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【エッセイ】民主主義をあと百万年続けよう
戦争が終わらない。どことどこが闘っているのかなど、言わずもがなだろう。2024年八月現在、ロシアとウクライナの戦争は継続中だし、イスラエルとパレスチナの闘いも同じく続いている。いや、これだけではない。戦争と言えるほど大きなものでなくても、内戦、内紛、軍事侵攻、軍事紛争、そんなものは世界中どこにでもあるのが現状だ。第三次世界大戦はすでに始まっている、という人もいるし、第二次世界大戦は終結などしていなくて、ずっと続いているのではないか、なんて言説もあるくらいだ。それだけ人類の歴史には戦争がついて回っている。戦争なんて集団での殺し合いである。そんなものないほうがいいに決まっている。なのに人類は未だにこの愚かな行為を根絶できていないのだ。なぜなのだろう?
とはいうものの、先に結論を書いてしまうと、戦争といじめは絶対になくならない、というのが私の持論である。なぜなら、どちらも人間の感情に根ざしたものであるからだ。SF的な妄想をするなら、未来において全人類一斉にクスリを飲ませるとか、太陽光線に人格改造ビームを紛れ込ませるなりして戦争やいじめをなくすことが出来たとしたら、その時、一方で人類は互いに愛し合うこともしなくなっているだろう。それは間違いない。
しかしこれだけだと誤解を受けてしまいそうだ。「とんでもない奴だ! こいつは戦争もいじめも肯定してやがるのか! ふざけるな!」という具合に。もちろんそれは誤解である。私は戦争もいじめも否定しているし、絶対反対の立場にいるが、それとは別に、この人間の社会からそれらの理不尽を取り除くことは限りなく不可能だろうなあ、と考えている。人間の存在そのものが理不尽だからかもしれない。
人間はある時は機械のように冷静に、理性的に振る舞ったりするが、またある時は本能のままに動物的な言動にでることもある。ホモ・サピエンスが類人猿の一種であるのは覆せない真理なので仕方ないかもしれない。しかし、戦争で亡くなったり怪我をしたり、いじめや差別で苦しんでいる人に向かって「それも仕方ないよ。人間は動物なのだから」と言ったところで何も解決しないし、怒られるだろう。いや「ふざけるな!」と殴られるかもしれない。
私がこんなことを考えるのも、ずっと昔、まだ中学生の頃にとても印象的な体験をしているからだ。いや体験と言うか、とある教師がのたまったとても心に残る言葉があり、その言葉が40年ほど経過した現在でもずっと耳の奥に残っているからである。彼はまだ20代の若い社会科の教師であった。どんな状況だったのかは詳しくは覚えていないが、確かこんなことを言ったのである。
「人間はな、万物の霊長なんだぞ」
と。しかしこれだけでは解りづらいだろう。前後の文脈としては、当時の私が通っていた埼玉県内の公立中学校は、それはそれは厳しい管理教育の真っ盛りであった。服装や髪型や生活態度の全ての細々としたことにまで規定する校則があり、生徒はがんじがらめであった。しかし、何かのきっかけでタガが外れれば校内暴力上等の荒れた学校に転落するかもしれず、あやうい綱渡りのような状況だった。その中で彼のこの言葉である。この教師が言おうとしていたのは、「人間は動物なんかと違って知能がある。だから決められた校則やルールは守らなくてはならない。それこそが万物の霊長たるゆえんだ。だから校則は守れ。教師の言うことを黙って聞いていろ」と、こんなところだ。
なんとも教師らしい考え方である。そしてそれは現場の一教諭であろうと文部科学省のお偉いさんだろうとたいして変わらないだろう。ルールを制定し、皆がそれを律儀に守りさえすれば、何も問題はおこらない。いじめも問題行動もすべて解決だ、と。しかし問題はそんな簡単ではない。それでも文部科学省のいじめ対策とは「いじめはしてはいけないと決めました。はい、だからいじめは禁止です。絶対に禁止です」とルールさえ作れば、それで対策をしたつもりなのかもしれない。もちろん、ルールを決めたところで一時的にいじめは減るかもしれないが、根絶など不可能である。なぜ、いじめは起きるのか、という原因に触れてもいないからだ。結局、しわ寄せは現場にくる。上からいじめを無くせと命令された以上、あってはならないのだ。だから実際にいじめ問題が発生した時の現場は「いじめなどありません。ただふざけあっていただけです」と臭いものに蓋をする対応しかできなくなる。
