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『飛ぶ教室』 エーリヒ・ケストナー   感想文

どんなに深い悲しみを抱えていても、すぐそばにいる大切な友人や仲間でさえもその気持ちを知ることが出来ない。

引用はじめ

「人生に大切なのは、何を悲しんだかではなくて、どれほど深く悲しんだかということなのだ。神かけて言うが、子供の涙が大人の涙より小さいなんてことはなく、しばしばずっと重いものだ。ー(中略)ー たとえつらくても正直であってほしいのだ。骨の髄まで正直であってほしいのだ」(新潮文庫p.21)

引用終わり

冒頭に作者が書いた心に響く叫びが、その後の作中の心の未熟さを湛えた少年たちの悲しみを連想させた。

ドイツの「ギムナジウム」という小学校高学年から中学、高校までの大学進学のための9年制の高等学校で繰り広げられるクリスマスイヴまでの物語。

「飛ぶ教室」というクリスマス劇の稽古に忙しい生徒たち。

貧しく授業料を半額免除されている5年生の優秀なマルティンや父に捨てられたジョニー、深い悩みや悲しみをそれぞれ複雑に抱えている。腕白な姿の向こう側には、声に出せない苦しみ悲しみがあった。

傍に「信じられる大人」がいるということ、正当に偏見なく見つめていてくれている真心ある大人、良き理解者、そんな存在がどれほど少年たちの心を救ったことか。
彼らの生き様まで確実に方向付けてくれるような枢機な大人の存在になることに憧れた。

子供は常にそんな大人の存在を探しているのだろう。親でさえも信じられないジョニー、父に捨てられた苦しみと悲しみはいかばかりかと。
「気持ちさえしっかりしていれば、ひどいなんてことはないのです」(p.159)、ジョニーの言ったこの言葉は、何度も何度も苦しみを噛み締めた上での結実の一言に思えた。

信頼できる大人、舎監のベグ先生、「道理さん」と少年たちしか知らなかった「隠者」のウトホフト、「禁煙さん」は既に世を捨てているように見えた。二人は少年時代の大切な深い友人だったことが明らかになって行く。彼らは決して少年時代を忘れていないことが、少年たちの気持ちに寄り添える所以だ。

ギムナジウムの生徒と実業学校の生徒たちの人質事件を巡る戦い、マルティンの賢い作戦が卑怯な相手に勝利したシーンが見物であった。
また「いくじなし」という言葉に「落下傘」で勇気を証明して見せようとする小さな身体のウーリ。「飛んだウーリ」が「絶望の勇気」を見せた。孤独に苦しんでいた彼が成長していく。
「いくじなし」を責めたマティアスが単純骨折を起こしたウーリを見て子供のように涙を流すシーンは忘れられない。

しかしやはり一番胸に突き刺さったのは、クリスマスイヴにお金が足りなく両親の元へ帰れないマルティンのどうにもならない悲しみだった。

「泣くのは厳禁!泣くのは厳禁!泣くのは厳禁!」(p.163)帰れないことを誰にも言えないマルティン。

「とにかく離れろ!このクリスマスの空気の外に出るんだ!」(P.166)

「どうしてぼくたちはお金がないのか。ぼくたちは悪い人間か?違う、原因は何か。世の中が公正ではないからだ。そのため多くの人が苦しんでいる。どうにかしようとしているいい人々がいるが、クリスマスイヴはあさってなのだ。
それまでに世の中を直せやしない」(p.148)

それまでに世の中を直せやしない、この悲痛で切実な少年の言葉がずっと心に響いてしまった。
「泣くのは厳禁!」、どうしてもここで涙が出てしまった。

挿絵の子供の表情がなんとも言えずとてもいい。ウーリが飛んだ時の表情が点で描かれた目と口からその心まで充分に伝わってきたようで可愛かった。

ヴァルター・トリアーという挿入画家であるという。他の作品も見たが、人物の心が表情と身体から滲み出ていて温かいのだ。

ケストナーと同じく少年の心を決して忘れない人物なのだろう。

読書会、今年度最後の作品が「飛ぶ教室」でとても幸せな気持ちになりました。
ありがとうございました。

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