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「燈籠」 太宰治 感想文

「女生徒」、「きりぎりす」、「斜陽」のように、女性が身の上を一人語りする作品であった。

二十四歳の下駄屋の娘、さき子。父母との関係がなんとなく有耶無耶なのは、出生の秘密のため、最も成長やその後に大きく影響されてしまう複雑な環境にあった。分かち合う弟や妹もいないので、淋しさはつのり、その為か依存気質が感じられた。
学生の水島に恋をし、その人の為に万引きをしてしまい警察に捕まった。
その行為を夕刊に載せられ、世間からの非難と注目を浴び、精神的に追い詰められて行く。

太宰は、昭和10年に芥川賞に落選して、以来精神的不安定になり、昭和11年、精神病院に入れられたそうである。その後も辺りの近親者にもわざわいが続いたということであった。
そして昭和12年にこの作品が発表されたとなると、この作品にも影響はあったのだと察した。

読後、まず感じたのは、「思い込み」、「自己憐憫」、「言い訳」という言葉だった。さき子の万引きをする不安定さや、警察での逃げ口上の支離滅裂さなど、その時期の太宰先生の独白にも思えてしまう部分もあった。
しかし、この女性への哀れみも伝わって来たのだが。

さき子は惚れやすいタイプ、一目惚れの水島や、「いやらしい」と感じていた警官が、狂ったような言動を吐いた彼女に見せた蒼い顔を好きになってしまうという変貌ぶりが、その不安定な揺れ動く心の内を感じさせた。
その訳が、いつも暗く淋しい家庭生活の中にあるようで、絶えず一つの「灯り」探し求めているような、切なさの表れではないのかと。

私の友人にも現実に同じものを感じる女性がいるのでよくわかるのだ。

世間に抗わず、万引の事件後に逃げる様に家族だけの中に引きこもったさき子。
万引きが大事件であることに今更ながら気づくのだ。
弱い両親を守ろうという優しい気持ちも、弱さの同質化で、抜け道の手だてを見つけようとしなくても心地よいだけ家族の空間に甘んじているような虚しさを感じた

引用はじめ

「今夜は、父がどうもこんな電燈が暗くては、気が滅入っていけない、と申して、六畳間の電球を、五十燭のあかるい電球と取りかえました。
——— 中略 ———   私たちのしあわせは、所詮こんなお部屋の電気を変えることくらいのものなのだ、とこっそり自分自身にいいきかせてみましたが、そんなにわびしい気も起らず、かえってこのつつましい電燈をともした私たちの一家がずいぶん綺麗な走馬燈のような気がしてきて、
ああ、覗くなら覗け、私たち親子は、美しいのだ、と庭に鳴く虫にまでもしらせてあげたい静かなよろこびが、胸にこみあげて来たのでございます」 p.17 新潮文庫 (きりぎりす)より

引用おわり

「覗くなら覗け」という言葉がさき子のその後の覚悟や決意や自信を、この電燈の明るさから触発されたようで、自らの内に灯りを灯した刹那に思えたのだった。


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