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『ヴェニスに死す』 トーマス・マン   感想文

「神に近い美しさ」を持つ十四歳の少年を追い回す初老の男。
小説を読む前に見た映画では、その印象ばかりが目についた。

そして小説を読んで、もう一度見た映画では、主人公アッシェンバッハの求めていたものが、細かく見えたような気がした。

威厳ある作家となり名誉も与えられているアッシェンバッハでも、執筆に行き詰まる。
完璧を求めるようなその性格は、祖先たちのつつましい生き方、規律を守る気質を受け継ぐという束縛の中で、「こらえとおせ」、という言葉が響くのだろう。
更にボヘミアの官能的な母の血が入るのだから複雑なのだ。

映画では彼が身繕いして正装するシーンが多々ある。それらからは束縛しか感じられない。常に周りの目を意識し、自分を取り繕い威厳を保っている姿に痛みさえ感じた。その素ぶりは彼の本当の姿なのか。

情熱が彼を変える。コレラが蔓延してきたヴェニス、その真実の情報を知り、タッジオの一家にいち早く伝えることを思うのに、それをしなかった。
彼のモラルは壊れていった。タッジオをヴェニスに留まらせたい一心で。

彼が考えも及ばなかった姿に変貌していく。

少年への思慕、情熱の強さが常識を覆していく。
映画ではタッジオの髪を撫でながら、コレラの蔓延を一家に告げるシーンが映され、原作にはなかったと、ハッとした。それは彼の「夢想」だったのだ。タッジオと離れられないためにその告知を断念してしまう。

情熱は、理性をも阻止したと思われた。

引用はじめ

「たましいは愉悦のあまり自分の本来の状態を忘れつくし、唖然として嘆賞しながら、日に照らされた物体のうち最も美しいものにすがりついて離れない」(岩波文庫、p.90)

引用終わり

自分を忘れるほどの喜びと、予想もしなかった事に感嘆しながら、美を追い求めているアッシェンバッハ。

小説を読んで、彼の内面の深い心理と重圧とが苦しみとして伝わってきて、映画の彼への見方が少しずつ変わっていった。

生きているうちに、たった一度でも、モラルを捨て束縛から逃れ、醜く取り乱し心の平静を失うほどに真に愛するものを追い求めることはきっと私には出来ないだろう。

二度目の映画のアッシェンバッハを見て、「嫌いじゃないよ」と声が出た。最初に見た映像の彼の異質さからは遠ざかっていった。

「過ちは汚れ」だと思っていたアッシェンバッハが、モラルを超えた芸術としての美を掴んだ瞬間が、死の前のタッジオの幻だったのかもしれない。

途中、美と芸術、哲学的な内容は何度読み返しても難解で、いつかこの断片的な理解が繋がれば良いのだがと思っている。

束縛から逃避し、われを忘れ、髪振り乱し、若返りの化粧と毛染めの液体が流れてくるような惨めなアッシェンバッハの映像に、なぜかその哀感に、彼の人間味を深く感じたのだ。

美を追い求めた情熱、アッシェンバッハの死はなんとなく幸せそうに見えた。真の自分になっていた。

彼は美しい少年を愛したのではなく、その「美」を愛していたのだと今はそう思う。

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