『闇の絵巻』 梶井基次郎 感想文
引用はじめ
「停電して部屋が真暗になってしまうと、われわれは最初何とも言えない不快な気持ちになる。
しかし一寸気を変えて呑気でいてやれと思うと同時に、その暗闇は電燈の下では味わうことの出来ない爽やかな安息に変えてしまう」(新潮文庫 p.264)
引用終わり
この気持ちがよくわかる。
初めて胃カメラ呑む恐怖の前日、よくよく考えた末、なるべく緊張を解くこと、そして映される画面に集中し気持ちをそちらに逸らすのはどうだろうと考えていた。そして上手く行った。
面白がってしまえばいいのだと、その後も未だ問題ない。
不安を好奇心に転換させる、ほんの少しの「ままよ」というような気持ちに。まさに「一寸気を変えて呑気でいてやれ」というのはその時の気持ちと同じだった。
梶井作品にいつも感じるこの心の転換が、孤独、恐怖、不安、それらの緊張を刹那に別の世界へ誘(いざな)ってしまう。その気色(けしき)、気配を察知する能力に長けていると思う。
それは、「死」を意識するほどの病の苦痛と「身を噛むような孤独」(p.266)からの無意識の逃避なのだと思われる。
暗闇は、「私」にとってとても自由な空間なのだ。
荘厳な自然の暗黒と対峙することで独特の絵物語を作り上げていく。その道のりの緩急が療養の退屈な日常を忘れさてくれたのだと。
「絶望への情熱」(p.264)を持つことで前に進めるのだ。
療養所で闇を愛することを覚えたという「私」、「闇と一如になる」というその言葉は、根源的なものに近づいていくような、現実の「死」というものを予感させた。
深い闇、わざとそこに自分を遺棄し、「身を噛むような孤独」(p.266)を味わうという行為は、「冬の蝿」にもあった。昼間の太陽の当たる「感情の弛緩」という「幸福」とは反対の、影の世界を昼間のように心地よく感じているというその複雑な心情を汲み取るのは難解だ。
溪の闇に向かって石を投げたら、闇の中から柚の匂いがしてきたという印象的な場面はなんとも不思議な気持ちのいい感覚を与えてくれた。
いつもそこにいる蛙にまで目を向ける繊細で深い洞察力、感情、熱情の吐露、病と闘うその苦しみが無意識に生み出す優れた能力を感じる。
闇に消えていく男を見て、自分もしばらくすればそうなることを、男が行ってしまった闇を、生と死の結界のように感じたのか、胸のざわつきを抑えられなくなったように思えた。
息切れ、呼吸困難、途中で止まりまた歩き出す。不安の高まり、病身でありながらその限界を自分で試すような高揚感が現状を吹き飛ばすように読み取れた。
引用はじめ
「限界というものがこうも人の心を変えてしまうものだろうか。そこへ来ると私はいつも今が今まで私の心を占めていた煮え切らない考えを振い落としてしまったかのように感じるのだ。私の心には新しい決意が生まれてくる。秘めやかな情熱が静かに私を満たして来る」(p.268)
引用終わり
恐怖と不安から安息へ。大人の冒険は、「身を噛むような孤独」から、生きるというエネルギーを呼び起こしたのだと思う。
「まずそこを飛び出さないと何も起こらない」、という言葉が頭に浮かんだ。