「魔の山」 (下巻) 第七章 最終章 トーマス・マン 感想文
2023年5月11日、午前0時40分、あの「魔の山」を読み終えた。この気持ちを何と表現したら良いか、胸がいっぱいで。
ラストの主人公の姿と共にごちゃまぜで涙してしまった。
ハンス・カルトルプの教育者である二人、セテムブリーニとナフタの論争に読み手が辟易していた頃、最後の章に登場したショーシャの新たな旅の同伴者、「ペーペルコルン」が登場し人物として際立っていた。
「この世へ論理的混乱をもたらすような人物ではなかった」(p.354) と。
「さらに一人」という読者のその「辟易」を気遣うように彼を出現させた作者がとてもユニークだった。
ずっとショーシャ夫人に恋情を持ち続けていたハンス・カストルプにとっては、霹靂の光を浴びた思いで打ちのめされた。
やがてペーペルコルンが病に伏してしまい、そこに毎日見舞いに詰める程に彼に引き込まれていくハンス・カストルプ。ショーシャへの思いまで告白させられた。そして兄弟の誓い、彼のつぐないとは何だったのか。
ショーシャはペーペルコルンを愛していた。しかし、彼の闇の深さ、不安の大きさを一人では抱えきれずに、このベルク・ホーフへ戻ってきたのだ。
彼の恋敵であるハンスが彼を支える兄弟の誓いを交わすまでとなって行く様子が何とも不可解ではある。ショーシャ夫人の人となりには全く興味を示していないハンスは、つまり容姿や肉の誘惑に駆られていただけなのであろう。あっさりと病の彼をを受け入れた。成し遂げようとしないハンスではあるが彼の周りには確実にいつも人が集まるのだ。
両親の死、祖父の死、死を身近に親近感さえ抱いていたハンスに、さらにペーヘルコルンの自殺、対立していたセテムブリーニとの決闘でナフタがピストルで自殺してしまうという悲劇が襲った。
攻撃的に論争するナフタが抱えていた闇も、有り余る豊かな感情で生きていたペーペルコルンの不安も、「病」の壁を乗り越える見込みが消えて枯れていく自分を見る勇気がなかったのだろうか。戦争の勃発を敏感に感じたからか。
死後ショーシャの「棄権した」の一言が的を射ていた。ペーペルコルンを衷心から支えようと思ったショーシャの人を見る目の鋭さと賢さが光っていた。病気のために自由を得たショーシャ。彼女も「死」をみつめていたのではないか。
「晴天の霹靂」、「その時天地がとどろきわたった——」(p.637)
戦争が始った瞬間、読んでいても鋭いものが胸を貫いて来た。
戦争の始まりに人々の無意識的な動物的勘が働いてこのヒステリーを起こして行ったような気がした。
彼の自殺後ショーシャが去り、ハンスが抱えた「無感覚の悪魔」。
皆が転げるように悪い方へ引っ張られていく感覚が伝わってきた。
「ひどくうさんなこと」、ドクトル・クロコフスキーでさえも霊媒師のような実験を繰り返した。
そしてハンスは、亡くなったヨーアヒムを呼び出すように頼んだ。
「チーム—— セン ———!」ヨーアヒムをうっすら捉えたシュテール夫人の声に、私まで不覚にも涙が出てしまったのだ。
悪魔は人を簡単に騙せる、全ては悪魔の所業なのに。
読み終えて、ハンス・カルトルプの七年間のベルク・ホーフでのシーンが身近に空間として立体的に思い浮かんで来た。
それぞれの場面が思い出せるのだ。やはりこの小説には力があるからだと感じた。とても細かくてしっかりとした文章が素晴らしかった.
ハンスは、この初めも終わりもないようなサナトリウムに結局七年間もいたのだ。 毎日が死と隣り合わせの単調な連続。
レントゲンで生まれて初めて自分もいつか死ぬ日があることを理解し、ベルク・ホーフの自然の中で、「春の奇蹟」を見て「陣取り」をし精神世界へ入り込んだ。
ワルプルギスの夜に、理性を失うほどの愛を告白し、そして破れ、無気力、空虚、無感覚を経験した。
そして二人の論者(教育者)に挟まれ、覚醒したり反抗したり。「人生の厄介息子」。
どんな環境に置かれてもハンスの誠実さは保たれていた。
それら消化された体験、教えが生きる自由を得た時、戦争になるなんて悲しすぎた。
引用はじめ
「愛は死に対立し、理性ではなくて、愛のみが死よりも強いのだ。愛のみが、理性ではなくて愛のみが、正しい考えをあたえるのだ。形式も愛と善意とからのみ生まれるのである」
「人間は善意と愛とを失わないために考えを死に従属させないようにしなければならない」(下巻p.263)
引用終わり
遭難しかけた時に見出した言葉を、今戦争に向かおうとしているハンスに思い出してほしい、心に残る言葉だった。
終始ハンスを語り続けた「私たち」とは、「知人としてとあるのだが、もしかしたら亡くなった両親ではなかったかとふと頭をよぎった、
「魔の山」、諦めずに読み切って本当に良かった、この体験はとても貴重なものとなりました。