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喪失と向き合う 母ロス後をどう生きるか。

「忘れなくていいんだよ」

大切な人の喪失は、あっけなくやってくる。突然の交通事故、自死。たとえ病気であることが分かっていても、長い闘病生活の中でどんなに覚悟を決めていたつもりでも、「その時」というのは、あっけないものだ。

大切な人を失った後は、混乱した感情や、うまく言葉にできない想いに押しつぶされそうになる。「いつまでも泣いてちゃだめだ」「落ち込んでばかりじゃだめだ」「早く立ち直らなきゃ」なんとか日々をやり過ごすために一時的にでも忘れたいと思うけれど、これまでに感じたことのないほどの悲しみの中にいると、もう二度とその人のことや、その人と過ごした日々を忘れることはできないとも思う。学校や職場ではなんとか気丈に振舞っても、夜、一人のベットでは、喪失感に重い体が沈んでいく。

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お母さんを失って、辛いあなたに、私の個人的な話をさせてほしい。

1年前、私の母はガンで死んだ。

私の母が死んだのは、私が社会人1年目・上京して3ヶ月目の初夏。4月に入社し、配属された営業の仕事では、ようやく先輩の同行無しで、一人で訪問先に行けるようになった頃だった。

地方都市で暮らす真面目な専業主婦だった母は、私が「私の人生で最も長く」同じ時間を過ごした人だった。

私の父は、家電メーカーに勤め、Mede in Japanを海外で売るカッコいいビジネスマンだった。私はそんな父と比べ、ずっと家にいる母のことを「つまらない人」だと感じていた。

口をひらけば、ご近所さんの話や、テレビのゴシップ。
病気で目を悪くしてから、特段これといった趣味もなかった。

そんな母の人生の後半は、私と姉を育てることが全てだった。

私は、母の大きくて重い期待に、出来るだけ応えたいという気持ちと、早く離れたいという相反する気持ちを抱えながら、地元の大学へ進学し、反発するように就職で実家を離れた。

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「失ってから気づくものがある。」

「失ってから、ようやく気づくものがある」とよく聞く。
失恋した時、物をなくした時。失うまでは、意識していなかった。忘れていた。それは、水のように当たり前にあったからこそ、その価値を認識できていなかった。

使い古された表現だけど、私は母が死ぬまで、母がいることのありがたさに気が付いていなかった。失ってしまったことで、より強く存在を感じて悲しさが募る。もう十分、自分は大人になったと思っていたけれど、どうしようもなく寂しい。

母がいない「無」が、彼女がいた日々の「有」を強く感じさせる。

母の最期を看取った今、私は母のことを「つまらない」とは思わなくなった。ガンと向き合い闘病を続けた母と寄り添った日々を超えて、確かに自分の中の価値観が変わった。

大切な人の死は、決して良い経験だったなんて言えない。
言葉に言い表せないほど、重い悲しみを抱えながら生きることになる。

それでも、大切な人の死という経験が、その人の価値観や生き方に紛れもなく影響を与えて、人としての変化のきっかけになることもある。

私もこの日々を通して、自分でも驚くほどガラッと価値観が変わった。
こうした現象を医療や看護の分野では、心的外傷後成長というらしい。

身近な人の死を超えて1年、ここに私にとっての大きな変化を記録してみる。

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最後に話したこと

大学生になっても、母の意向で実家暮らしだった私は、反動で家族よりも「自分のやりたい事」や「友人」を優先する生活を送っていた。近くにいるからこそ「家族なんていつでも一緒にいられる。」そう思って、ないがしろにしてきた。

私が、母の余命が宣告されていることを知ったのは、死の直前だった。もともと目が悪かった母は、抗がん剤の治療でさらに見えなくなっていた。母がガンの治療よりも、かすかに残る視力を優先して抗がん剤を使わない選択をしたことは知っていたが、その決断から数ヶ月後、あれほどすぐに死ぬとは思っていなかった。

私は、母の亡くなる数ヶ月前まで、卒論研究や卒業旅行と、なにかと理由をつけて、大好きな海外に繰り返し行っていた。その一方、私の父は母の看病に専念していた。父も母も他の誰かを受け入れられる余裕なんてないのに、母の病状を軽くみていた私は、何度か友人を実家に招いたり、自分勝手に過ごしていた。

そうして、大学を卒業後、私は地方から出て東京で働き始めた。おそらく、その頃から急激に母は弱った。母は、もう30秒も人と話せなくなっていた。

亡くなる5日前、正午。職場にいる私のスマホに父から電話がかかってきた。電話口で父が「お母さんと繋ぐから、何か話してやってくれ。」という。

「・・・」電話に出たが、何も聞こえない。
それでも、電話口に母がいるのが分かった。

静かな電話に「今日、ようやく初めて一人で営業行ってくる。」と報告した。

そうすると、消えいるような声の「頑張って」が聞こえた。もしかしたら、泣いていたのかもしれない。

あの「頑張って」が、1年が経つ今でも、耳を離れない。

あの時の情景が耳を離れない。


電話口で、私は、無理やり口角を上げて「頑張るね」と答えた。

・・・・


その後、母は苦しくて怖くて辛い夜を何度も耐え、家族に見守られながら死を迎えた。母の1年以上にわたる闘病を、献身的に支え続けた父には頭が上がらない。

母が死んで、私は「もう甘えていられない」と思った。

もう戻るところはない。
母は、実家そのものだった。帰る場所だったのだ。
帰る場所があるから頑張ることができた。羽ばたくことができていた。

私は、ようやく自分が大人になったのだと感じた。そうして、家族をいつか消えてしまうガラスを扱うように、その存在を大切にしようと思った。

私には、父と年の離れた姉がいる。姉の家族も、父の母(祖母)も健在だ。私は以前よりも、家族に、優しく、ほんのちょっぴり丁寧に接することができるようになった。

結局、日々の幸福

母が亡くなる前、看護師さんに「意識が朦朧としていて、目が見えない状態ですが、耳だけははっきり残っているので、声をかけてあげてください。」と言われた。

息も絶え絶え、今にも死にそうな母に、何か話しかけないと、と話題を探った。色々考えたが、結局、ふと思い出すのは、日々のくだらない瞬間瞬間だった。

たとえば、お弁当のおかず。
私が一言「美味しい」と言った日から、いつも母はそのおかずを私のお弁当に入れてくれるようになった。(もう飽きていたが言い出せなかった)

