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【エッセイ】横断歩道と脳機能とマチズモの話

 最近、ドライバーのマナーが少し良くなったような気がする。ほんの少しだが、そう思うのである。

 例えば、信号のない横断歩道だ。歩行者の私が横断しようとすると、やって来た車が停止して譲ってもらうことが増えた。以前はこんなことはなかった。まったく誰も停まってくれず、車の列が途切れた瞬間に慌てて渡らなければならなかったのだ。ちなみに私が車を運転している逆の立場では、必ず停止して譲っている。か、な、ら、ず、である。

 つまり今回のエッセイのテーマは「信号のない横断歩道に渡ろうとしている歩行者がいたらドライバーは停止して譲ってあげよう」とでもいうような啓蒙的な内容である。しかしこのテーマには色々と問題が多いことも重々承知している。現に私が歩行者として横断歩道の前に立っている時、せいぜい10台に1台ぐらい(以前は20台に1台くらいだった)しか停まってくれないのだから、のこりの9台のドライバーは「停まる必要なし」と考えていることであろう。いや「停まったほうが却って危険だ」とか「どうせ少し待てば車は途切れるのだから、歩行者はその時に渡れ」などと様々な意見が噴出することもわかっているのである。いやもっと強烈な、そもそも私にこんな意見を言う資格がない、と糾弾する声が上がるのも、予想できるのである。その声とは具体的にはこんなものだ。

「俺達に交通ルールを守れと言う、お前はすべてのルールを守っているのか? 40キロ制限の道路を1キロでもオーバーしていたら、お前は交通ルールを守っていないことになる。そんなお前に俺達にルールを守れと言う資格などない!」

 確かに、私は歩行者の時も、自転車に乗っている時も、ドライバーの時もあるが、その全ての場面で100パーセント交通ルールを守っているとは言い難い。そのあたり、かなりいい加減である。例えば、自転車に乗って幹線道路などを渡る際、信号を守るのは当然だが、青になったら自転車に乗ったまま横断歩道を渡っていたりする。これは駄目だ。横断歩道は文字通り歩道なのだから、自転車を降りて押して渡るのが正解なのである。ドライバーの時だって、制限速度を遵守しているとは胸を張って言えないのが辛いところだ。正直なところ、60キロのところを65キロや70キロぐらいで走っていることはある。私は今まで駐車違反で検挙された一回を除き、交通違反で警察のお世話になったことはない。人身事故や物損事故を起こしたこともないが、それはたまたまであり、運が良かったからだろう。しかし、無謀なドライバーではないとは自認している。無謀なドライバーとはつまり、制限速度30キロの、センターラインもない住宅街の生活道路を10キロ、20キロオーバーで走る抜けていくような、危険運転上等な、無鉄砲かつ無謀な輩では決してない。某youtuberの言葉をお借りするならナラズモノではないのだ。そのあたり、断言してもいい。
 
 では40キロ制限の道路を42キロで走ったり、横断歩道に歩行者がいても譲らないドライバーはナラズモノなのだろうかというと、それも違う気がする。警察の取り締まりにしても、行政の制限速度の制定にしても、色々とちぐはぐな部分はある。例えば次のような道路だ。この道路の制限速度は40キロである。それを設定したのは地元の自治体なのだが、昭和30年代ならともかく、現代の車事情にあっているとは言い難い。片側一車線の広い歩道も備えた郊外の道路で、ほとんど直線である。そして両側も田んぼなので見通しがいい。物陰から子供が飛び出してくるのを警戒する必要もない。なので、この道路を走る車はたいてい時速60キロぐらいで走行している。実際にそれくらいで走っていても危険はまったく感じないのだ。しかし、その道路は警察のネズミ取りの格好の狩り場になっている。すぐそばに公営の火葬場があるのでそこの広い駐車場がサイン会場だ。地元の人は知っている人が多いが、遠くから火葬場に来た人はまんまと捕まってしまう、そんな道路なのである。

