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【短編小説】理工学部 福来教授 2

 F1レーサーが夢だった。
 しかし今の今まで夢を諦めた瞬間などない。菊池晴臣はホンダフィットのステアリングホイールを握りしめながら、フロントガラスの向こうに目を凝らしている。もうすっかり深夜だ。いやあと数時間で朝だ。今から家に帰っても布団に入っている時間など殆どない。だから久しぶりに峠に来てみた。若い頃にさんざん通って腕を磨いた丸正峠に。
 時間はもう深夜の二時を回っている。まったく忙しい一日だった。夕方の突然のノーベル化学賞の発表、途端に鳴り出した電話、詰めかけてくる報道陣、そして福来教授に振り回されて日付が変わる頃まで騒動が収まらなかった。いや教授が候補にあるのではないか、という声は一部にはあった。しかしあまりにも小さくか細い声だったので、日々の日常の喧騒に飲み込まれて聞こえなくなった。当の本人だって驚いているのだから、部外者の裏方が内情を知り得るはずもない。
 真っ暗な峠道をそこそこ速いペースでフィットを走らせてきたが、本気ではなかった。安全マージンを大幅に残したせいぜい七割の攻め方で連なるコーナーをクリアしてきた。峠の頂上も走りすぎ、しばらく走る。車線の左の路肩が広がった広場のようなエリアに来た。以前、二〇年以上昔はここが溜まり場だった。土曜の夜には常時十台以上の車が停まっていたが、今は一台もない。菊池はアクセルを抜き、広場の一画に停止した。エンジンも切る。
 セミバケットのシートを倒し、少し目をつぶる。近づいてくる車のエンジン音だけに注意を向けていたが、十五分ほどの間に二台が通り過ぎていっただけで、もちろんそれらしい車のそれではなかった。もう走り屋なんて流行らないのだ。
 菊池はシートを戻してエンジンをかけ、その場を離れた。家に戻ったのは三時近くだった。静まり返った住宅地の真ん中にある家だから、駐車場にフィットを停めると急いでエンジンを切り、ドアもそっと閉めた。妻と娘は二階で寝ているだろう、菊池は肩をすくめるように、爪先立ちで玄関を上がり、そのまま風呂に行き、お湯を張ろうとしたが、なぜか温かいお湯が適量湯船を満たしていた。彼は一度居間に行って背広を脱ぎ、振り返ると、そこにはパジャマ姿の妻が立っていた。
「おかえりなさい」
「寝ていろと言ったのに」菊池は言う。
「待ってたわけじゃないわよ。トイレに起きただけ」妻は言い、二階の寝室に行きかけたが足を止める。「風呂沸かしといた。入るでしょ」
「ああ、そうする。ありがとう」
「明日も早いの?」
「六時には出ないと」
「大騒動ね」
「まったくだよ」
「ああ、そうだ」と妻は階段の上から振り返って言った。「祝賀会とかあっても、私は出ないからね。病気とか、なんとか上手いこと言って断ってね」
「そんなに嫌いだったか、あの教授のこと」
「別に。ただ面倒くさいだけ」
 菊池は肩をすくめつつ、浴室に行った。服を脱ぎ、そのままバスタブに身体を沈めた。三十分は浴槽に浸かっていただろうか、菊池はまだ深夜の居間に戻ると、ソファーに腰を落とす。寝室に行く気にはならない。妻を起こしたくもないし、ベッドに入ったら二時間でまた起きるもの難しいだろう。彼は毛布を被り、ほんの少し仮眠を取るつもりで目をつぶる。いやとても眠れそうもない。身体は疲れているのに脳はまだ興奮状態にあるからまるっきりちぐはぐだ。しかし瞬時に眠りに落ちている。そしてコーヒーの香りに鼻の奥が刺激され、ふいに意識が戻る。途切れていた記憶が無理やり結ばれたかのように、ありありと目覚めた。ソファーから半身を起き上がらせると、台所に妻の後ろ姿があった。
「あれ、えーと、俺、寝てた?」
「うん、いびきかいてたけど」妻は振り返り言う。「少しは眠れたんじゃないの?」
「ああ」と菊池は言う。「泥のように眠ってたよ」
 彼は食卓に移り、妻が用意していた朝食を食べはじめた。トーストにベーコンエッグとコーヒー。近くの中学校の校長でもある妻が毎朝用意してくれる、いつもの朝食だ。二人は食卓に向かい合って座りながらも、特に話すことがない。昨夜、大学が混乱していて遅くまで帰れそうもないのは電話で伝えたし、テレビのニュースでも教授のノーベル賞受賞は大きく取り上げられている。だからもう、話すことはない。いつもより一時間前倒しになっているだけの日常だ。朝食を食べ終え「じゃあ、いくかな」という台詞も同じだった。菊池は立ち上がる。
「今日も遅くなるの?」
「いや夕方には帰れるよ。首相官邸に呼ばれてるんだが、午前中に終わるし」
「ええ? 首相官邸?」
「今の首相って、教授と以前から知り合いなんだそうだ。十年くらい前に科学技術庁の長官だった時に結構顔を合わせていて、話しも合ったみたいで、その縁で今の内閣からもよく声がかかっていた」
「有識者の枠ね」
「そう、だから午前中に表敬訪問に行くんだと」
「あの教授、そういう所、本当に抜け目ないよね」
「ああ、そういう所は本当に金メダル級だよ」
