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「戦争と平和」 3️⃣ 第二部 第五篇 トルストイ 感想文

生きるのに夢中で、とても綺麗なのにそれに気づいていない人がいる。そんな人がとても魅力的に見える瞬間がある。

若い頃、「自分の容姿を髪型に頼りたくない」と言って丸坊主にしてきた会社の同期の男性がいた。「なるほど潔し!」と思ったことを思い出した。

第五篇では、社交界を舞台に己の美しさに酔い、それを手段に人を騙していく、クラーギン家の兄(アナトール)と妹(ピエールの妻、エレン)の作り込んだ美しさに胸が閊(つか)えた。
アンドレイの求婚と、言い寄ってきたアナトールへの、「愛」らしきものに迷う乙女ナターシャがエレンの企てにもハマり、心身ともに壊されていった。
まさに「悪の華」を思わせる不品行な二人の表と裏の顔。
その「悪の華」と対照的に、人の為に奔走する主人公ピエールの存在がこの篇でぐっと際立ってきたのだ。

ピエールとアンドレイ、思慮深いこの二人が社交界を嫌悪する多くの部分が、このアナトールとエレンの外見の美しさにそぐわない虚飾で醜い姿に象徴されているのだと思われた。

ロストフ家の次女のナターシャは、アンドレイ・ボルコンスキーと婚約するが、父ボルコンスキー老公爵の反対が発端となり、一年延期されていた。

自分のことは自分が一番わからないと思うことがある。
十六、七のナターシャにとって、自分を客観視することはできない。一年はとても長すぎた。誰を本当に愛しているのかなどと、目の前のアナトールとのロマンティックな出来事に、だだそれだけに酔って、その雰囲気にのまれてしまったのだ。

《あの人たちがあたしを好きにならないはずがないわ》 p.361
ボルコンスキー家に初めて訪問した時のナターシャ。自身もまた自分の魅力を自負していて、妄想の世界に逃げ込む痛い部分もあるのだから。

従姉のソーニャは、両親もなくロストフ家に助けられている身。周りの悪意にも敏感でとても鋭い。誰が敵か味方かを察知し警戒できるのだ。ある意味無防備なナターシャにとっての「眼」にもなれるような存在なのだ。そして何とかロストフ家の為になろうとするが、ナターシャの盲目的なの恋には、ソーニャの助言は、だだの「敵」となってしまう。
ナターシャは迷走していたのだ。

ロストフ老伯爵の知り合いのアフローシモアという頼もしい大柄な女性がとても良い役どころとして登場する。
一巻で思い出すパーティの場面で、威風堂々としていて、はっきりと物を言うあの好ましい女性がアフローシモアだったのだとわかったのが、読書会の解説音声の中で、「あのマツコデラックスさんのような」という一言からだった。ハッと気づき嬉しくなってしまった。
たしかナターシャを気に入っていたはずだと、危機的状況の救世主になるのではとワクワクしてしまった。
アナトールがナターシャを誘拐しようとする前に、図らずも阻止したのはこのアフローシモアだった。
大男の従僕ガヴリーロの発した一言。トルストイ先生の見せ場はすばらしく面白いのだ。

そのアフローシモアも、そしてアンドレイも、危機に立ち会ったソーニャも、重大かつ困難にぶつかると、なんだかピエールに皆が相談するのだ。アンドレイの妹マリアまで、兄とナターシャの結婚と父の横暴に悩む心の内までは、話すに至らなかったが、ピエールに心許していることが印象的たった。

ピエールの存在感は明らかで、物語を追うごとに真摯で誠実なピエールの姿が色濃くなってきて、これからの彼の人間性がどのように発揮されていくかに目が離せなくなってきた。

親友アンドレイがナターシャとの結婚に敗れ、必死に取り繕う彼の心の奥底の気持ちを自分に重ね、そして優しく見据えているピエールの姿が格別だった。

引用はじめ

「あまりにも苦しい内心の思いをかき消すためだけに興奮し、自分にも縁もゆかりもないことを議論したいという、ピエールが知りすぎるほど知っている欲求を彼は今親友のなかに見て取った」岩波文庫p.475

引用終わり

いたたまれない親友の深い悲しみがピエールの身体にも辛く沁みながらも、心にはナターシャへの思いを深めていくピエールだった。この深刻な心境の内にも、アンドレイ、ナターシャ、その他の個々の大切な人に対して、必死に尽力するピエールの姿があちこちに読みとれて、とても感慨深い気持ちにさせられた。

ナターシャという魅力的な女性が、時にアンドレイに生きる力を与え、結果辛い決別をも与え、この巻のラストにピエールにも「新しい命」と奮い立つ心を与えてしまう。

この先の戦争も含め、うかがい知ることのできない複雑で至難な天命のようなものを思いながら三巻を読み終えた。

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