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「流行感冒」志賀直哉 感想文

2021年4月10日、今日、志賀直哉作、「流行感冒」がドラマ化され放送されました。
以前、読書会の課題図書で読ませていただいた作品で、ドラマを観ながら細かい部分を思い出し感銘を受けました。
以下、その時の感想文です。 

「流行感冒」  感想文

私がこの作品を読んで感じたのは、女中の石がこの家族に、特に佐枝子に姉のような親しみと主人と妻に本当の家族のような感情を抱いていたことだという事です。

いくら暴君のような発言をしても、たえず自分の心の中で「気持ちの不一致」を我に問うているような主人は、年若い女中にとっても、きっと誠実な信頼出来る大人であるのは、微かにわかっていたと感じました。

私も幼い頃大人の良い悪いを密かに見定めていた記憶があり、小さな正義感を持っていた気がします。

観たいものは観たいと、それは若さと石の性格であり、怠けることも、正面切って嘘をつくことも、最後の大きなお働きも、全て石の純粋な気持ちから来ているものであることが作中から読み取れます。

石は好きな人達のためだから、一生懸命働いたのだと思います。

「馬鹿。石に佐枝子を抱かしちゃあ、いけないじゃないか」新潮文庫 (小僧の神様、城崎にて)p.111 

「佐枝子は未だ首を振っていた。石は少しぼんやりした顔をしていたが、妻にそれを渡すとそのまま小走りに引き返して行った。」「石は振り返ろうともせず、うつ向いたまま駆けて行って了った」p.112

私は、この「ぼんやり」がこの家族と隔離された石の孤独だと、この家のものではないとはっきりした他人に区別され、それを淋しく感じた瞬間だったと思いました。

私は、この時の石が本当に可哀想で、大好きな佐枝子をもぎ取られたようで悲しかったのです。


「狭い土地ですから失策で出されたというと、」という妻の言葉に、「出して了え」の言葉をしっかり阻止出来て、私はお互いの良い関係が保たれたことが、石のこれからの人生さへ変えることになったのだとこの部分の重要さを強く感じました。


引用はじめ

「自分達のやり方が案外利口馬鹿なのかもしれない」p.102
「誰が聞いても解らずやの主人である。つまらぬ暴君のである。第一自分はそういう考えを前の作物に書きながら、実行ではそのまるで反対の愚をしている」p.113

引用おわり

そのように自分を省みて、「気持ちの不一致」をたえず自問しながら正直に生きる姿は素敵であるし、変えられない正直な本音が志賀直哉自身であると、その文章の素晴らしさと共に私の心に残りました。

よく働く石に対しても、
「その気持ちははっきりとは云えないが、想うに前に失策をしている、その取り返しをつけよう、そう云う気持ちからではなく、もっと直接的な気持ちらしかった」p.124、

「嘘ををつく初めの単純な気持ちは、困っているから出来るだけ働こうと云ういう気持ちと、石の中ではそう別々なところから出たものではない」p.124

石の単純から来る純粋な欲のない行動を心底よく見ています。
微かではあるが、その人間の素の部分の良い瞬間を見逃さないでいてくれる人がいたら、その人の後々の人生にどれほど大きな影響を与えることでしょうか。

私には、一つ上の姉がいましたが、生後二ヶ月程で肺炎で亡くなりました。                 

母は、その後ショックのあまり、赤ちゃんの泣き声が聞こえるとそちらの方へ走って行ったそうです。

その後私の弟も小学校で肺炎になり、かなり重篤になり、母の神経質もピークになったと思います。弟は元気に大人になりました。

母の神経質が後の弟の弱さに繋がったかどうかわかりませんが。どんなに辛かったことか。この小説と重なり今まで思い出さなかっだことが、私の脳裏よみがえりました。


どんなにエゴイストと言われても、暴君でも、他人にどう思われようと私も子供を守ると思います。弟を守った母と同じように。

もうすでに両親は他界しました。
生きていたらその時の悲しみに寄り添ってあげたかったのです。


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