「トム•ソーヤーの冒険」 マーク・トウェイン 感想文
あのトム・ソーヤーだからきっと速く読めるだろうと高をくくっていた。しかし大人が読む小説でもあった。全三十五章と「結び」、思いの外時間がかかってしまい、一日空いていた昨日、130ページ以上を一気に読めたのは、すごく面白かったからだ。
灯(あかり)がまだ蝋燭の頃、1840年代ミズーリ州のセント・ピーターズバーグの小さな村の悪戯小僧たちの冒険小説。
スマホのない時代、全てが彼らには謎、自力でその意味を見つけ探り答えを出そうとする姿がとてもいい。
ゲームもおもちゃもない世界、自分で見つけた宝物が、例えば瓶の蓋、ダニ、ネズミの死骸、その死骸を振り回す紐とは驚いたのだが、すべてに土埃がこびりついていそうで、アメリカ南部の乾いた土、「風と共に去りぬ」のあの土煙の感覚が伝わってきた。小さな虫をしっかり観察する目ももっていた。教会の聖書暗記の札まで交換している子供達の魂胆などがよく書かれてあった。
情報がないということは、自分の頭で考え行動を起こし失敗しても何度も繰り返し考えることなのだと、そしてその目的のためなら平気で大人に嘘をつく姿は、何とも 逞しい。
何より、人間に偏見を持たないトムの姿が好きだった。
小さい村で、流言飛語にすぐ左右される理性のない村の大人達にも違和感を持っていたと思われるトム、出鱈目な知識に左右されすぐ信じてしまうポリー伯母さんを冷静に見ているのもトムであった。明らかに効かない薬を床の隙間と猫に飲ませたシーンは痛快だった。
大人びた視線をもちながらも用心を知らない子供らしい無計画さで時には傷ついたりしながら、ずる賢さをも駆使して、手に入れたいものを貪欲に追求している姿が力強い。
目撃した墓場の殺人、真犯人が「インジャン・ジョー」であること知ったトムとハックが、罪を着せられているポッター爺さんの真実を言うのが怖くて、その良心の呵責で具合が悪くなる。インジャン・ジョーへの恐れが大きくなるなかで、裁判でのトムの真実の証言が私の中ではハイライトシーンだった。
独房にいるポーター爺さんに差し入れするトム、「辛いことになった時に仲良くしてくれる人間の顔を見るのはいいもんだ」(p.257)
と爺さんは言う。しかしトムは自分を腹黒い人間だと良心が咎めているというとても良いシーンだった。
自らを乗り越えていくトムの姿、トムの指示ながらも自分を全うしていくハックの手探りの弱くても貫く姿にもグッと来た。
事件が起こると村の人々が総出で一丸となって動くところが凄いのだが、個人で思索にふけることに欠く人々が、事件を更に厄介にして行くように思われた。
事実を突き詰めて考える前に、一体化し塊となって行くことの強さ怖さを感じた。間違えば歯止めは効かなくなるのだ。
トムが好きになった地方判事の娘ベッキーにつれなくされた、ただそれだけで「憂鬱と絶望」に陥り、授業の始まりの鐘を聞きながら、「もう二度とあの聞き慣れた音を耳にすることもないのだと思うと、涙が出てきた。辛いことだがこれが彼の運命なのだ。冷たい世間に放り出されたからには、屈するしかない・・・」p.154、とその陶酔ぶり、すぐ悲劇のヒーローになってしまう姿がまるで「寅さん」のようで、寅さんは少年なんだなぁ、とその何度も出てくる悲壮感に笑ってしまった。確かに幼い頃、私にもあったような、変に深刻になり自分を落とし込んだことが。
思い描く人物になり切る姿、大袈裟なトムが面白い。少しでも自分の思いと違えば細かいことに拘り妥協しない少年。生きる道は海賊か盗賊という極端な想像が彼の全てなのだ。
ミシシッピ川の無人島での冒険、何日も洞窟で発見されなかったトムとベッキー、その間に盗賊たちを尾行するハック、全てがトムの強い冒険心と好奇心からの波及に思えた。
最後は埋蔵金見つけるが、ハックを助ける良い機会になるとトムは思うのだが、実はハックはお金など必要としていない。とにかく窮屈な世界、清潔なベッドが苦手なのだ。気づくとハックは樽の中に寝ている。二人の生き方がはっきりと分かれていくかと思われたが、またトムのハックへのそそのかしで、彼も幸福へ向かいそうなのだ。
トムのような子がいたら傍迷惑なのは事実なのだが、とにかく縛られたくないというトムの爆発的な行動力と自由への渇望には何とも勇気づけられるのだ。
悪戯がすぎるトムに、
「あんたは言ってみりゃ、焦げた猫ってやつだ——」、表は薄汚れているけれど、この甥の良いところを愛していたポリー伯母さんのこのセリフが可笑しくて好きだった。
「若いしなやかな心は、抑えられたひとつの形に長く押し込められたままではいない」 (新潮文庫 p.104)
抑え付けられるものに抗いながら自らを解放し、悩み苦しみながらも最初の決意を遂行して行くトムの姿は、各章考えさせられるものが多くあった。