 いつもなら小六の娘の顔を見てから家を出るのだが、一時間前倒しの今日はそれも叶わない。菊池はまたホンダフィットで大学に向かう。ありきたりの日常の始まりが車の窓の外を流れていく。昨日よりも一時間早いからまだ外は少し暗くて、それでいて日の出直前の白地味を増していく空の明るさが地上に降りてきている。丘陵地帯の高台に造成された住宅地を抜けてしばらく走ると、高速道路の高架を潜る。左右に広がる水田地帯の真ん中の国道をホンダフィットで走り抜けていく。まだ稲刈りの済んでいない田んぼと済んだ田んぼがモザイク模様のように広がり、しかしその景色は工業団地に突っ込んでいくことでいきなりに終わる。高速道路のインターチェンジの前で時間待ちをしている大型トラックの路肩駐車がいつもよりも多くて、もう少しでその長い列に巻き込まれそうになったが、ぎりぎりで回避して、壁のように連なったトラック群を横目に抜けていく。ラジオのスイッチを入れると天気予報をやっている。埼玉では昼から天気が崩れ、午後は雷、突風の恐れがあります。大学の正門の前を過ぎ、裏にある職員用駐車場にフィットを停めた。
 数台の置きっぱなしの車は停まっているが、まだ出勤してきている職員はいないから無人だ。菊池は裏の通用口の扉を暗証番号を入力して開けて校舎の中に入る。事務室には一人だけいた。平職員の中垣内が今日の運転手役になる。
「おはよう」と菊池は声をかける。
 中垣内は椅子に腰掛けてうなだれていたが、菊池の声に顔を上げた。「おはようございます」と、元気のない返事だった。
「どうした、体調が悪いのか?」
「大丈夫です、ちょっと寝不足気味でして」とまだ二十代の若者は椅子から立ち上がる。しかしふらふらとよろめく。
「昨日はさんざんだったな」と菊池。「でも君は家がすぐだろ」
「ええ、四時間は眠れました」
「今日は都内まで出て、あちこち行かなくちゃな。渋滞もするだろうし、気をつけていこう」
 二人は通用口から校舎を出て、職員用の駐車場に行く。校舎の壁際に停まっている一台のレクサスのセダン、校長もしくは理事長が公式な行事で使用するための公用車だが、今日は使用が許されている。菊池が助手席に、中垣内が運転席に座る。「君はこの車は?」と菊池が聞く。
「そう何度もないですね、今年は三回目ですかね」
「時間は余裕がある。慎重に行こう」
 大学から福来教授の自宅まで約一時間はかかる。もう太陽は顔を出し、街も動き出している。通勤の車が道に増えつつある中、二人が乗ったレクサスは進んでいく。
「これからどうなるんですかね」といきなり中垣内は言う。
「どうなるとは?」
「あの教授、これからますます増長するんじゃないですかね?」
「今までそんなに迷惑かけてたか?」と菊池はステアリングホイールを握る若者の横顔を見る。「まあ確かに時々無茶ぶりはされたが、パワハラとか、セクハラとか、そんなにはなかったと思うが」
「そう、そうなんですよね、犯罪級のはなかったけど、かといってその、なんていうのか・・・」
「なんだ?」
「正直な話、局長はあの教授のこと尊敬できます?」
「いや、尊敬はしてないな。まあしかしいい年だし、爺さんだし、あんなもんだろ。君の言わんとしていることは解るよ、確かにあの人は悪い人じゃない。嫌な人だがな」
「流石ですね、私はそこまで割り切れない」
「なんでも言われたらはいはい言っとけばいいって。無茶なこと言われたら俺に振れ」
「そうですね、そうさせて貰いますが」
 通勤の車がかなり増えていたがそれでも流れに淀みはなく、予想よりも少し早く教授の自宅マンションの前に着いた。
「呼んでくるから、ここで待っててくれ」菊池は車を降りた。
 菊池はオートロックのマンションの玄関まで進み、教授の部屋の番号を思い出しつつ、その前に窓ガラスの写る自分の姿を見て、身だしなみを整えようとした。しかし、そのガラス扉がいきなり中から開いた。
「おはよう、今日もよろしく頼むよ」と、大きな声を張り上げながら教授が外に出てくる。
 菊池は思わず仰け反る。「おはようございます。あれ、お待たせしてしまいましたか?」
「いやいや、私が早く起きただけ、年寄りだからな」
 中垣内もレクサスの運転席から降り、ボンネット越しに教授に頭を下げた。「お早う御座います」
「おうおう、今日はよろしくな」教授は右手を何度も上げ下げして言った。
 菊池がレクサスの後部ドアを開ける。教授を後部座席の奥に乗せると、自分もその隣に座る。レクサスは走り出す。菊池は書類ケースを開けた。「では、今日のスケジュールですが」
「うむ」と教授は言う。
 しかし菊池は言葉に詰まる。車内に強烈な匂いが充満している。いやそれが教授の白髪染めの薬品臭だとすぐに気づくのだが、言葉にできるわけなどない。
「午前十時から首相官邸で総理大臣に表敬訪問です。お祝いの言葉を戴いて、しばし歓談になります。昨日確認しましたが、十五分はスケジュールが空いているということなので・・・」
「解ってるよ、解ってるよ、菊池くん。補助金ガッツリ貰いたいよねえ。首相の一存で決まるもんじゃないと思うけど、文科大臣に話を通して貰うよう、よく言っておくよ。てゆーか、あの首相自身がずっと文科族で来た人だからそのあたり問題ないと思うけどね」
「さすがです、頼みます」と菊池は匂いにこらえつつ手許の書類に目を落とす。「それで、午後一時から民放のニュースショーに出演していただきます。お耳に入ってましたよね?」
「うん、聞いてた聞いてた」
 その時だった。運転席の中垣内がいきなり「ああっ」と声を張り上げる。
紙風船を破裂させたかのような、いきなりのうめき声だった。レクサスは路上に停まる。片側一車線の、狭い市街地の真ん中で車道に余地はない。
「おい、どうした?」菊池は覗き込む。
「あの、ええと、すいません、もう無理みたいです」と若者はステアリングホイールに額を預けている。「朝から体調が万全じゃなかったんですが、もう限界です。目がぐるぐる回りだしちゃって・・・」
「とりあえず、代われ」