この道路を時速40キロで走れというのはまったく酷な話だ

 制限速度を20キロオーバーする、と言ってもこの見通しのいい道路と、片側二車線の幹線道路と、センターラインのない住宅街の生活道路では意味合いがまったく違う。もちろん違反は違反だし、速度超過で捕まれば文句が言えないのも重々わかっているが、「流れに乗らないほうが危ないから制限速度を多少オーバーしてもいいのだ」とかそんな、自己流の理屈を並べ立てるのも違うと思うのである。そんな自分ルールで車を走らせていたら事故が頻発することは目に見えている。「いや、俺は今まで事故を起こしたことはない」と反論されるかもしれないが、それはたまたまであり、周囲の車や歩行者があなたに充分注意を払っていたからに過ぎない。事故の大部分は二つのミスが重なった場合に起きる。一人のドライバーがよそ見をしていても、脇道から合流しようとしていた車は無理に割り込んでこないが、二人ともよそ見をしていれば間違いなくガチャンとぶつかることになるのだ。事故はそんなケースが多い。

 そして本題である、信号のない横断歩道を渡ろうとしている歩行者を譲るかどうか、という問題だ。ルールで言うなら停止して譲らなければ駄目であり、実際に白バイの見ている前でそれを怠ると捕まってしまう。しかし私が歩行者として横断歩道の前に立った際、譲らずに通過していくドライバーを観察するにつけ「はて、この人たちは譲らなければいけないことを知らないのではないか?」と思うようになったのである。譲らないドライバーは歩行者である私になど目もくれない。歩行者のことなど無視して、突き進んでいくのが当然だ! と言わんばかりにビュンと走りすぎていく。最近のネットの記事でも読んだが、信号機のない横断歩道の直前には白いひし形のマークが道路に描かれているが、その意味を知らない人は6割もいるそうだ。当然、その人たちは車が歩行者よりも優先されるべきだからいちいち停まって譲る必要などない、と思っているのだろう。いやルールをそもそも知らないのだから、信号が赤でなければ車が停まる必要はなし、とそんな心理なのかもしれない。

 そもそもなぜ私がこの問題にこだわるかといえば、いくつか理由がある。遥か以前、私がまだ20代の頃、運転免許を習得するために通っていた教習所で、最後の最後の路上試験の時にちょうどこのケースに遭遇したのだ。信号機のない横断歩道を渡ろうとしていた幼稚園児たちの集団がいて、はじめはまったく気が付かなかったのだが、「あれ、そういえば停まって譲らなくちゃ駄目なんだっけ?」と思い出し、慌ててブレーキを踏んだのである。あと少し遅ければ助手席の教官にブレーキを踏まれて「はい、試験中止ね」となっていたことであろう。その時の記憶が強烈に残っているのもあるが、いや、もっと根源的に歩行者は車よりも弱い存在なのだから優先されなければならないはずだ、とも考えている。さらに簡潔に言うなら、普段の私はまったく適当でいい加減でちゃらんぽらん(死語)に生きているわけだが、車を運転している時だけは「意識高い系」なのである。当たり前だ。誰かを跳ね飛ばして命を奪うことだけは、絶対に避けたい、ただそれだけとも言える。

 しかし、車が停止して歩行者に譲るのは却って危ないのでは? という意見があることは承知している。何年か前にも話題になっていたネットの動画があるが、一台の車が横断歩道の前で停止して歩行者に譲っていると、後続の車が強引に追い抜いたので歩行者を跳ね飛ばしそうになった、というものだ。確かにこれは危険だ。前の車がそもそも譲らなければ歩行者も渡ろうとしなかったのだから跳ねられる危険もなかったのではないか、それは事実だろう。というか、この意見はかなり根深い。自動車評論家としてテレビにも出ている著名な人物が、堂々と同じ主張をネットの記事として発表しているのを読んで驚いた記憶もある。信号のないところで停まったら後続の車に追突されそうだから停まりたくない、とかそんなことも書いていた。つまり「道路交通法という法律で決まっているからといって杓子定規に守っていたら、却って危険なんだよ」ということなのだろう。しかし、それは暴論だ。

 停まると却って危ないから停まらない、それはただの自分ルールである。「俺は運転が上手いから住宅街の生活道路を50キロで走っても問題ない」と言っているのと同じなのだ。制限速度30キロの生活道路は全てのドライバーが30キロ以下で走るべきであり、歩行者が渡ろうとしている信号のない横断歩道も全てのドライバーが停まって譲るべきなのだ。それが交通事故による死者をなくす一番の近道である。しかし譲らずに走り去っていくドライバーを観察していると、私はふとこんなことを考えた。そもそも彼らは、私の存在に気付いていないのではないか、と。つまり譲らなければいけないことを知らない人もいるし、歩行者の存在に気づいていない人もいるのではないか、ということだ。まとめてみると、次の四つに分類されるのではないだろうか。

