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【コラム】北京オリンピックをボイコットする一番簡単な方法

 いろいろあった東京オリンピック2020が終わった。一年延期されたり、無観客で行われたりと前代未聞の大会であったが、それでもなんとか終わったことは間違いない。成功だったかどうかはどうでもいい。大会期間中、大きなアクシデントは特になく無事に終わり、選手の皆さんは故郷に帰っていった、それは確かである。
 
 若い頃、私はオリンピックが大好きだった。始まるとテレビの中継はかじりつくように見たものである。大きなスポーツイベントに目がなかったというのもあるし、オリンピックの理念に心酔していたのもある。つまり、4年に一度、世界中から若者が集まりスポーツで競い合い、親交を深め、お互いを称え合い、そして大会期間が終わればまたそれぞれの故郷へ帰っていく。なんと素晴らしい! いや本当に理念がそのままなら、今も夢中になっていただろう。しかし残念ながら、今回の東京2020は斜に構えて見ていた自分がいた。

 と書くと「パンデミックなのにオリンピックだなんてけしからん、直ちに中止せよ!」と声を上げてデモをしていた人なのかと思われるかもしれないが、私はそうではない。去年にパンデミックが始まり、一年延期の決定がされてから、一部の人たちは「中止!中止!」と盛り上がっていたが、私は「まず中止はないだろうなあ」と思っていた。いや、「IOC(国際オリンピック委員会)は何があろうと強行するだろう。そうじゃないと彼らの存在意義がなくなるからな」と予想していた。まあ、その通りになったわけですが。

 特に政権に批判的な人たちやマスコミは盛んに「中止中止」を唱えていたが、組織委員会や自民党政権的にも自分たちから開催中止を申し出るわけなどいかなかっただろう。もし東京の真ん中で火山が噴火して都市機能が失われたりすれば別だが、日本側に開催を止める選択肢はなかった。もし「止めます」と言ったらIOC側からの報復は凄まじかったに違いない。日本でオリンピックを開催することは二度となし、で済むとは思えない。「日本人選手は今後五十年は出場停止」ぐらいまであったのではないだろうか? なぜってそりゃあ、IOCの収入源はテレビの放送権料なのだ。その額は数百億円。その金が入ってこないとなったら、とんでもない報復をされるだろうな、ということは馬鹿でも分かるだろう。「それでもいい、中止にする」なんて胆力のある政治家は日本にはいなかったでしょうな。

 IOCは強大な利権を持っている。それはオリンピックを開催できる、という利権だ。彼らの存在意義はただそれだけのためにある。利権を握ったら誰でもヤクザである。そしてIOCの設立母体はヨーロッパの上流階級の人々である。つまり貴族だ。貴族とヤクザなんて、ほとんど同じようなものだ。アメリカのマスコミがIOCのバッハ会長のことを「ぼったくり男爵」と呼んだが、まったくその通り、彼らは貴族のふりをしたヤクザなのである。

 なぜIOCの人々はそんな貴族のふりをできるのか? それはもちろん、オリンピックが巨大化し、莫大な収入を生み出すビジネス、金の卵を産むガチョウになったからだ。放送権料は数百億程度だが、実際にオリンピックに絡めて動く金はそんなもんじゃない。巨大なスタジアムを建設すればやはり金がかかるし、陸上競技場をひとつ作って済むものではない。数々の競技会場が必要になる。数千人の選手を収容する選手村だって、ただでは出来ない。道路を補修したり、新規に作ったりする必要もある。さらには莫大な警備費用もある。その金はスポンサー企業の広告費用ではない。国民の税金からひねり出される。去年、一年延期を決めたのは安倍首相だったが、それだけの金が動けば一国の首相がしゃしゃり出てこなければ決断はできないし、まわりも納得しないだろう。オリンピックはもうただのスポーツイベントではない。それゆえ、始まった当初の理念からは遠く離れた場所に向かっている。彼はもう昔の彼ではないのだ。

 そもそもオリンピックとは何なのか? なぜ行われるようになったのか? 知られているように、近代オリンピックを提唱し、世界に広めたのは二代目のIOC会長を務めたフランスのクーベルタン男爵である。JOCのサイトから引用すれば、

 「スポーツを通して心身を向上させ、さらには文化・国籍など様々な差異を超え、友情、連帯感、フェアプレーの精神をもって理解し合うことで、平和でよりよい世界の実現に貢献する」という、クーベルタンが提唱したオリンピックのあるべき姿(オリンピズム)は、各国が覇権を争う帝国主義の時代にあって、実に画期的なものでした。

  とのことである。まったく素晴らしい理念である。しかし現在のオリンピックがこの理想をどれだけ体現出来ているのか怪しいものだ。いや、実際に闘っている選手たちの内面に百年前と現在、それほどの違いはないだろう。しかし選手たちを取り巻く環境や、選手自身の境遇も大きく変わってしまった。では、なにがどれだけ変わったのだろうか?