 菊池はドアを開け、外に出る。助手席のドアを開けて半身を中に入れ、運転席の中垣内を無理やり引っ張って、助手席に移動させる。土足がダッシュボードを蹴りまくって汚れがこびりついているが、それどころではない。彼を完全に移すと、車の正面を回り込んで運転席に乗り込んだ。
「熱はないのか?」
「どうでしょう、熱っぽいというより、急に寒気がして震えがきて」
「インフルエンザかもな」
「おいおい、大丈夫かね」後ろで福来教授が言う。
「今日の運転は私がすべて勤めますので、彼にはタクシーで家に帰ってもらいましょう」
「あああ、すみません、大丈夫かもとも思ったんですが、急にグラっと来て・・・」
「心配しなくていい、俺も十年くらい前に同じことがあったよ。仕事中に急に寒気がしてぐるぐる目が回りだしたことが。今日は病院に行くか、家でじっと休んでるか、とにかく安静にしておけって」
 菊池は運転を続け、十分ほどで私鉄の駅のロータリーにレクサスを乗り付けた。タクシー乗り場には数台、待機している。菊池は車を降りて、助手席側に回る。降りる若者の肩を支える。「悪いが、この先は自分で帰ってくれ。救急車の必要はないよな?」
「ええ、タクシーで帰ります。本当にすみません」
「謝らなくていい。安静にしてるんだぞ」
 菊池は中垣内をタクシーの中に押し込めて送り出すと、自分はレクサスに戻った。ダッシュボードの汚れに目が行く。これから首相官邸に向かうにしてはふさわしくないだろう。彼は自分の鞄からウェットテッシュを取り出して綺麗に拭うとレクサスを出した。「すいません教授、あたふたしてしまいまして」
「いいやいいって。それより、彼は大丈夫かね」
「若いし、抵抗力もあるだろうし、大丈夫でしょう。昨日も帰りが遅かったので疲れが溜まっていたのかも」
「君も疲れてないかい? 君まで倒れられたら大問題だ」
「大丈夫、だと思うのですが。インフルエンザのワクチンも射ってありますし」
「いつだね?」
「ええと、今年の二月ですね」
「二月じゃあもう効かんよ。ワクチンの効果はせいぜい半年だ」
「では、近いうちにまた射っておきます」
 予期しないトラブルに見舞われたものの、まだ時間に余裕はある。それでも菊池は都心に出るのに高速道路を使う選択肢を取る。高架道路のインターに進んでいく。
「下道で行ったほうが・・・」料金所のゲートをくぐり抜けたあたりでいきなり福来教授が言う。
「え? え、すいません教授、何か?」
「いやあ、高速を使えば確かに早いけど、事故渋滞に巻き込まれて何時間も動かないなんてこともあるし・・・」
「それもそうですが、少しでも時間的な余裕が」
「まあいいよ。何もないことを祈るね」
 まったくうるさい爺いだ、絶対に口に出せない言葉を飲み込み、菊池はレクサスを走らせる。少なくとも自分が事故を起こさないように、事故に巻き込まれないように、流れの早い首都高を細心の注意を払って進んでいく。俺を誰だと思ってるんだ、そう口の中で呟く。二十代の頃に一年だけ参加したワンメイクレースのシリーズ、車も充分に整備できなくて四十五台の参加者の中で年間総合のリザルトは二十八位だった。大学の事務員として働きながら給料もほとんどつぎ込み、有給も全部消化して計十戦のレースシリーズに出場したが、最高位も八位だった。しかしそれでも、自分が才能のないドラーバーだとも思えなかった。毎回上位に進むのはスポンサーに恵まれた連中だった。大手企業の社長の息子も多かった。太いスポンサーを繋ぎ止めていられるレーサーだけが表彰台に上がり、さらにその上のカテゴリーにステップアップしていく。ああ、そうか、こんな仕組みなのか。二十六歳だった菊池はそう悟った。以降、菊池はまた峠の走り屋に戻ったが、三十五歳で結婚したのを境にそれも卒業する。今では家族のために買うファミリーカーのグレードを最上級のレース仕様に近いものにする、それが彼が車で楽しんでいることの全てだった。
 霞が関の首都高出口を降りると、すぐに首相官邸前にたどり着く。前夜に官邸の秘書官と話がついてはいるが、それでも緊張せざるを得ない。棒を振る警官が立ちはだかり、レクサスを停める。近づいてきた警官に菊池は窓ガラスを降ろし「埼玉帝国工業大学の福来教授です」と告げる。警官は手に持っていたバインダーに目を落とし、レクサスのナンバーも見る。
「はい、伺っております、福来教授ですね」警官は言う。「このまま中に進んでお待ち下さい。外来の車止めまで進んでいただきます。すぐに担当の秘書官が対応いたしますので、そのまま車の中でお待ち下さい」
 警官が一般道と区切っていた蛇腹のゲートを押し狭めて空間を開け、促す。菊池はレクサスを進めた。テレビのニュースでよく見た首相官邸の建物が目前に迫ってきた。さらに先では警官が棒を振って呼び寄せている。菊池は警官の指示に従い、敷地の端に車を停めた。
「初めてなので緊張しますね」
「君はそうだったか、中垣内くんは去年に何度か来ていたはずだが」
「なので今回も頼んでいたのですが・・・」
 一人の男が官邸の中から出てくる。スーツの裾を風になびかせ、大股でレクサスに近づいてくる。昨日、電話で話した男だろうか、菊池はドアを開けて外に出た。
「秘書官の園田です」男は名刺を差し出した。
 菊池も同じく名刺を差し出す。「埼玉帝国工業大学、事務局長の菊池です。今回はお世話になります」
 福来教授もドアを開けて降りてきた。「どうも、園田くん、今日はよろしくね」
「教授、この度はおめでとうございます」
「いえいえ、たまたまでね。そう、繰り上がりでたまたまだからね」