戦争はいけないことだ、そんなことは地球上の全人類が解っている。しかしそれでも戦争は勃発し、人々は殺し合う。いや左翼リベラル方面からは「日本は憲法第九条を制定し、戦争を放棄したことで現に戦争に巻き込まれていない。ルールを制定するのは正しいではないか」と反論されそうだ。しかしならどうして世界中の他の国は同じような戦争放棄を取り決めないのだろうか、という疑問が湧く。結局のところ、九条とは日本が自分で制定したものではなく、戦争に負けた時に押し付けられたものに過ぎない。どこの国も自分で自分に足枷などかけたくないのだ。
戦争はいけない、殺し合いなんて間違っている、それは皆同じ考えなのに何故、戦争は起こってしまうのか? まず戦争とは国家や民族のような集団対集団の間で勃発するものである。なので、ひとつのやり方として一般の国民の上に立つ為政者が、ありもしない物語をでっち上げて国民に信じ込ませ、個人が持っている人殺しはいけない、という常識を上書きしてしまう、という方法がある。戦前の日本ではアジアを欧米列強の植民地から解放するのだ、というスローガンを掲げたし、現在のロシアならウクライナを支配しているネオナチを排除するのだ、という主張がある。古代なら我らの神と別の神を信じている隣の民族は悪魔と同じだから滅ぼしてしまえ、という物語を信じ込ませればいい。そんなストーリーが正しいかどうかなど、まったくどうでもいい。何年も何年も、あるいは子供の頃からそう言い聞かせて信じ込ませ洗脳してしまえばいいのだ。
戦後の日本は戦争に巻き込まれてないが、それは憲法第九条があったからというより、アメリカの軍事基地が日本にあったからだ。現に第二次大戦直後にソビエトのスターリンはアメリカのトルーマンに対して「北海道の東半分を寄越せ」と言ったそうである。つまり北海道の日本海から太平洋に国境線を引き、その東半分を貰うぞ、ということだ。すでにサハリンと北方領土をせしめていたソビエトにすれば、それでオホーツク海を完全に自分たちの内海に出来るので、そのように目論んだようである。トルーマンは拒絶したので北海道は日本に残ったが、そのアイデアはソビエトの中にずっと残っていたはずだ。というのも私がまだ十代の頃(1980年代だ)、テレビの番組かあるいは雑誌の記事か何かで見聞きした話だが、こんなものがあったのである。モスクワでとある演劇が上演された。その劇自体はイデオロギー色のない普通の市民を描いたものだが、そこに日本人が出てきたそうである。その日本人とは数人で腕を組み合い、声を上げながらジグザグに行進していた、というのだ。これは何かと言えば、当時の日本で労働組合がデモをしたりする時、よくそうやっていた光景である。つまり、まだ80年代のソビエトのニュース番組などでは日本のニュースとして「また日本で労働者のデモがありました」とさかんに放送していたのだろう。そしてそれを見ていた劇作家も、日本人とは腕を組んでデモをしている人たち、と知らず知らずのうちに刷り込まれてしまった、ということのようだ。これなら、ソビエト政府も日本に攻め込む際、自国民にこうしたストーリーを信じ込ませることが出来る。「日本で労働者の政権が誕生しましたが、反対勢力が内戦を仕掛けています。我らソビエト軍は日本の労働者に加勢するため日本に侵攻します」と。事実、そうして起こったのがアフガン侵攻である。もちろん、アフガニスタンにアメリカ軍の基地はなかった。
最近読んだ本に面白い記述があった。我々人類が戦争をしたり、いじめをしたり、そうした野蛮な行為から抜けられないのはそもそも人類が暴力的な野生の中で長年生きていたからだそうだ。「サバンナ理論」というものである。前回のエッセイでも書いたが、我々人類がチンパンジーの系統から枝分かれしたのは、六百万年ほど昔のことだ。はじめはジャングルで暮らしていたようだが、その後、アフリカの開けたサバンナに進出し、そこで数百万年もの長い時間過ごしている。そこはもちろんむき出しの野生の中である。家族愛や隣人愛のようなものはあったかもしれないが、ライオンやハイエナなどの捕食獣には通じない。数百万年もの間、我々はそんな獣とずっと闘っていたはずだ。おそらく道具を使ったりしてそんな肉食獣を退けてきたのだろう。