 多くの若い人にはまったくピンとこないと思われるが、昔オリンピックはアマチュア選手のみの大会だった。プロフェッショナルのスポーツ選手は大会から排斥されていたのである。私も子供心に疑問には思っていたものの「そういうものか」と納得するしかなかった。では、なぜ昔のオリンピックはアマチュアの大会だったのか、そもそもアマチュアのスポーツ選手とは? という疑問も貴族という視点から見ると分かる。ヨーロッパでは昔、スポーツをするのは上流階級の暇つぶしだった。あくせく働かなくてもいい人たちが、娯楽として身体を動かし汗を流す、それが当たり前であり、スポーツを興行として金儲けをしているのは労働者階級の卑しい奴らという階級制度がはっきりとあった。前提として上流階級と労働者階級という社会の分断があり、オリンピックをはじめたヨーロッパの貴族たちは、社会の底辺の連中に自分たちの縄張りを荒らしてほしくなかったのだ。

 アマチュア時代のオリンピックにはプロのスポーツ選手を排斥するのと同時に、そもそもプロなど成り立たない種目の選手たちにスポットライトを当てる役割もあった。例えば、大勢の観客を集める興行としての魅力に乏しい重量挙げや射撃、アーチェリーといった競技にも世界一を認定して選手にメダルを授与できるのは、そこがオリンピックの場であるからだ。オリンピックが初めから集客力のある種目のみの、プロフェッショナルの選手だけの大会だったら、こうはいかなかった。平和でよりよい世界の実現に貢献する、そんなオリンピックの理念があったから射撃の金メダリストにも人々は喝采を送ったのだ。ただの射撃世界大会の優勝者では、新聞の片隅に小さく報じられるだけだろう。プロは卑しくて汚い、アマチュアは尊い、今からは考えられない思想だが、以前のオリンピックではそれが普通だった。

 よく知られているようにオリンピックを最初に政治的に利用したのは1936年ベルリン大会でのナチスドイツだ。国威発揚のイベントに世界的なスポーツ大会であるオリンピックはうってつけだった。1980年のモスクワ大会、1984年のロサンゼルス大会も政治的に利用され、多くの国がボイコットすることで主催国にダメージを与える、という子供じみた手段が使われた。オリンピックがただのスポーツ大会でないことを逆説的に証明することになったのだが、迷惑を被ったのは出場を目指して頑張っていた選手たちである。今はそうした政治の具になることは減ったが、別の問題が頭をもたげている。それはアマチュアリズムと決別したオリンピックが今度は逆の方向に振れている、つまりあまりにも拝金主義的になったことだ。

 今回の東京2020でもそれを象徴する問題があった。それはマラソンの札幌への移転である。真夏の灼熱の東京でマラソンを行うのはあまにりも過酷だからもっと涼しい札幌にコースを移転させた、と聞くと選手の体調を配慮した素晴らしい決定に思える。しかし夏の東京が暑いのは初めからわかっていたはずだ。それなのに7月末の開催は絶対に動かせない。巨大な放送権料を支払うアメリカのテレビネットワークの要望があるからだ。気候のいい秋はアメリカ国内でもスポーツイベントが相次ぐので、それと被らない真夏にオリンピックをやってほしい、とのスポンサーの意向には逆らえないのだという。アマチュア時代のオリンピックではまったく考えられなかった事態だ。東京でのマラソンが問題になったのは前年の2019年、中東のドーハで行われた世界陸上のマラソンで暑さのためにリタイアが続出し、主催した世界陸連に批判が殺到したため、それにビビったIOCが「東京だと暑すぎるから札幌に」と言い出したのだ。しかし本当に選手のことを考えたのなら、オリンピック自体を気候のいい秋に移すべきだが、それはしなかった。IOCといえど金を出すスポンサーには逆らえない、そう、選手の健康なんかより自分たちに入る金が重要なのだ。これがもし2019年の世界陸上が北欧のオスロだったり、南半球のシドニーで開催されていればマラソン大量リタイアは起こらず、札幌移転なんて話題にもならなかっただろう。そして東京2020、札幌でのマラソンは無事に終わったが、東京での競技は猛暑の中で行われた。冷房の効く屋内会場の競技は問題ないが、屋外競技の選手からは当然、不満が出た。テニスのジョコビッチは「暑すぎる、競技を夕方に移してくれ」と訴えたそうだ。当たり前である。少し考えればマラソンを札幌に移しただけで済むはずがない。IOCがもし選手のためというなら大会自体を涼しい時期に移すしかないのだが、金のためにそれはしない。しかしマラソン移転は「選手のため」と嘯く。よくもいけしゃあしゃあと。