「総理は現在、閣議の最中ですが、すぐにそれは終わって面会の機会を設けてあります。確か昨晩のうちにお祝いのメールを差し上げていたはずですが、確認されていますか?」
「うん、来ていたね。君が代理で出したものでしょ?」
「いえいえ、総理が自分の携帯電話で直々に送ったもので・・・」
「あれ、そうだったの」と福来教授は満面の笑みで言う。「返事はしたかな、したと思うけど、でも昨日は本当に滅茶苦茶に忙しくて、本当、何がなんだかってくらいに混乱してて」
「ええ、承知しております。メールの返事が来てるかどうかなど、総理も気にしていないでしょう」
 三人は歩いて首相官邸の建物に入っていく。すると、広いホールに詰めかけていた二十人ほどの報道陣が教授に気付いて小走りで近づいてくる。
テレビカメラも十台近くが向けられた。おめでとうございます、教授、おめでとう、金メダルは今日はお持ちで、何かコメントを、お願いします、お願いします、教授・・、幾つもの声が一斉に浴びせられ、菊池は思わず彼らと教授の間に立ちふさがってしまった。
「うん、ええと、みなさん、ありがとうございます」と福来教授は立ち止まり言う。「今日は総理大臣に表敬訪問です、私の今回の受賞は私一人のものではないですからね、日本の国としての科学技術の後押しがあって初めて実現したことなので、そのあたりの資源ですが、ええと、教育への予算配分などもですね、この際、もっとはっきりとね、ええと、たっぷりとね増やしてもらうよう是非お願いしたくてですね、ええと、まあ、そんなところですかね」
 菊池と秘書官、それに数人の警官などが間に入り、一瞬の記者会見は終わる。園田が先導し、菊池と教授の二人は控室に通された。向かい合わせのソファーにテーブルがあるだけの簡素な部屋だった。
「では、時間が来ましたら呼びに来ますので、ここでお待ち下さい」と園田秘書官は言う。「三十分ぐらいか、遅くても一時間はかからないかと」
 彼が部屋を出ていくと「そう言えば」と教授は言う。「さっきの記者の人たちが言ってたけど、今日は金メダルはって聞かれただろう、あったほうが良かったかね?」
「テレビ的にはそういうのがあったほうが絵になるってことなんでしょうね。でも今日はお持ちではないですよね?」
「持ってきてないよ、なんだ、言ってくれれば出してきたのに」
 しかし二分前に出ていった園田秘書官がすぐに戻ってきた。「すいません、一つ前の件が急にキャンセルになりまして、もうこちらの準備は出来ているのですが、よろしければお越しいただけますか?」
「はいよ、はいはい」と教授は軽々しく答え、椅子から立ち上がる。
 菊池は事前の準備が何も出来ていなかったが、もうここは相手の懐の中だった。部屋から出てスタスタと歩き出した福来教授の後を慌ててついていくことしか出来ない。日本の権力の中枢であり、国の最高意思決定機関とも言えるこの場所では、自分のような大学の一職員がジタバタしたところでどうすることも出来ない。何も動かないし、何も始まらない。お釈迦様の手のひらで弄ばれるただの猿だ。せいぜい虚勢を張って、このくらいでびくびくしている度量の小さな男ではない、とそんな素振りでいることぐらいしか出来ない。菊池の前を歩く教授は、園田の後に続いて歩いていく。ずんずん歩いていく。以前に何度が訪れているとは聞いていたが、それにしても躊躇がない。菊池は少し教授のことを見直し始めている。これくらいのことでビビっているような小者だったらノーベル賞も金メダルも取れないのではないか、と。
 廊下の奥に広がった応接用のスペース、そこはテレビで何度も見た光景だった。首相が要人を出迎え、握手し、言葉を交わし、記者たちから質問が飛び、カメラーのシャッター音が幾重にも響き渡る場所。菊池はその手前で足を止めるが、教授は進んでいく。総理大臣が待っていた。
「やあどうもどうも教授、おめでとうございます」
 内閣総理大臣の安武首相が笑顔でそう声をかける。
「いえいえ、ありがとうございます」福来教授は言い、二人は部屋の真ん中で握手を交わした。
 報道陣のフラッシュがバシバシと焚かれ、と同時に「おめでとうございます」と声。教授はそんな記者からの声にもニコニコと笑顔で答える。
「ただ、今回の受賞はただの受賞とは違います」向かい合わせの椅子に腰掛けると、総理大臣は続ける。「モントリオールオリンピックの金メダルとのダブル受賞でもあるわけです、私も覚えていますよ、子供の頃、大きなニュースでした。ただ当時は奇跡なんて言われたものですが、今回のノーベル賞はそれとはまったく違って、堂々とした王道の研究が認められたわけです」
「いやいや」
「現在の日本政府の水素エネルギー戦略の中核、それも核心技術でもある水素の貯蔵に関してのブレイクスルーでもあるわけです。これは本当にエネルギーに乏しい政府と国民にとっては薔薇色の未来図が示された、とも言えるわけです、記者の皆さん、これは本当に凄いことですよ」
「いえいえ、総理、まだ道は半ばです」と教授。「まだまだこれからです。私も楽観的な人間ですが、本当の未来はまだ遠い」
「それはもちろんです」と総理大臣は言う。「ですが、政府としてもこれからの教授の研究には全力でバックアップをさせていただく所存です」
「ええ、ぜひともそれは」
