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「ヰタ・セクスアリス」 森鷗外  感想文

姪が小さい時、散歩の途中に「あ、蜻蛉が交尾している!」と言った。さすがにドキッとしたが、こういう風に真っ向から教えてもらっているのだなと、何だか新鮮に感じたのだった。

この作品は、哲学を仕事としている金井湛という人物の、六つから二十一歳までの、「性欲」の歴史が描かれてあるのだが、周りの人物が飛び切り個性的なので、明治40年辺りの風俗と共に驚かされた。

十年以上前に、「性って何!」という本の著者である高柳美和子さんの講演会を聴かせていただいたことがある。

「世の中に溢れ出てるポルノシャワーを浴びる前に、しっかりと性について教えなければならない。何も知らないままで、あまりの自分の性欲の強さに、悩み、相談してくる高校生などの男の子が大勢いる」と。

「朝会社へ行く電車で、経済新聞を読んでいたビジネスマンも、帰りにはスボーツ誌を読んでいる」、

「精子24億個で卵子と出会えるのはわずか60100個だけであることを考えると、ものすごい性欲がないと、とても辿り着けないのだから、心配しないで」との優しいメッセージを思い出した。

引用はじめ

「人間は容易に醒めた意識を以って子を得ようと謀るものではない。自分の胤(たね)の繁殖に手を着けるものではない。そこで自然がこれに愉快を伴わせる。これを欲望にする。この愉快、この欲望は自然が人間に繁殖を謀らせる詭謀である、餌(え)である」新潮文庫 p.21

引用おわり

欲望は自然が与えた計略、企みであると、だから愉快を伴わせるというショーペンハウアーの言葉が、
「心配しないで」という高柳美和子さんのメッセージに繋がった気がした。

六つで笑い絵(春画)を見たり、嫌らしく父母の夜を匂わせるお爺さんなどに、ことごとく嫌悪を覚える金井少年、二枚舌の涅麻(くりそ)の大人の濁りも見抜き、諸先輩の硬派(男色)の誘惑にも自力で身を守った。
吉原に行くことに抵抗したり、茶屋の芸者と腕相撲をする姿は、年齢ごとの体験には性欲の溺れはなかったと、欲望、性欲に帰着しなかったというその細かな叙述が、その時代に発禁にまでなった小説への、わずかな「自己弁護」であったような気がしてならなかった。

「僕はどんな芸術品でも、自己弁護でないものは無いように思う。それは人生が自己弁護であるからである」p.107

この言葉には納得してしまった。
曝け出しながらもプライドを保ち続けているような鷗外先生の姿が感じられたのだ。

恋愛を離れた性欲は、情熱のありようがなく、自叙に適せない。
少年の時から、自分を知り抜いていて、悟性が情熱の芽ばえを枯らしてしまった、と書かれてあった。
それはそれで伶俐すぎるのも淋しい気がしたのだが、

最後の
「永遠の氷に掩(おお)われている地極の底にも、火山を築き上げる猛火は燃えている」p.127

金井(鷗外先生)の心には情熱はしっかり息づいていたという最後に辿りついて、全体が見えた気がしたのだった。

性への知識のない者に、この本を推奨するかと問われれば、私はきっと「しない」と答えるであろう。

それは結婚するまでに「dub」を受けずにいた方が良かった、と語る金井の言葉に似ているのかな。


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