「怒りの葡萄」 下巻 スタインベック 感想文
此れ程辛いことに人は耐えていかねばならなかったのか。大きな力とはいえ、人が人を無闇に苦しめることは許されないのではないか。
下巻にはそれら過酷な状態の解決はなかったが、心の救いがあちこちから感じ取れたのだ。
荷物の重さと心の傷の重荷を抱えた人たちを乗せて、ジョード家族の車は仕事を探しながら彷徨っていた。
「疲れるまで力仕事をすることだけが望みなんだ」p,27と元伝道師のケイシーは、人の為に動ける機会を静かに窺(うかが)っていた。
野営地の飢えた子に、お母の最後のシチューは酷だったのか。優しさが時に仇となる緊迫した貧しさの中での難しい配慮。
そして公共の野営地の整備された環境と人の温もりに、「人並み」の感触を呼び戻し、きちんと生きるという実感をお母は感じた。久々に世間に対する「体裁」というものを思い出した嬉しそうな姿が、なんとも切なく悲しいしく感じられた。
「やっと顔を上げていられる。ここの人たちはあたしたちと同じ民ーあたしたちの仲間だ」p.149
「ここの人が良くしてくれた時、真っ先に悲しいことを思い出したんだよ」p.183と。
まるで家畜のような生活と、触れ合う人々にどれほどの心の渇きを覚えていたのだろうかと悲しかった。
そして、その温もりは長くは続かなかった。
「アカって何だ?」という人間たちを「アカ」というものに仕立て上げ容赦なく攻撃した。
「もてるもの」が己の身を守るために邪魔者を排除した。
ケイシーが、仮釈放の身のトムをかばい警察に捕まった。トムの為に身を投げ出したのだ。
トムがケイシーに再会した時には、ケイシーは民たちの為に、その待遇の為にストライキの扇動者らしき姿になっていた。
「やつらは傭役(ようえき)を競りにかけている」p.216
手間の方が作物の相場より高いのを操作するために、賃銀は下がる一方、嫌だったらいなくなればいいという酷い画策をしていた。
「お前達は子供を飢え死にさせるのに手を貸しとる」p.320とケーシーは叫ぶ。そしてケーシーは殺されてしまった。殴られて頭の骨が軋む音を聞き、その殺した相手を殴り、トムはまた罪を犯してしまった。
トムの犯した罪にはいつも真面(まとも)な事情があった。トムがまっすぐ前をみている人間であることをケイシーはよく理解していたのだ。
トムが思い出すのはケーシーの言葉ばかりだった。
有蓋貨車に一家がたどり着き、犯罪に手を染めて顔に傷のあるトムは、一人土管で暮らした。
妹のルーシーが他の子供達にトムの存在を話してしまう。
それを知ってもトムはクスクス笑った。ルーシーを決して責めなかったトムとお母。それはジョンおじに対しても然りであった。
どんな瀬戸際であっても過酷でも
、人として無意識に動かない信念と誇りのようなものが根底にある二人であると感じた。
強く生き抜ける力のようなものが備わっていることに読み手は奮い立たされる思いであった。
引用はじめ
「私たちのやることは、なんでも——生きづづけることに向けられているような気がする。そういう途(みち)なんだって思える。飢えることですらー病気になったり、死んだりすることですら、周りのものをしぶとくし、強くする。その日、一日を、何とか生きようとする」
「その日だけを生きるんだよ」p.402
引用おわり
先を考えれば考えるほど絶望的になるばかりである。明日洪水になると知っていたら今日生きることが不安で危うくなる。
「その日だけを」、胸に響く言葉だった。
大雨、洪水、飢えは更に深刻に。
夫に逃げられて悲しみの果てに出産した長女ロザシャーン(シャロンの薔薇)は流産してしまう。
感じたのは、明らかにその悲嘆と傷心の苦痛体験がロザシャーン自身を大きくしていく過程なのだということを。
ラストシーンのお母とのあうんの呼吸がたまらなかった。
トムの忘れられないケーシーの言葉に母とロザシャーンを思った。
「大きなたましいの小さなかけらである自分は、ひとといっしょでなければ役に立たないっていうんだ。いっしょになることで、全きいきものになるというんだ」p.389
ラストシーン
最後に辿り着いた「雨に黒ずんだ納屋」で、亡くなりかけた男とその小さな息子、
「食べ物は全部おいらにくれた」と、あくまで子を思う瀕死の父が心痛かった。
お母は、「安心して、この子はひきうけたよ」と。
「おばさんミルクある?」P.465
シャロンの薔薇
「いいわ」と。
たましいの小さなかけらであるシャロンの薔薇は、お母と一緒にいること、生きて人の役に立つ「全きいきもの」になりつつある過程を確実に踏んでいたのだと思った.
シャロンのお乳は一人の男の命を繋げたと信じたい、銘肝のラストシーンだった。
「だれでも。前は家族が真っ先だった。いまはちがう。だれでも同じ。つらければつらいほどやってあげなくちゃいけないんだ」p.446
お母の言葉が染みた。
「飢え」、この上もない苦しみの最中(さなか)にこのような人間の姿があることを感じとったことがなかった。
苦しければ苦しい程、心の中で磨かれていったお母の美しい魂に、心から希望を感じることが出来た。
「渡り人」は「怒りの葡萄」の一粒となり、夥(おびただ)しい数の房を産み出していったのだ。
とても長くなってしまった。
「生涯、心にもち続けていたい作品であった」、などという言葉を、この小説は超えていた。