 菊池は少し前のめりじゃないかとも思える総理大臣の言葉を聞いて、今日の訪問は意味があったな、と安堵する。確かに今までにも医学賞や物理学賞など、日本人の研究者にノーベル賞は多く贈られている。しかし今回の福来教授の研究は国の中枢の政治家が描く、日本の将来像とも合致している。今まで特に多くの助成金が埼玉帝国工業大学に注ぎ込まれていたわけではない。しかしこれで風向きが変わった。総理大臣と福来教授と、詰めかけた報道陣の組み合わせを一歩引いた場所で眺めながら、菊池は将来への期待でときめいている自分を感じていた。歓談の時間も過ぎ、二人はまた控室に戻る。控室の椅子の腰を下ろすと、背中にどっと汗をかいているのに気づく。
「ご苦労さまです、教授」菊池は言う。
「なあに、こんなものだって」教授は機嫌が良さそうだ。頬が紅潮している。「予行練習のようなものだね」
「予行練習?」
「十二月には本番があるだろう」
「そうですね、まったくその通りです」
 控室に園田秘書官が入ってくる。「お疲れさまです、教授。これからもよろしくお願いします」
「今日はどうも。また今度、何かあれば」
「まだすぐには何をしていただくとか決まっているものは何もないのですが、よろしければ教授には総理のご意見番のような形で、いろいろと相談に乗ってもらうこともあるかと」
「そうだね、私の専門なんて狭い範囲だけど、解ることであれば何でもアドバイスさせてもらいますよ」
 菊池は再び教授をレクサスの後部座席に乗せ、首相官邸を後にする。次の目的地はすぐ近くのテレビ局だった。お昼から始まるニュースショーの特別ゲストとして呼ばれている。首相官邸と同様に初めて向かうルートだったが、菊池はカーナビに頼るまでもなく十分もかからずにテレビ局の入口にレクサスを到着させた。やはりここにも警察ではないが、同じ役割をする警備員が立ちはだかる。菊池が出演する番組、担当のプロデューサーの名前を告げると、警備員は地下の駐車場に向かうよう指示をする。菊池は巨大なビルの地下にレクサスを進めた。
「そろそろ腹が空いてこないかい?」とレクサスを降りながら教授は言った。「私は朝が早かったからね」
「用意してあります。といいますか、あちらで弁当を用意していただけることになってます」
「ああ、そう。食べてる時間は」
「出演はまだ二時間は先になりますので、大丈夫かと」
 入口を潜った先の受付で受付嬢に担当者を呼び出してもらう。今度、二人の前に現れたのはさっきの園田よりも年配な男だった。名刺の肩書は「統括総合プロデューサー」だった。そして「この度はおめでとうございます」と定例の祝辞の言葉を告げる。
「いえいえ」
 と教授は答える。そんな教授の様子を横目に眺めながら、菊池はほどほどにしてくれよな、と思わざるを得ない。確かにこの教授はうちの大学では一番の有名人であり、業績も抜きん出ている。しかし埼玉の片田舎の大学の理工系の教授である、という以外に特筆すべきものはない。金メダルだって半世紀前の話だ。だから大学の門を一歩出たら教授をちやほやする人物など誰もいなかった。しかし、昨日を境にその状況もまったく変わってしまった。菊池は中垣内が抱いていた不安を払拭できるか自信を持てなくなってきた。この先、教授が図に乗り、増長し、やりたい放題の迷惑大王になった時、誰がどうやって手綱を握るのだろう? 考えただけで目眩がしてくる。
 お昼のニュースショーでも、教授は今現在、この国で一番ホットな話題の中心人物としての存在を存分に発揮した。なんといってもただのノーベル賞受賞だけではない。文武両道、スポーツと学問の二つの分野で頂点を極めた傑物として、それでいて親しみやすい陽気な研究者としての横顔も見せ、生放送の本番の最中、スタジオの出演者たちを和ませた。
「それで、教授、本当ならモントリオールの金メダルも持参していただけている?」と番組の司会者が問いかける。
「ご免なさい、忘れてしまって。本当なら持ってくるべきでしたよね、最近のメダリストみたいに、こうがぶっと噛んで」
「噛まなくてもいいですよ、教授!」
「私が選手の頃はあんな習慣、なかったんですよ」
「それよりも、確かノーベル賞にもメダルがあって、授賞式で贈呈されると思うんですけど」
「そうですね、だから授賞式には金メダルも持っていって、首に下げておこうかなんて考えてますけどね」
「目立ちたがりですか、教授」
「いやあ」
 菊池はスタジオの片隅で番組の進行を見守っていた。お調子者であることは裏返せば、周囲を巻き込んで楽しませることに長けているということでもある。きっと今日初めて教授のことを見たテレビの視聴者は、教授のことを愉快で明るくて親しみやすいお爺さん、と思うだろう。それは間違いないが、いつまでもそんな表側しか見せないかと言えば、それは違う。人には誰しも裏側があり、教授の場合はノーベル賞という誰にも否定の出来ない権威をまとってしまった分だけ厄介だ。それでも菊池は楽観的な見通しを持つことに躊躇はなかった。適当でいい加減な相手に厳粛に対応しても意味はない。自分もリラックスして向き合えばいいだけの話だ。
 正午から午後二時までの番組中、教授の出演パートは約二十分だった。司会者の「ありがとうございました、教授」の声で送り出され、CMになり、ディレクターに促されるままスタジオのセットから出る。毎日、様々な話題を取り上げる番組だけに、教授の出番が終わった後は政局の与党対野党の攻防が取り上げられる。菊池は出番が終わってスタジオを後にする教授に駆け寄り「ご苦労さまです」と声をかける。
「ああ、なんかもう少し」
「はい?」
「いや、色々と喋り足りないなあ」
「これからいくらでもそんな機会はありますよ」
「そうだな」
