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戦国屈指の武将・島津義弘
日本史と聞くと、皆様は何を思い出すでしょうか。
私は世界史も日本史も、そこまで得意ではありませんでした。
しかしここ数年、武将や行事の由来、物事の起源を調べるのが楽しく感じています。
実際にあった事実であり、当時の人達が何を感じ、なぜ行動を起こしたのかを知ることは、単に知識を得る以上に人生にとって価値があると感じる様になりました。
今回は、九州屈指の武将である島津義弘についての記事です。
島津義弘
島津義弘は九州を代表する猛将として有名です。
1535年、島津家当主 島津貴久の次男として、現在の鹿児島県日置市に生まれました。
島津家は九州を治めた猛将の家です。
伏兵を用いた戦術に長け、300人の兵で3000人の兵を撃退した「木崎原の戦い」にて躍進していきました。
その後、耳川の戦いでは大友氏を、沖田畷の戦いでは龍造寺氏を討ちます。豊臣秀吉からの停戦命令を受けますが、余りの条件にこれを跳ね除け九州統一に向けて戦を続けました。
これを止める為に豊臣秀吉は自らを大将にした本軍が出ていかざるを得なかったそうです。
さすがの義弘も本軍には勝てず、秀吉に対し降伏します。
しかしその後も朝鮮出兵に参加するなど、その強さを存分に発揮していきます。
7,000人の兵で30,000人の朝鮮兵を打ち破った事から「鬼石曼子」(グイシーマンズ)と呼ばれ恐れられました。
島津の退き口
これは関ケ原の戦いでの、島津義弘の退却時の逸話です。
西軍が劣勢となり、西軍として参加していた島津軍は敵に囲まれます。
この時、島津義弘は「たとえ討たれると言えども、敵に向かって死ぬべし」と言い放ち、徳川家康本陣に向って正面突破を行うのです。
味方に多大な犠牲を出しつつも、敵陣を突破し島津義弘は国へと戻るのです。
この戦い振り後々まで島津家の名を残す逸話となったのです。
まとめ
この後も徳川とのにらみ合いを行うなど、島津義弘の勇猛振りは健在でした。
そんな島津義弘の縁の地では、様々な行事が行われる様になります。
武将に限らず、様々な偉人や姫君に纏わる逸話も数多く残っています。
旅行先などで遺跡やその方のお話を知るのも、新しい発見が待っているかもしれません。
お出かけの際には、その土地の逸話を調べてから訪れる事で、
より一層楽しめる時間になると思います。
ではでは☆