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「赤ひげ診療譚」 山本周五郎 感想文
いくら温情をかけても通ぜず非道を続ける者、どれ程貧しく苦しみながらも人間としての尊厳を失わない者もあるということを読んでいて最初に感じた。
人間の尊厳を失わない貧しい人たちは、「無知」とはいえないと思う。
だだ赤ひげの言うように、無知が病気を引き起こしていると言う言葉には大いに納得した。
赤ひげは、病状如何(いかん)に関わらず、その患者の生活状況を汲み取り、心まで読むのだ。情愛にあふれ親身に目の前の人間を診る。
時に反抗され、全く通じない人間、馬鹿な人間にも必ず事情があることを、そして許すことをエリート医師、保本登に問い正す。
カルテだけを見つめ患者の顔すら見ない現代の医者も何度か見かけたが、「それでいいのですか?」、と問い正したくなる瞬間があった。
江戸中期、小石川養生所には、貧困の民が集まる。「無料」であることにすがる人々。
ここにいるべき人間ではないと若くエリート意識の高い保本登が配属された。
そしてありえない現実を目の当たりにすることで心が変化して行く過程が素直な文章で語られていて読みながら気持ちがスッと入って行った。
印象に残ったのは「駆込み訴え」、江戸中に知られた蒔絵師六助を裏切り、夫の弟子である富三郎と出奔する妻、やがてその富三郎を自分の娘「おくに」と夫婦にさせるという狂気沙汰に、ただ驚きながら読んでいた。
富三郎の盗みの罪をおくにが訴えたのち赤髭が救うのだが、おくにの、登に語るその過去の告白が凄まじかった。
登が聞き役で、無造作に語るおくにに、「理解しがたい情痴の罪の根深さ、妄執の凄まじさ」を彼が感じ入る場面、複雑なおくにの心をよく捉え表現していて胸の詰まる思いがした。
黒澤明監督の映画を見たが、そのおくにの告白シーンを演ずる女優の心の底の凄まじい苦しみの思いを吐き出す演技が見事だった。
原作では、「子どものことさえなかったらとっくに殺していたでしょう」と、夫への気持ちを正直に言うおくには、ここまで悲惨な過酷な状況でも、父六助を愛することを思い出し、子を守っていかなければならない気持ちになっていた。
泥の中に紛れ込んでも泥まみれにならない人間もいるのだということ、それは、父六助、「むじな長屋」の佐八にも、同じ思いを持った。
そこには、去定、登、周りの人間のどれだけの助力があったことか。人は助け合えるのだということがとても美しかった。
赤ひげはいつも罪びとのような人間にどのような原因があったのかを突き詰め、それを理解すると、その者を責めたり裁いたりしない。たとえ登が正義感をむき出しにしても動じない。
「まずやらなけらばならないのは、貧困と無知に対するたたかいだ」
(新潮文庫p.60.61)
医療は治療には何の役にも立たないことも知っていた。
引用はじめ
「にんげんほど尊く美しく、清らかでたのもしいものはない」、
「だがまた人間ほど卑しく汚らわしく愚鈍で邪悪で貪欲でいやらしいものはない」(p.221)
「おれはぬすみも知っている、売女に溺れたこともあるし、師を裏切り、友を売ったこともある、おれは泥にまみれ、傷だらけの人間だ、だから泥棒や売女や卑怯者の気持ちがよくわかるんだ」(p.222.223)
引用終わり
赤ひげが言ったことが、真実でも嘘でも、人に真っ向から向き合う時、相手が登でも民でも罪びとでも最も必要な姿勢であることをその言葉から感じるのだ。去定の真に貫くものが見えてくるようで心動かされた。
手荒いがすぐに実行する。その決断力と勇気を持つ赤ひげ、そして常に弱者に寄り添う姿を、人として尊敬して行った登は、出世などどうでも良くなる、目の前にいる貧しく弱い民の立場を思う気持ちを強め養生所へ残る決心をする。
八つの短編が、ことごとく良い方向へ向かっていくことには、懸命に助力する赤髭と不慣れな登の姿が小気味よく映し出されていて、読んでいてドラマでも観ているような壮快感があった。
映画の三船敏郎は、赤ひげそのものの艶を出していた。
映画は八つの物語から抜粋し、原作をやや変えてうまく繋げて作品にしていた。白黒の画面が、それぞれの人間の悲しみをリアルに表現していて、「休憩」が入るようなとても長いものだったが、しみじみ良い作品だった。