いや、必ずしも勝つとは限らない。自分の子供や隣人を食べられてしまうこともあったろう。そうした戦いに勝ち、生き抜いてきた個体だけが子孫を残すことが出来た。自分の家族を生き残らせるために、隣の家族を襲って食料を奪うようなこともあったかもしれない。あるいは、山ひとつ向こうに住む集団と縄張り争いのような集団同士の闘争しなくては生存できなかったのかも。優しくて、博愛主義の原始人もいたかもしれないが、そんな奴は生き残れなかった。何にしろ、人類が生きてきたほとんどの時間、法律も条約も民主主義もなかったのだ。あったのは、暴力とむき出しの生存本能である。だから、人類は暴力や闘争をするのが当たり前の動物の一種であり、現代の人類も戦争を根絶できないのではないか・・・・。
なるほどなあ、と納得できる反面、あまりにも身も蓋もない考えに戸惑ってしまう。このような考えはおそらく進化論的には正しいのだろうが、だからといって現代人が戦争で殺し合うことの免罪符にはならない。
少し前のことだ。そもそも第二次大戦の組分けが、アメリカイギリス組対日本ドイツ組になったのは何故だろうかと、考えを巡らせていたら、はたと気づいたことがある。それは民主主義の熟成度の違いではないだろうか、ということだ。戦前から日本にもドイツにも国会はあり選挙もあったが、導入して日時は経っておらず、言ってしまえば未熟な民主主義の国であった。一方、イギリスは現代民主主義の元祖である。そしてアメリカも建国当時から民主主義を掲げた世界で唯一の国である。封建主義の国から民主主義に鞍替えしたばかりの日本やドイツとは年季が違うのである。民主主義が絶対完璧な国家運営のシステムだとは言えないかもしれないが、それでも王様や独裁者が政治を牛耳り、暴政で国民を従える国家とは一線を画している。今現在、ウクライナに侵攻するロシアにもまともな民主主義があるとは言い難い。自分たちとは体制の違うEU諸国との緩衝地帯として、ウクライナやベラルーシなど衛星国を置いておきたい、というただそれだけの願望のために軍事行動を起こすなど、民主国家には到底出来ない所業である。そして台湾は自国の領土だ、などと何十年にも渡って国民を洗脳し続けている中共にも民主主義など微塵もない。北朝鮮については言うまでもないだろう。民主主義がない国で、独裁者や王様が変わるタイミングは国民の選挙などではない。クーデターのような政変しかない。民主主義の国なら、大統領や首相は引退した後も枕を高くして寝られるが、独裁者はそういうわけにもいかないのだ。だから独裁者は立ち止まれない。
しかしだからといって、全ての国が民主主義になれば戦争がなくなる、というのも短絡な思考だろう。国民の大部分がトチ狂って「隣の国を攻め滅ぼせ!」となって侵略することもあるだろうからだ。それでも民主主義国は一部の権力者や、力を持った軍部などが国民の反発を抑え込んでいるような権威主義国よりは理性的に国家を運営するはずだ。国民の大多数の支持を得ないことには事が進まないし、有権者のほとんどがトチ狂う事態などそうそうないだろう。とはいえ、人類の歴史のほとんどの時間に民主主義などなかったし、力を持った一部のリーダーがまつりごとを仕切ってぶいぶい言わせていた時代のほうがはるかに長かった。頭では判っていても、身体が民主主義に適応していない。だから我々は人が見ていないのならズルをしたいし、相手より上の立場にいたいし、揉め事が起こった時に暴力で片が付くのならそうしたい。そして自分より下の立場の奴らは顎でこき使ってやりたい。そういう生き物なのである。
結局のところ、我々人類は万物の霊長ではないし、賢い猿でもない。私が生きている間にこの地球から戦争が完全になくなることなどまずないだろうし、子供や孫の世代になっても同じだろう。いや、二百年、三百年後であろうと根絶していることはない。おそらく、十万年や百万年といった長い間、民主主義を続け、戦争を仕掛けてくるような権威主義国が美味い汁を吸えないように絶え間ない努力を続けることが必要だ。戦争を仕掛けたり、いじめをするような人間が子孫を残せないような世の中を作らなくては人間は進化しないのである。我々人類は、サバンナで生きてきた数百万年もの間、絶滅しかけるほどの試練を何度となくを乗り越えてきたそうだ。彼らが生き延びたのだから、我々が戦争を乗り越えてあと百万年、民主主義を続けることだって不可能ではないだろう。