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「冬の往来」 志賀直哉 感想文

山の手の或町を、私(志賀先生らしき人物)と小説家の中津栄之助が歩いている。寒い風の吹く埃っぽい「往来」で、俥に乗った中津の「初恋の人、今も恋人」という「薫さん」と出会う。

人を好きになったということは、その人を初めて見た時に何だかわからないが、また会いたいと思う気持ちであり、いつのまにか目で追ってしまうことであると思う。
やがて、その人を深く知りたくなる。中津もそうであった。

「薫さん」という初恋の人、その人の起こした「恋愛事件」、によって、中津が思ってもいなかった彼女の内にある激情を知った。
二十歳から見続けていた人が、この事件で、「あの人があの人らしくなった、それでこそあの人が丸彫になったのだ」 p.239   と。

中津が「平面的」に見ていた薫の真の姿を深く浮き彫りにしたのだった。

「ぼくの頭の中にある薫さんという人間を全く作り変えねばならなかった」p.239
衝撃とも言える事実に突き当たっても中津の気持ちはずっと変わらない。

夫がありながらの岸本に惹かれて行く。
今ある家庭から飛び出して来る人を待っている岸本がありながら、妊娠してしまう薫。
実行力の足りない理想主義者の岸本に、薫は考える時間を持ったのかもしれない。
そして自分の嵩ずる思いを妊娠によって食い止めようと、そして諦めようとした薫の抵抗の姿だったのではいかと、その苦悩を思った。

中津も人妻を好きになるのを抑えたのだ。

引用はじめ

「好きは好きでも、それ以上に自分で嵩じさせないのが人間の運命に対する知恵なのだ」新潮文庫 p.240

引用おわり

しかし薫は岸本の元へ飛び出した。情熱は、そして好きという激しい気持ちは抑えられなかった。
妊娠は、岸本の心を離れさせた。

薫の迷い続けた苦悩が悲しい結末を招いてしまった。
しかし偽りのない心で行動に出たた薫には悔いはなかったのではないか。

時は過ぎ、中津がいよいよ姉に薫への想いを伝えようと思っている頃、薫から「娘の雪子をもらう気はないかと」、

「・・・」

笑いを堪えた、気の毒すぎて、可哀想すぎて。でも笑ってしまった。

往来で出会った時の薫さんの、「顰め面」は、娘の縁談を断った中津に向けられていたのだ、そうなのだ。片手には孫を抱いていた、その人をまだ好きな中津。

「薫さん」のすらりとした若き日の姿すら知らない中津。

ふくよかな薫さんへ、今でも一途な気持ちを持ち続ける中津が、とても愛おしかったのだ。

中津の気持ちは、「永久に葬り去られた」、きっと良い作品を書くであろう。


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