一、歩行者に気づいてもいないし、ルールのことも知らない。
二、歩行者に気づいているが、ルールのことを知らない。
三、ルールのことは知っているが、歩行者に気づいていない。
四、ルールのことは知っているし、歩行者にも気づいているが、ナラズモノなので停まらない。

 最近は例の伝染病だったり、ガソリン代の高騰があったりで、車で遠出をする機会がめっきり減ってしまった。なので私も車を走らせているのは近場ばかりである。となると信号のない横断歩道がどこにあるのかほとんど頭に入っている。そこに近づけば注意をすればいいわけだが、もしどこかに遠出して、初めての道を走っているときは常に横断歩道に、道路に描かれた白いひし形に注意をしなければならないことになる。正直それは、疲れる。私もドライバーだからわかるが、車を走らせている時に一番何に注意しているかといえば、信号だ。頭上5メートルの高さに設置されている信号の色が何であるかに、最大限の注意を払わなければならない。一度でもそれを間違うと重大な事故を起こして命を落としかねない。それは誰でもわかっている。だから相当なナラズモノでも信号は守っている。次に注意するのは他の車の動きだ。横道から出てくる車、あるいは自分が横道や道路沿いの店舗から大通りに出る時、信号機がない場合も多いが、そんな時は相当の注意を他の車に向ける。これもひとつ間違うと大事故だ。その次に気をつけるのが自転車や歩行者の動きだろうか。しかし信号のない横断歩道に歩行者がいたとしても、気づきにくい。光る信号でもないし、大きな箱型の物体が向かってくるわけでもない。実際、道路端に突っ立ていて動かない歩行者の存在は背後の電柱や街路樹や立て看板の中に埋もれてしまう。よほど注意力を鋭敏に向けていなければ、見落としてしまいがちなのだ。

 私は脳科学者ではないし、脳機能の専門家ではないが、どうもこれは正常な人間の脳の働きのように思えて仕方がない。つまり、ドライバーの脳は信号や他の車の動きに注意を最大限向けるために、道端にただ立っている歩行者や路面の白いひし形の存在を積極的に排除しているのではないか、ということだ。限られたリソースを有効活用するために、あまり重要でないところへ注意を向けないような働きをしているのではないだろうか。と考えると、横断歩道の脇に立っている私のことを完全に無視して、ビュンと走りすぎていくドライバーの挙動のわけがわかってくる。彼らはとにかくまっすぐ前を見ている。よそ見をしていたら事故ってしまうから前方に集中しなくちゃ駄目だ、と言わんばかりにフロントガラスの向こうを凝視している。彼らの脳からは歩行者である私の存在など排除されているのだろう。

 とはいえ、そんな歩行者を無視して停止せずに走り去るところを白バイに咎められ「いえ、私の脳が機能しなかったのです」と言い逃れたところで通用するわけはない。横断歩行者妨害になり、違反点数は2点、反則金は普通車で9000円とのことである。ドライバー側としても「ただ立っているだけでは渡るのかどうかわからない。手を上げて渡る意思表示をしろ」という意見もあるが、実は以前に私もそれを実践したことがある。しかし「何やってるんだ? 俺はタクシーじゃないぞ」とでも言う顔をされただけであった。すべての車が全自動運転になれば備えられた赤外線センサーにより、歩行者の姿も背景に溶け込まず捉えられ、自動で譲ることになるのだろうか? おそらく50年後にはそうなっているだろう。しかしそんな未来が来るまで横断歩道は車が優先だ! なんて交通ルールがまかり通るのもいやな話である。