 テレビ局を後にし、地下から地上に出ると、空模様がぐずついていた。午前中にはなかった黒くて低い雲が立ち並ぶ高層ビルのそう高くないところに広がり、遠くないうちに雨が降り出す予感を抱かせる。
「菊池くん、少し休もう」と後部座席から教授が言う。「ホテルのラウンジで少し休憩といこう。明日からの準備もあるしな」
「わかりました」
 菊池は答え、教授がよく使うという都心の高級ホテルの地下駐車場にレクサスを停めた。二人がラウンジの窓際の席に腰を下ろすと、途端に大きな窓ガラスの向こうに大粒の雨が落ちてきた。
「今日のところの予定は済んだのですが、明日は外国人記者クラブで記者会見がありますね」
「今日の夜中に確かモントリオールのテレビ局の中継インタビューがあったよ。これは自宅でネット経由で出るから君の手は煩わせないが」
「そうです。それもお願いします」
 菊池のスマートホンにメッセージが届く。「事務局からですが、ええと、明日もう一軒、取材の申込みが入ってますね。BBCの日本支社からです。生中継とかではないみたいですが、これは受けておくべきかと」
「そうだな、受けるよ」
「取材の場所が大学か、もしくは都心のホテルか、お望みの方で対応するとのことですが」
「だから明日の記者クラブの後、どこか近くのホテルを取ってもらえばいいんじゃないの」
「そうですね、そうしてもらいましょう」菊池はメッセージを返す。と、その直後に電話が鳴る。妻からの着信の時に流れる音楽だった。「すいません、教授、ちょっと、私用の電話なんですが」
「ああ、どうぞ」と教授。
「すいません」菊池は言い、電話に出るなり「どうした?」と言う。
「今大丈夫? 忙しい?」慌てたような、緊張感のある妻の声だった。
「ああ大丈夫だよ、今は教授とお茶してるところだから」
「電車が停まっちゃったみたいなのよ」と妻は続ける。「雷で設備が故障したとかで、すぐには復旧は無理だって。夜までかかるとか言ってるし」
「東条線が?」
「そう、私もちょっと忙しくて迎えに行けそうもなくて、もし、よかったら藍子を拾ってこれる? それとも、無理そう?」
「大丈夫ですよ、奥さん」と教授がコーヒカップを手に声を張り上げる。会話は教授の耳にも届いていた。「今日はもう帰るだけだし」
「すいません、教授、ではお言葉に甘えて」
 妻との電話が済むと教授は「なんだ、娘さんはこっちまで通ってたの?」と聞いた。
「ええと、なんと言いますか、恥ずかしい話ですが、二年前から不登校になりまして、しばらく引きこもりみたいな状態でしたが、ちょうど半年前から池袋のフリースクールに週三日で通ってまして、今日も電車で登校していたのですが」
「ああ、そうなの」
「たまに日曜も行事があって、その時に帰りは車で迎えに行ったことが何度かありまして、だから場所は知っているのですが」
「ならこのままピックアップしてやればいい」
「それでいいでしょうか」
「別に構わんよ」と教授。「君の娘さんか、一人だけだったよな、何度か会ったよなあ、今、何年生だ?」
「小六ですね」
「じゃあ、来年からは?」
「どうなるんでしょう、こればかりは本人の意向ですかね」
 と菊池は答える。本当なら聞かれたくない家庭の事情だが、教授にそんなデリカシーはない。来年、娘はどうなるのか? 夫婦とも教育関係の仕事に就いているだけに周囲にも話しづらい悩みだった。
「私の従兄弟の息子だったかな、不登校で全然、学校に行けない子がいたんだ、二〇年くらい前かなあ。でも、大検で高卒の資格も取って、そのまま中堅の私大に進んだんだ。今では大企業でもないけどそこそこのところで働いているよ。プログラマーだったか、システムエンジニアだったかな」
「はあ」
「もともと頭は良かったんだな、ただ学校というものに馴染めなかっただけで。だから社会に出たらちゃんと通用している。君のところの娘さんもそんな方式で良いんじゃないの?」
「そう上手く行ってくれれば良いのですが」
 二人がホテルのラウンジを出た時もまだ雨は止んでいなかった。それどころか、途中でさらに強さを増し、フロントガラスに真夏の集中豪雨ほどの雨粒を叩きつける。池袋につく頃には少し弱まったが、それでも本降りは変わりない。菊池はフリースクールの正面、ただの雑居ビルの道の向かいにレクサスを停めた。娘の藍子はすぐに玄関先に出てくる。この時間に迎えに行くとメッセージを送っていた。しかし娘はキョロキョロとあたりを見回している。そうか、迎えに行く車を教えていなかった。ホンダフィットを探している。
「おい、藍子!」菊池は窓ガラスを下げて叫ぶ。「こっちだ!」
 藍子は気づき、走ってくる。そのままレクサスの後部ドアを開けて中に飛び込んできた。「違う、こっち、助手席!」
「いいよ、菊池くん、どこでも」教授は言う。「君の隣に回ったらまた濡れるじゃないか、このままでいいよ」
「すいません、教授」
 菊池は車を発進させた。「済まなかったな、仕事の帰りでそのまま迎えに行ったんだ。これは大学の車だからな。それと、教授にご挨拶だ」
 小学六年生の菊池藍子はびしょ濡れの髪をハンカチのタオルで拭っていたが、その手を止め、教授を見た。そしてはっきりした声で「福来教授、ノーベル化学賞、おめでとうございます」と言った。
「いいや、なになに、ありがとう。前に少し会ったね」
「はい、二年前のお花見の時と、大学の運動会で」
「そうだったか、いい記憶力だね」と教授。「菊池くん、聡明な娘さんじゃないかね、大丈夫だよ」
「はあ」