 さらにはオリンピックを招致する段階での、立候補した各都市が繰り広げる誘致合戦もいろいろときな臭い。未来のオリンピック開催都市はIOC総会での投票で決められるが、各国に一人いるIOC委員が投票権を持っている。つまり、その票が買収されているのではないか、という疑惑だ。これは正式にIOCが認めて処分が下されたものから、噂の域を出ないものまで様々な形がある。IOC委員の質も各国に一人なのだから様々だ。潔癖な人もいるかもしれないし、自分から要求する銭ゲバもいるかもしれない。誘致したい都市にすれば、オリンピック開催が決まればそれにかこつけてスタジアムを造ったり道路を新設したりできる。つまり金が動く。これを契機に予算を獲得して、ばらまきたい政治家がいるのも確かだろう。スタジアムの建設費用に比べたら、委員に渡される賄賂などはした金だ。そうして使われる市民の税金はまったくの無駄なのか、それともスタジアムや体育館や道路はオリンピック後に市民も利用する施設として活用されるのだから無駄ではない、そんな意見もあるだろう。いずれにしろ世界規模のスポーツの祭典であるだけに、動く金もけた違いだ。その金が汚れているのかいないのか、簡単には判別できないだろう。

 と、前置きが長くなったが、ここからが本題である。当初の理念を逸脱し、拝金主義、商業主義に向かいすぎたオリンピックは一度、解体したほうがいい。なんだったら永遠になくしてしまってもいい。そういう意味での北京オリンピックボイコットである。しかし北京オリンピック開催を進める中国に問題がないかといえば、もちろんそうではなく、ウイグル自治区での人権侵害があり、それをネタにボイコットを求める声も一部ではある。しかし、それはうまく行かないだろうなあ、と私は思う。モスクワとロサンゼルス大会のボイコットはまだアマチュア時代のオリンピックで行われたものであり、現在の銭ゲバIOCに同じ手が通用するとは思えない。それよりもう少しスマートにオリンピック自体を解体してしまったほうがいい。

 オリンピック解体、だなんて物騒な物言いだが、そのやり方にはヒントがある。1998年長野での冬季大会でのことだ。多くの人は忘れているだろうが、ここでもちょっとした騒動があったのである。スキーダウンヒルでのスタート地点問題だ。アルペンスキーのダウンヒルは長野県の八方尾根スキー場で開催された。私も行ったことがあるが、日本でも最上級の斜面を揃えた最高級のスキー場である。スキーのダウンヒル競技はアルペンスキーの中でも最もスピードが出る。というより出すような旗門を設定するため、コース距離が短いとレベルの低い選手でもいい成績が出てしまうのでコースの全長は長いほうがいい。つまり、スタート地点の標高は高いほうがいい。当初、ダウンヒルのスタート地点は八方尾根スキー場の頂上の少し下に設定されていた。しかしそれだと、コースが短すぎて簡単すぎる。頂上にスタート地点を移すべきである。それならゴール地点まで選手は全身に蓄積する乳酸と闘いながら高速で滑り続ける必要があるため、オリンピックの金メダルを決めるのにふさわしい最高のレースが展開されるだろう、そう予想されていたのだ。しかし、自然保護団体がそれにいちゃもんをつけてきた。スキー場の最上部は自然保護を目的とした国立公園の中にある、というのだ。

 しかしこの自然保護団体のクレームはまったくの言いがかりであった。スキー場の頂上が国立公園の中にあるのは確かだ。しかしそこはもともとスキー場のコース内でもある。スタート地点を作るために木を切り倒したり、岩を爆破したり、地面をブルドーザーで均す必要はない。いままで普通にスキーヤーが立ち入っていたスキー場内に仮設のテントを設営してスタートハウスを作り、そこから選手たちが飛び出していくようにするだけなのだ。これはもともとスキー場が先にコースを作って営業をはじめ、あとから国が国立公園を設定したため、こんなちぐはぐな事が起きていた。スキー場が先に始めた、つまりスキー場側に既得権があった。

