![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/54911323/rectangle_large_type_2_6ab85b69d87301056b9be13a9fac54f6.png?width=1200)
「トニオ・グレエゲル」 トオマス・マン作 感想文
一度読んだだけでは、なかなか理解することが出来なかった。
彼の告白のような葛藤の部分がよくがわからず、そこで頓挫しそうになった。
それなのになんだか感情が入り込んでしまい胸騒ぎがし、そして切なくて悲しくて惹かれてしまっている。
幼い頃のハンスとトニオ、インゲボルグとトニオ。
小学生の時そんな経験があった。昔を思い出しその時の悔しさがよみがえってしまった。
しかし、トニオはかなり違う。大人になってもハンスとインゲボルグをずっと変わらず愛し続けている。
引用はじめ
「僕は君たちを忘れていたのか、とかれは問うた。いや決して忘れたことはない。ハンス君のこともインゲ、君のことも。僕が働いたのは君たちのためだったのだ。 ー中略ー
インゲボルグよ、君を妻として、ハンス・ハンゼンよ、君のような息子を持つことができたら」岩波文庫 p.114 115
引用おわり
このような愛の形があるものなのだ。恋愛、人間愛、彼の心の形成はどこから来るのだろうか。とても考えさせられたが答えは出なかった。
祖母と父が死に、「母は音楽家と青霞む遥か彼方へ行ってしまった」
トニオはおそらく母のこの出来事が引き金だと思うが、故郷を見捨ててしまう。
彼が「精神と言語の力」に身を委ねたのも、この惨めな経験からだと思った。
天職を持って働くことが、この愛する二人のためであったのだ。二人の愛の為に働くという信念が彼を支えていたのだと思うと切ない。それでいて実らない愛。
だから本当の愛であるとも感じる。
小さい頃過ごした「父と母の家」が「民衆図書館」に変わり、「朝飯の部屋」「寝室」「祖母の亡くなった部屋」「最初の詩をしまっておいた引き出し」ずっと忘れない胡桃の木。全て見捨ててきたのだ。
しかし、見捨てたその俗物的な、凡庸な市民の生活の中に、未だずっと、そしてこれから先も存在し続けていく自分がいることに、トニオ自身が気づいたのだと思った。
そしてそこには、詩と文学が確実にあるのだと彼は感じたにちがいない。
もう一度家族への愛を発見する、この経験が彼の心を変えて行くのだ。
この体験なしに彼の人生の出発点はないと思う。
彼の葛藤、悩み苦しみは続くと思うが、文学と愛に支えられている。
「ニューシネマパラダイス」の音楽が聞こえてくる。同じような、なんとなく物悲しい感情がわいて来た。この映画の主人公もトニオと似ている。昔の風景。今の自分。
「一人の俗人だというんです」と言い切ったリザベタ・イワノヴナ。
その時の二人の会話のトニオの語った言葉はあと何回読めば理解できるのだろうか。トニオの苦しみ悩みが、教養の賜物であるかのような文章で書かれていて難しかった。
リザベタは本質を見抜いている潔い女性で、トニオが覚醒するようなはっきりした物言いが素敵だった。
最後の手紙は、旅がもたらしたトニオの答えだったのか。リザベタに必ず言っておきたいというトニオの姿が見えた。
短編なのにかなり時間を費やした。
「魔の山」は私にわかるだろうか。
でも、いつか読んでみたい。
読書会を終えて、沢山の面白味を教えていただき、この作品がユーモア小説であるという別な見解を聞き、自分だけでは理解できなかった内容に大いに納得し、笑った。
大作家だと思っていたトーマス・マンが自らををさらけ出し悩み落ち込む姿を理解した時、その人間らしさが、大家をグッと身近な人にした。