古事記を初めて学ぶ-04 古事記と藤原不比等の関係をGensparkで調べてみ
日本書記編纂に藤原不比等が関わった様子が出てきますが、古事記については、あまり強くかかわっていないのでしょうか。
西暦700年初頭、古事記と日本書記の2本立てで、編纂が行われています。日本書記編纂に関わった藤原不比等の当時の政治力と編纂の関係はどのような流れが埋もれているのでしょうか。
政治力のある人物への忖度が日本書記に埋もれているのでしょうか。また古事記にはどの程度の配慮が内在しているのでしょうか。
古事記のヤマタノオロチは何のメタファーとして描かれているのでしょうか。スサノウの神に切り殺されるのですから、反政府側の大きな組織なのでしょうか。
イナバの白兎では、ワニに毛をむしられた兎が登場します。ワニは何のメタファー? そして、毛をむしられて丸裸の兎は何のメタファーでしょうか。
昭和世代の私は童謡「だいこくさま」の歌により、この白兎の話が刷り込まれています。この童謡は明治時代に作成され、子供たちへの刷り込みとして大いに活用されました。
童謡「だいこくさま」の様に、古事記の中のメタファーには当時の政治が関わっているのでしょうか。
このように古事記は多くのメタファーの登場によって、物語が構成されています。
古事記を読み進めると、政治との関わり、当時の政治の中にいた方々、氏族が登場する多くの神々と繋がっているようにも感じられます。
そこで、今日は当時の政治の中心にいた藤原不比等についてGensparkで調べてみようと思います。
1.藤原不比等の概要
藤原不比等(ふじわらのふひと)は、659年に生まれ、720年に亡くなった奈良時代の著名な政治家です。彼は藤原鎌足の次男であり、藤原氏の地位を確立するために多大な貢献をしました。
1-1. 政治的業績
不比等は、大宝律令の制定に深く関与し、これは日本初の本格的な法律体系とされています。また、平城京への遷都を主導し、国家の政治基盤を強化しました。彼は697年に軽皇子(後の文武天皇)を擁立し、その後見として政治の表舞台に登場しました
[1] https://www.pref.nara.jp/miryoku/ikasu-nara/ijin/fuhito/
[3] https://www.pref.nara.jp/miryoku/aruku/kikimanyo/column/c26/
1-2. 家族と子孫
不比等には4人の息子があり、彼らはそれぞれ藤原氏の異なる家系の祖となりました。長男の藤原武智麻呂、次男の藤原房前、三男の藤原宇合、四男の藤原麻呂です。これにより、藤原氏は日本の貴族社会において重要な地位を占めることとなりました
[2] http://yamatoji.nara-kankou.or.jp/artifact/0000000092
[20] https://rekishipress.com/hujiwarahuhito_familytree-9
1-3. 文化的影響
藤原不比等は、政治だけでなく文化面でも影響を与えました。彼は「日本書紀」の編纂にも関与し、古代日本の歴史を記録する上で重要な役割を果たしました
[21](https://president.jp/articles/-/78119?page=2)。
1-4. 歴史的背景
不比等の時代は、飛鳥時代から奈良時代にかけての重要な転換期であり、彼の政策は日本の中央集権化を進める上で不可欠でした。彼の死後も、藤原氏は日本の政治において中心的な役割を果たし続けました
[4](https://www.touken-world.jp/history/history-important-word/fujiwara-no-fuhito/)
[7](http://inori.nara-kankou.or.jp/inori/special/24fujiwaranofuhito/)。
藤原不比等は、659年に生まれ、720年に亡くなった奈良時代の著名な政治家であり、藤原鎌足の次男です。彼は大宝律令の制定に深く関与し、平城京への遷都を主導しました。697年には軽皇子(後の文武天皇)を擁立し、その後見として政治の表舞台に登場しました。
不比等は、697年に草壁皇子の御子である軽皇子を擁立し、彼の乳母である犬養三千代の力添えを受けて、娘の宮子を軽皇子に嫁がせました。これにより、天皇との外戚関係を持つことに成功し、彼の政治的影響力を強化しました。彼はまた、首皇子(後の聖武天皇)の即位を目指し、彼に帝王学を教え、常に目の届くところに置いていました。
不比等の死後、彼の娘である光明子は聖武天皇の皇后となり、藤原氏はその後も宮廷における発言力を強めていきました。藤原氏の隆盛は、特に藤原道長の時代に顕著であり、彼の詠んだ和歌にその影響力が表れています。さらに、彼の政策は日本の中央集権化を進める上で不可欠であり、彼の死後も藤原氏は日本の政治において中心的な役割を果たし続けました。
2. 藤原不比等は古事記編纂にも関わっているのか
藤原不比等は『古事記』の編纂には直接関与していないとされています。『古事記』は712年に太安万侶によって編纂され、元明天皇に献上されました。この編纂は天武天皇の意志に基づいて始まり、稗田阿礼がその内容を伝える役割を果たしました
1217。
藤原不比等は、後の『日本書紀』の編纂に関与したとされる重要な人物ですが、『古事記』の編纂には直接的な関与は確認されていません。彼は権力を持つ藤原氏の一員として、歴史書の編纂に影響を与えた可能性はありますが、具体的な証拠は不足しています219。
藤原不比等は、古事記の編纂には直接関与していないものの、彼の家族や子孫が後の歴史書の編纂に影響を与えたことは重要です。特に、彼の子孫である藤原氏は、後に『日本書紀』の編纂に深く関与しました。藤原不比等自身は、律令国家の構築に貢献し、政治的な影響力を持っていましたが、古事記の編纂においては、太安万侶や稗田阿礼の役割が中心でした。彼の影響力は、古代日本の歴史書の編纂において、藤原氏の権力を強化する方向で現れたと考えられます。
3.まとめ
藤原不比等本人が古事記に直接関与していたという証拠はないようです。しかし、親族や子孫によって、古事記にも影響が及んでいると読める様子が検索AIにより出てきました。
古事記は歴史書ではなく物語です。しかし、物語に似た筋書きはどこかに存在していたのかもしれません。氏族間の戦いなどが、メタファーを用いて描かれているのかもしれません。国譲りの内容は大きな戦いなのかもしれません。
さらには、血族、氏族の由緒正しさを知らせる機能を古事記や日本書記が有しているとも読み取れます。
日本は大陸から見れば、日の出る所となり、縄文時代やもっと前から色々な人々が、訪れ、住みつき、原住民族と混血を繰り返して、今の私たちがいると考えています。
つまり、私たちは原住民族と複数種の渡来人混血の最終形態として、現在の日本を構成しています。
その意味では、飛鳥時代から奈良時代にかけて、入り乱れた血族を1つの物語に組み入れ、日本の原型を創り上げた古事記は、とても素晴らしい物語であり、私たちのアイデンティティを構成する重要な書物であると思えてなりません。
今後は渡来人の流入と日本国について、Gensparkの力を借りながら、時間をかけて調べていきたいと考えています。