 最高の競技のためにスタート地点を引き上げたいスキー連盟と、自然保護のために引き下げたい長野オリンピック組織委員会が対立し、そこにIOCが仲裁に入る。そして「現在、スキー客が入り込んでいる八方尾根スキー場の最上部を立ち入り禁止にする」との妥協案を提示したという。それに憤慨したのは当時FISの会長だったマーク・ホドラーだ。「オリンピックのために一般のスキーヤーが損害を被るのは看破できない。このままならスキー競技をオリンピックから引き上げる」とIOC側を脅したという。このニュースを耳にした私は「え?」と思った。「スキー競技が行われない冬季オリンピックなどあり得るのだろうか?」と。

 多くの人はこのエピソードを聞いても分かりづらいだろう。「そもそもFISって何?」という人がほとんどではないか。FISとは国際スキー連盟のことであり、スキー競技全般を取り仕切っている世界組織の競技団体だ。そして多くの人は「IOCがオリンピックを主催し、運営している」と思っているかもしれないが、それは違う。実際にオリンピックの競技を運営しているのはそれぞれの競技団体だ。IOCに競技そのものを運営する能力はない。あらかじめ審判を育てたり、現場で実際に競技を進行したり、ルールを定めているのは競技団体であり、スキーならFISが担っている。IOCは競技団体が一位と認めたアスリートにただ金メダルを授与しているだけである。貴族のふりをしたヤクザのIOCとはいえ、競技団体の力を借りねば大会を成り立たせることは不可能なのである。つまりIOCがやっていることはただの中抜きなのだ。(  今回、このコラムを書くにあたり、ネットを検索してこのホドラー氏の発言を探したのだが、残念ながら見つからなかった。当時、テレビのニュースだか雑誌の記事だかを見て、上記のように驚いた記憶があるのだが、もしかしたら私の記憶違いの可能性もある。ただスタート地点問題は今回のマラソン問題なんかよりもずっと長く議論されていたのは確かだし、IOCが仲介し、それにFIS側が憤慨した、というところまでは裏が取れた。ホドラー氏は1951年から1998年まで長くFISの会長を務めたスキー界のドン的な御仁なので、IOCのサラマンチ会長にそれくらい言い放ってもおかしくないだろう。ちなみのスタート地点問題は、両者の主張の中間あたりにスタートを設定するという玉虫色的決着となった。)

 だんだん核心に近づいてきた。私が言いたいことはこうである。「オリンピックを解体するには、各競技団体に圧力をかければいい」だ。それぞれの国の政治家が、政治的な理由でオリンピックのボイコットを求めたところで、冷戦時代とは事情がまるっきり違う。議論は紛糾し、何も決まらないだろう。それなら窓口を一つに絞るべきだ。オリンピックの競技を実際に運営しているのは競技団体なのだから、そこへ圧力をかけるべきである。誰が? ヤクザの中抜きからアスリートを救い、彼らの真摯な競技を見たい一般のファンである我々だ。もしFISが「オリンピックに選手を派遣するのを止めます」と言い、それを実行したらどうなるか? 冬季オリンピックなのにスキー競技が行われないという、なんともショボい大会になるだろう。アルペンスキーもクロスカントリースキーも、ジャンプも複合もモーグルもスノーボードも行われない、華のない冬季大会だ。さらに国際スケート連盟も同調したらますます面白い。フィギュアスケートもスピードスケートも行われないのだ。それは果たして冬季オリンピックになるのだろうか? 半年後の北京でそんなことがあるのだろうか? まずないだろう。しかし、長期的に、遠くない未来にそうなることもありうるのではないか?

