えば、(あの会社は25号線沿いだから、25号の標識が見えたら右に曲がろう)と考えるのだけど、実際に25号が見えたら(あれは25号線じゃないはず)とうだうだ考えて、25号線を通り過ぎてしまうのである。

直感が示す選択肢はおおよそ正しい。だいたい75%くらい正しい。気をつけるべきはそれを抑え込む理性の方だと日常生活の失敗から、ひしひしと痛感する。理性に関しても良い面はある。とりわけ理性による抑圧は自分の中でとても強力に働いており、怒りが沸き起こっても怒りのままに行動をすることはない。ここは自分にとって凄く良い面であると考えていて、誇らしい部分であると信じている。

直感に関しても、理性に関しても良い面、悪い面はあるのだとよく感じる。直感に関しては過去データからより良い選択肢を示してくるが、自分にとってはその信号はささやかであり、どこか自信なさげなのである。理性は常に働いていて、感情のままに行動することはないが、抑圧をし過ぎる面がある。

文字を書く時は直感を正しく拾える。恐らく、それは瞬間の選択ではなく、熟考によるものだからだと思う。正しく拾えるだけの時間があるのだろう。一方で、自分が苦手なのは瞬間の選択なので、日常生活や瞬間の選択において何か解決策はないか考えていた。直感がささやかで聞き逃してしまっているのだから、それを大きくしてあげればよいのではないか?と思った。そこで直感のささやかな信号を小さく声に出してみるという方法を最近思いついた。声に出してみることで、言語化すると直感による信号を拡大してくれるようで、理性の抑圧を少し弱めてくれることがわかった。意味があるのかまだまだわからないが、自分にとっては重要な一歩の様に感じた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?