 菊池は自分の真後ろに座る娘を視界に収められないもどかしさと、教授の隣で何か粗相をしないかという不安で、気が気ではない。それよりもまだ雨がひどい降り方で、視界が悪い。ステアリングホイールを握っている手に汗をかいていた。
「藍子ちゃんだっけ」と教授。「今日のフリースクールはどうだったの? どんなことをしてるんだい?」
「今日は講師の人でパソコンに詳しい人に教えてもらいました。ホームページの作り方?」
「なるほど、楽しかったかい?」
「ちょっと、レベルが低かったのですが」
「ほほう、やるじゃないか」と教授は運転席の菊池に。「おたくの娘さん、大丈夫そうだよ。私も研究者であると同時に教育者でもあるからね、若い人の将来にはなんとか上手く行けばいいなとか、手を焼いてしまう。私の研究室からも、毎年優秀な若者が巣立っているからね」
「知ってます」と藍子は言った。「二年前に埼帝大の博士課程を終えて産業総合研究所の上級研究者になった成瀬智久さんの最近の研究を見ました。若手研究者の激励賞にノミネートされた、ジメチルカーボネイトを高効率に転換する先駆的な触媒プロセスの開発と高効率触媒的変換と反応メカニズムの解明、なんて面白い論文でした」
「ええと、ええ、藍子ちゃんだっけ?」と福来教授は隣の席の小学六年生の女の子を見る。もう一度、しっかりと見る。「うーん、そうか、そうなのか、なるほど、なるほど、ええと、菊池くん?」
「すいません、何か娘がご迷惑を? ちょっと、ませたところがあるかと」
「ませたところじゃないだろう?」教授はもう一度、藍子を見る。小六にしては小柄だろうか、四年生といっても通じそうな華奢な身体に、聡明そうな瞳で自分をじっと見上げている女の子に今は少したじろぐしかなかった。「藍子ちゃんだっけ、それはどこで見たのかな?」
「主にネットですけど」
「だろうね、だろうね、そうだろうね、じゃあ、ホームページの作り方なんて退屈かもね。触媒についても好きなのかな?」
「ええ、去年はずっと好きでした。だって、面白いじゃないですか、触媒って」と藍子はぱっと目を輝かせて言った。「でも今はそれほどじゃなくって」
「じゃあ今は?」
「量子コンピューターと最新の宇宙論なんかが好きで、海外の人の論文を読んだり、ジェームズ・ウェッブの最新データを見たり」
「ああ、そうなんだ、ええと、英語でかな?」
「はい、そうですね」
「なるほど、なるほどね」
 と教授は言う。そして窓の外を見る。いつしか雨は止み、西の空に傾きつつある太陽の日差しが車内に入ってきている。教授は顎に手を置き、もう一度じっと藍子を見た。彼女は冗談を言っているのか、それとも本物なのか。冗談にしても程度が高い、そのへんの大学生よりも高度なことを言っている。菊池くんはともかく、彼の奥さんとも何度か会って話をしているが聡明な女性だった、そちらの遺伝だろうか? 大検なんかよりもいっそ飛び級制度を使って、来年から自分の手許で勉強を教えたほうが日本の未来にとっても有用なのではないか、そんなことに思いを巡らす。
「あれ、すいません、教授、娘がご迷惑を?」
 後ろの席が静かになったので運転席の菊池が言う。
「いや、大丈夫だよ。娘さんは普段からこんな調子で?」
「私も最近忙しくて、ちゃんと見てやれなくて。フリースクールのない時は居間でタブレットを使って、色々と見ているようですが」
「かなり程度の高い娘さんじゃないかね?」
「そうなんですか、私もよくわからない外国語のページをよく眺めてたりしているみたいですが・・・」
 眺めているだけじゃないだろう、教授は言いかけた言葉を飲み込む。言い淀むことなんて滅多にしない年齢だが、何故かそうする。教授はふうっと深く息を吐くと、前の座席のシートに手をかけ言った。「このあとだが、実は私は家に帰っても一人なんだ。奥さんが先週からアラスカクルーズに行っててね、ずっと外食ですましてた。だから、このままそのへんのファミレスにでも寄ってくれないか。もちろん、二人にもご馳走するし」
「いいんですか?」
「ああ、是非ともだよ」教授は隣の藍子にも言う。「何が食べたい?」
「じゃあ、スパロウズがいいです。家族でよく行くんです」
「菊池くん、そのいつものところへ」
 バイパス沿いのファミリーレストラン、全国チェーン店のスパロウズは教授も年に数回は利用している。学生と行ったことも何度かあるので、仕組みは理解している。しかし、その日にやって来たバイパス店は以前と様子が違っていた。中に入っても出迎えるウェイトレスはなく、入口を入ってすぐの所でタブレットに色々と入力する必要があった。ほんの数ヶ月で、急速に世間は回っていた。しかし教授が戸惑っているのを見た藍子が素早くタブレットに入力し「じゃあ、こっちです」と先導して店内に進んでいく。三人はテーブルにつく。
「注文も私が入れます」と藍子は言い、テーブル横のタブレットを使ってメニューの中から料理を選んでいく。
「イタリアンハンバーグのセットで、あと、サラダも大きなやつを貰おうか、皆で分けよう」と教授。
「ドリンクバーはつけますか?」と藍子は聞く。
「三人ともつけてね」
「じゃあ、私が飲み物を持ってきます」菊池が席を立つ。「皆さん、何を?」
「メロンソーダ」と藍子。
「烏龍茶で」と教授は言った。
 福来教授は席を立った菊池を目で追う。夕食にはまだ少し早い時間帯だが、店内は混みだしている。ドリンクバーの前にも順番待ちの列が出来ている。
「で、藍子ちゃんだっけ」と教授は言った。
「あ、そうだ、お母さんに晩御飯は要らないって言っておかないと」と藍子はいい、スマホを取り出してメッセージを送った。
「藍子ちゃん?」
「はい?」