初めてのペットの名前。犬なのに母が、テレビで見た動物園の白熊と同じ名前にしたいと言ってピースと名付けた。本当に思い出すのは、そんな小さなことばかり。

最後に残る思い出は、いつもくだらないキラキラとした日々の時間のカケラなのかもしれない。家族との思い出は、受験に合格した時とか、仕事ですごい成果を上げたとか、昇進したとか、そういう時じゃないみたいだ。

私は、母の死を前にして「幸せ」とは、日々の中にあるものだと確信した。お金でも権威でもなくて、最期に思い出してしまうような、本当に小さなエピソード。

それから、自分の意識の中で、
「今、この瞬間」の重要性が上がった。

こういう未来を実現したいから、私はこういうライフプランを立てて、そのためにまずは、こういう経験をして、こういう資格をとって...

そんなことが、全てどうでも良くなった。

そうして、もっと今を大切な人と一緒に生きたい。大切に思える人と仕事をしたいと思うようになった。もっと、自分をさらけ出して、それを許してくれる人と一緒にいたい。結婚したい。

結婚したくなった

能天気な私はこれまで「結婚?したくなったらするよ〜」という感覚で生きてきた。いつか結婚するかもしれないが、機会がなければ一人でもいいかなと思っていた。結婚、ましては子どもなんて、人生の選択肢の一つでしかなかった。

だが、しかし、母が亡くなってから、急に結婚がしたくなった。
もっと、言うと「自分の家族」を作りたくなった。

いつか自分の両親、きょうだいは死ぬ。もちろん、順番はわからないけれど。私が作りたい「自分の家族」は、子どもの頃を過ごした家庭ではなく、自分がお母さんとなる家庭。新しい家族だ。

自分が家族を作るフェーズが来たのだと感じていた。

家族が、いざとなった時にそばにいて支えてあげたいし、居てほしい。とにかく私自身が寂しい。お母さんとして子どもの帰る場所になって、子どもの挑戦を見守りたい。私が、いろんなことをできるように支えてくれた母のように、水のように当たり前にそこにいて「いつでも戻ってきていいからね、頑張ってね」と言えるような、大きい存在になりたい。

きっと、「家族が欲しい」という自分の気持ちは、自分の弱さに素直になったから出てきたものだと思う。一人では不安だという弱さ、いずれは今の家族はいなくなるという恐怖。そのネガティブな気持ちに素直になったからこその回答だと思う。

素直に弱さを出せる事は、きっと強さだ。

私は、一人で生きると言っていた頃より、弱くなったともいえるし、弱さを受け入れて強くなったとも感じる。これからはどんどん誰かに頼って、私も頼られたい。もっともっと、強く、優しくなりたい。

失えるものがあった、
それはとても恵まれていたこと


「全てに恵まれていて、何も失わない順風満帆な人生。」
それは、果たして幸せなのだろうか。

大切な人を失うことはとても辛い。一生、心の重みと寄り添って生きなければならない苦しさがある。少しづつ、失った悲しみは水の底に沈んでいくが、亡くなってから一年の「一周忌」その人の「誕生日」や「母の日や父の日」などのイベント。そうしたタイミングで、その人がいないことが身につまされる。もう大丈夫だと思っていた心の水が不意に揺れて、また悲しみが浮上する。ずっと心の中に悲しみが漂う。何度も、悲しさで押しつぶされる。

悲しいし、いつまでたっても寂しい。

それでも、母という人がいて、23年間も一緒に過ごすことができたということは、私にとって、本当に幸せなことだったと思う。
私のためになることを常に考え、深く深く愛し続けてくれたという事実は、私の人生において何よりの財産だ。

心配性の母は、死ぬ間際まで、私が東京から戻ってきてくれるのに、
何もごちそうが用意できていないと嘆く人だった。

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結局、残るのは自分の人生

「人はいつ死ぬか分からない。」

そんな、当たり前のことを身につまされ、人生の目的をもう一度考えるようになった。忘れなくていい。悲しいままでいい。

きっと、それが普通だから。

大切な人が、そこに生きていたこと、与えてくれたことを胸に、いつか私も、そして、あなたも、一歩前に進むタイミングが来る。すぐじゃなくて大丈夫。失った事実を受け止め、自分の気持ちと折り合いがつけられ始めたら、自分のペースで前を向こう。そして、自分なりにどう生きたいかを考えたらいいと思う。

ちなみに私は、もっと貪欲に図々しく、自分のために生きようと思っている。家族を大切にすること、それは家族のためというよりも、自分のためにやりたいこと。人をちょっとでもハッピーな気持ちにできる仕事をしていくこと、それも自分のためにやりたいことだ。もちろん、私もいつ死ぬかわからないから、誰かに会いたいと思った時に、会いたい人に連絡する。伝えたいポジティブな気持ちはすぐに言葉にしたい。

もっともっと、力強く生きたい。

「お母さん、私、頑張るね。」

ここまで、長い長い、私の個人的な話を読んでくださり、ありがとうございます。

あなたも、目一杯悲しんで、
そしてゆっくり、無理せずに前を向いてください。




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