 しかし、現在はネット社会である。最初に、最近はマナーが良くなって歩行者に譲るドライバーが増えたような気がする、と書いたのもネットの普及によってドライバーのマナーが向上したのではないか、とそんな気がするのだ。例えば前述したネットの動画だ。強引に追い抜きをして歩行者を撥ねそうになったドライバーに対しては非難の声の大合唱であったし、ドライバーが所属する会社は謝罪文みたいなものを発表せざるをえなかった。さらには警察や自治体も歩行者に譲ろうキャンペーンみたいな動画を作成してネットに上げるようになった。そんな流れから以前までは譲らなければいけないことを知らなかったドライバーの意識が変化し、マナー向上へと変わりつつあるのではないか? それはいくらか事実だろう。しかしひどいマナーのドライバーも一定数、存在する。すでに歩行者が横断歩道を渡っているのにけたたましくクラクションを鳴らして、蹴散らすように走り去っていくドライバーもまだいる。とんでもないナラズモノは昔ほどではないにしろ、まだまだいるのである。

 数年前、私は半年ほど遺跡発掘の現場でアルバイトをしていたことがある。(いろいろしているのだ)。その現場は定年退職した高齢者が多く作業に従事していて、土を掘ったり運んだりと吹きさらしの屋外で働いていた。その中のある高齢の男性が新しく入った若い女性に対して、偉そうな自己紹介をしているその場にたまたまでくわした。こんな風に。「俺はよう、年寄りの暴走族だからよう」と。そのおっさんは、車を運転する時はスピードを出して飛ばしまくってるぜ、と自慢していたのだ。つまりナラズモノなのだが、私の中では「なぜ車でスピードを出すことをわざわざ誇るのだろうか」という疑問が残った。なぜ危険な運転をする自分を、若い女の子へのアピールになると考えたのだろう?

 車を運転することはただA地点からB地点へ移動することではない。自動車という大きな機械の中に乗り込んで操り、アスファルトの上をとても人が走れない速度で疾走し、駆け抜けていく。車は生身の身体の能力を拡大させる装置であり、自分自身が何倍も大きくなったかのような錯覚をさせる。うまく操らなければ命を落としかねないというスリルもはらんでいる。つまりそこにはマチズモの思想があるのではないだろうか。男らしさ、たくましさ、強靭さを誇るマッチョ信仰と車の運転は分かちがたく結びついている。ハンドルを握るドライバーの多くは、鎌倉武士が馬に跨って弓矢を射り、武士としての武芸を競うかのような気分になっているのだろう。飛躍しすぎ? いやそれほどずれた考えだとは思えない。車を運転し、スピードを出してかっ飛ばすことは男らしさの象徴みたいなものだ。だから『頭文字D』や『湾岸ミッドナイト』のような漫画はヒットするし、F1やスーパーGTが開催されるサーキットには数万人の観衆が詰めかける。車でスピードを出すことは、男として格好いいことなのだ。そんな人から見れば横断歩道の歩行者には停まって譲ってあげよう、などと呼びかけている私の存在など、ただただ煙たいのだろう。実のところ私も『湾岸ミッドナイト』は狂おしいほど好きな漫画だし、『ワイルド・スピード』も好きな映画のシリーズだ。映画館まで見に行ったこともあるし、テレビでやっていると必ず見てしまう。いや頭を空っぽにして迫力のある疾走感と破壊と爆発を楽しめるカーアクション映画は嫌いではない。都内の池袋に住んでいた一時期は、池袋の映画館にカーアクション映画がかかったら見に行こう、なんて馬鹿なこともしていた。(スタローンの『ドリブン』は最低に詰まらなかった)。

 この世に男がいるかぎりマチズモ思想は衰えないだろうし、となると危険なドライバーが一掃されることはないだろう。いつになってもナラズモノは存在し続ける。数十年前と比べると、交通事故による死者数はかなり減っているが、それはドライバーのマナーが良くなったというより、ただ単にABSやエアバッグなどの車側の安全装備が発達しただけではないか、というような気がしないでもない。さらにマチズモがどうのこうの言っておきながらなんだが、横断歩道に立っている私を無視して走り抜けていくドライバーを見ていると、男も女も、老いも若きも、ほとんど同じくらいの割合でいるのである。結局、AIによる全自動運転が実現し、「人による運転は危ないので禁止」と道交法が改正されなければ、全ての車が歩行者を優先する未来は実現しないのだろうか。確かにそうなれば交通事故による死者はゼロになり、それはそれで素晴らしい未来だろう。しかし一方で窮屈に感じる人も多いのではないか。「自由を取り戻せ」とか「去勢されるのは御免だ」といったスローガンを掲げた反対運動も起きるに違いない。

 ユートピアかディストピアか、果たして未来はどちらなのだろう?

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