「さっきの話の続きをしようか、君のその、将来のこととか」
「あの、実は私も教授にお話があったんです、というかお願いしたいことがあって」と藍子はスマホをポシェットの中にしまい、言った。「私、昨日の教授のニュースを聞いてから色々と調べてみて、前は触媒のこととかも色々と好きだったから。あの、私が触媒のことを好きになったのも、お花見の時に教授が「触媒って面白いんだよ」って言ってくれたのがきっかけで、それで自分で調べるようになって」
「そうだったのか、なるほどなるほど」
「ソルボンヌ大学の大学院生にアンネグレート・リヒターさんという、二十七歳の女性がいるんですけど、ご存知ですか」
「はい? いや、いたかな、いたと思うけど」
「ヤーデルード教授の研究室の人です。昨日、ちょっとこの人のブログを見てみたら、別のアカウントを持っていて、そっちには鍵がかかってたんですけど、あの、ちょっといけないやり方でそっちを覗いてみたら、この人はドイツの方で、ドイツ語でいろいろ変なことを書いてました。今回のノーベル賞には不正があるって」
「ええ? ええ? ちょっと、藍子ちゃん?」
「それで私もどんな不正があったのか興味があって調べてみたんです。そしたら、三年前のチェルピンスキー教授との共同の論文のデータにおかしなところがあって、でも、今回の福来教授のデータにはあれ、変だな、そのデータのところが直っていて、ああ、このデータの操作のことを不正と言っているんだなって思って、それで教授?」
「はい?」
「このこと、黙っててあげますよ、その代わり・・・」
「すいません、おまたせ」と菊池が三人分の飲み物を持ってきてテーブルに置く。「あれ? どうかしましたか?」
「いや、なんでも」と教授は言う。
 そのすぐ後に配膳ロボットが三人分の食事を届けに来た。「以上でご注文はお済みでしょうか?」とロボットは言った。
「はい、大丈夫でーす」藍子は言う。
 福来教授は確かに腹が減っていたが、なぜか食欲はなかった。いやさっきまであったのだが、消え失せていた。サラダのレタスにフォークを突き刺し口に持っていくが、紙を食べているような心境だった。サウザントドレッシングの味がするだけの上質な紙。いや紙だってもとは植物か、なぜかそんなどうでもいいことを考えている。食事のあいだずっと、菊池がこれからの予定を話しかけてくる。大学の事務局にはインタビューやらマスコミの取材の申込みが殺到しているので、それらを捌かなければならない。都心から戻る数時間の最中にもそんな要請はどんどん積み重なっているのだという。
「ただ全部を受けるわけにもいかないので、教授に選択していただかないとですね・・」と菊池は言う。
「そうか、そうだね、まあでも、そちらで勝手に断ったりしてくれてもいいよ。大きな媒体の所は受けたほうがいいかな」
 と教授は言う。とにかく今はそれどころではない。小学生の女の子に 強請 ゆす られている? いやこれは大きな試練だ。半世紀前、オリンピック直前に血管拡張剤とその効果を消す薬剤の順番を綿密に計算して望んだモントリオールの本番前の時のような、大胆さと細心の注意が必要だ。あの時だって薬物違反がばれたら失格どころではなかっただろう。日本中から糾弾され、袋叩きにあって非難されて、アマチュア競技者から退いたとしても大学に研究者として残ることだって叶わなかっただろう。そう、これは賭けだ。乗り越えるべき大きな試練だ。試練は大きければ大きいほど、楽しいものだ。教授はテーブルの正面でアイスクリームを食べている藍子を見下ろしつつ、決意を新たにした。
 食事を終えると、三人はスパロウズを出た。レストランが建っているのは大きなバイパスと高速道路の高架が交錯する十字路だから、駐車場の真ん中でも車の音がやかましい。
「藍子、こっち、助手席だから」と菊池は娘に言う。そうして先に運転席に乗り込んだ。
「はい」と藍子は言い、教授の横を通って回り込もうとする。
「そういえば、藍子ちゃん」と教授。「さっきの、その代わり、の先を聞いていなかったんだけど」
「はい、大したことじゃあないんです」と藍子は立ち止まり、教授を見上げるようにして言った。「ネットで論文を読めたりしても、やっぱり昔のものってなかなか無理じゃないですか。だから、大学の図書館を使えるようにしてほしいんです。前に一度だけ、父の後にくっついていって大学の図書館に入れてもらったんですけど、うわああ、本当に読みたいものがたくさんあるって、感激しちゃって。だから、教授のお薦めで、私の利用カードを作って欲しいんです。父にお願いしても無理だって言われて。駄目ですか?」
「ああ、そんなことね。それなら」
 運転席の菊池が再び降りてきて「どうかしました?」と聞いた。
「いや、何でもないよ」教授は言い、レクサスに乗り込む。そして助手席に座った藍子に「大丈夫だよ、作ってあげるよ」と言った。
「うわあ、ありがとうございます」
 菊池は途中のやり取りを知らないだけに訝しそうに「ん?」と言い二人を交互に見た。「すいません、娘がまた何か?」
「いや大丈夫」と教授。そして藍子にも満面の笑みで「これは二人の秘密だから、ね?」と言った。
「はい!」藍子も笑顔で言った。
 レクサスは走り出した。スパロウズの駐車場から出ると、バイパスの早い流れの中へ、走り出していった。
 
                          (了)

 

 

 

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