 なぜそう思うのかといえば、IOCが増長しすぎているからだ。驕り高ぶり、やりたい放題である。競技団体側からすれば、IOCの存在をなんと思うだろう。自分たちが汗を流して作り上げた競技会を貴賓席でふんぞり返って観戦し、競技が終わればうやうやしく降りてきて、優勝したアスリートにメダルを授ける。つまり一番おいしい所を持っていくのである。競技団体はIOCに加盟してこそいるが、IOCの下部組織でない。世界一の競技会を運営しているのは自分たちなのだから、自分たちが金メダルを授けたい、そう思っていても不思議ではないだろう。実際にFISはIOCの息のかかっていない自分たちの大会を二年に一度、開催している。スキー世界選手権がそれである。日本にいると分かりづらいが、スキー人気の高いヨーロッパでは数万人の観衆を集め、オリンピックと同じくらいに盛り上がる大会である。

 夏の大会に目を向ければ、陸上競技で同じようなパターンがある。陸上競技の世界的な競技団体である世界陸連も1983年から世界陸上(キターー!)を開催するようになり、二年に一度、現在まで17回を数えるほどに実績を積み重ねている。世界陸連もいつまでもIOCに顎でこき使われるのを快く思ってはいないだろう。いずれ、自分たちの世界陸上が世界一のアスリートを決める権威ある大会にしたい、そう考えていてもおかしくない。いや、多分そう思っているのではないか。そしてIOCがとんでもない不祥事を起こして信用ががた落ちするのを手ぐすねを引いて待っているのではないか? 妄想のし過ぎ? そうかもしれない。でもそうなれば面白い。
                                   オリンピックで行われる競技で、一つ、おかしなスポーツがある。選手に年齢制限がかかっているのである。それはサッカーだ。出場する選手は23歳以下でないといけない、という制限だ。これは国際サッカー連盟FIFAとIOCの妥協の産物だ。IOCはオリンピックを世界一の大会にしたいが、FIFAはそうではない。自分たちが主催し運営するサッカーワールドカップが国別対抗の世界一決定戦であり、この権威を下げることは絶対にしたくない。そのためオリンピックに出場する選手に年齢制限をかけているのだ。昔、アマチュア時代のオリンピックなら学生やアマチュア選手しか出場しなかったので別によかったのだが、オリンピックがプロ化したことによって脅威となった。FIFA側は現状で充分だろう。サッカーのワールドカップはオリンピック以上に世界中が盛り上がるスポーツイベントであるからだ。スキー世界選手権や、世界陸上が同じくらいに昇りつめれば、FISや世界陸連も同じ路線を歩むだろう。自分たちの大会を世界一の大会にしたい、どこの競技団体もそう思っているはずだ。

 各競技の中でサッカーだけがなぜ特別なのか? それはFIFAが創立されたのが1903年と比較的古く(IOCは1894年)、サッカーワールドカップも1930年に始まった当初からオリンピックに匹敵する、いやそれ以上の人気があり、他のマイナー競技とは一線を画す存在だったからだ。逆に言えば、昔のアマチュア時代のIOCが嫌っていた労働者階級の卑しいスポーツそのものがプロサッカーであり、IOCとFIFAはもともと対立構造だった。FIFAが今後、年齢制限を撤廃してオリンピックをワールドカップ以上に権威のある大会にするはずはなく、他の競技団体がFIFAに追随する可能性のほうが大きいだろう。いや、むしろそうなったほうがスポーツ界はすっきりする。

「北京オリンピックをボイコットしよう」というと、ネトウヨ的排外主義的な暴論に聞こえるが、「世界一のアスリートを認定する大会はそれぞれの競技団体が主催する大会であるべきだ」という主張はそれほど無理筋でもなく、理性的かつ合理的である。そして言ってることはほとんど同じなのだ。一気にオリンピックを解体することは難しくても、FISや世界陸連などの大きな競技団体が、いつかIOCがとんでもない不祥事を起こしたのを契機に「オリンピックに出場する選手は23歳以下の若い選手に限る」とかやってくれれば、他の競技団体も同じようにIOCを見限るかもしれない。すぐにはそんな事態にはならないだろうが、現在のIOCの腐敗ぶりから推考すれば、この先遠くない未来にそういうこともあるだろう。

 ただ、日本人はオリンピックが大好きである。若い頃の私がそうだったように、四年に一度のスポーツの祭典は確かに面白いし、真摯に競技に取り組むアスリートの姿は憧れの視線が向けられるにふさわしいものだ。しかし貴族のふりをしたヤクザであるIOCは、まるで若者を食い物にするブラック企業のように、アスリートを貪っている。いや金メダルを獲得すればアスリートにも旨味があるのだから、それは構わないのかもしれない。メダルに届かなくてもオリンピックに出場したレベルのアスリートなら、その肩書だけで仕事になる。

 結局、一番馬鹿を見ているのは一般のスポーツファンたちだ。大衆は娯楽を喜び、ヤクザが裏で甘い汁を吸う。世の中とはそんなものだ、と言われればそうかもしれないけど・・・・・・


 

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