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誰も行かないベトナムの奥地で出会えた事。54という数字の意味は?

【世界一周放浪記】ベトナム中部🇻🇳1995年
カッコいいベトナムの男たち。この写真は僕がベトナム産の伽羅(最高級の香木)を求めて、中部高原地帯に入った時、車ではこれ以上ジャングル奥深くまでは行けなくなってしまい、村のバイク乗りたちと交渉し、さらに奥地まで連れて行ってくれと頼んでた時の事。

サイゴンやハノイの男たちとはまた違った雰囲気が漂っていたのでシャッターを切ってしまった。

中部高原地帯を伽羅を求めてひた走る

そして…。

ベトナムには 公式には54の民族 がいる事を知った。

キン族(京族)がベトナム最大の民族で全人口の約 86% を占める。それ以外の沢山の民族でこのベトナムという国が成り立っている事は知らなかった。
ハノイとホーチミンあたりだけを旅しているとあまり気づかない事実だった。

主な少数民族には以下がある。
• タイ族(Tày)
• ムオン族(Mường)
• ホア族(Hoa): 中国系
• クメール族(Khmer):カンボジア系
• エデ族(Ê Đê)
• モン族(H’Mông)
• ザオ族(Dao) など

こんな事は特に知らなくても旅はできる。だが折角ベトナムが好きになったのだから、この国をもっと深く知りたいと思った。 
僕が勝手に思っているバックパッカーの定義の一つに、
''行ったその国の事をもっと深く知るべし''
というのがある。

観光地や遺跡やグルメだけでなく、地を張った旅をし庶民の生活の近くで旅をしたいからこそだ。

そのベトナムの少数民族たちは、歴史的にも政治的、経済的に不利な立場に置かれてきた事を知った。

もうこれ以上車では進めない…


ベトナムの少数民族

◾️漢族支配時代の影響


ベトナムは1000年以上にわたって中国(漢、唐、宋など)の支配を受けていた。この期間、中国文化が押し付けられる一方で、山岳地帯に住む少数民族は、中央集権的な支配の外側に置かれた。
• 山岳民族は「文明化されていない」とみなされ、経済的・政治的に周辺的な役割に追いやられることが多かった。

◾️ 阮朝(19世紀)の中央集権化


阮朝は、ベトナム全土を統治するために中央集権化を進めた。少数民族は土地や自治権を失い、農地を徴発された。特に山岳地帯の民族は、農業税や徴兵制度の対象となり、経済的・文化的な搾取を受けた。

◾️ フランス植民地時代(1887年~1945年)


フランス植民地政府は、少数民族を「未開の民族」として扱い、ベトナム社会の下層に位置づけた。
フランスは少数民族の住む地域を開発し、資源を搾取しました。その恩恵はほとんど少数民族には届かなかった。
同時に、少数民族が住む地域は「分割統治」され大多数であるキン族と少数民族の間に分断を作る政策が取られた。

川も何とか渡る

◾️ベトナム戦争(1955年~1975年)時代


多くの少数民族が戦争に巻き込まれた。
特に中部高原の山岳民族は、南ベトナム軍やアメリカ軍に協力し、北ベトナム政府に敵対する立場を取った。その結果、戦後、北ベトナム(現在のベトナム政府)から「裏切り者」として扱われ、弾圧を受けることもあったという。
戦争中、少数民族の村が焼き払われたり、強制移住を余儀なくされるケースもあったらしい。

◾️社会主義政権下の政策(1975年以降)


少数民族を「国民統一」の名のもとに同化させる政策を進めた。
少数民族の伝統的な居住地が集団農場や経済開発のために収用され、生活基盤を失った民族もいる。
少数民族の言語や伝統が「時代遅れ」とされ、ベトナム語の使用やキン族の文化への同化が推奨されたりした。

こんなベトナムの奥深くまで来てしまった…
伽羅・沈香・香木はどこ?

◾️現在は


過去の歴史的な搾取や差別の影響は現在でも残り、少数民族はキン族と比べて教育、雇用、社会的地位の面で依然として不利な状況にある。

◾️歴史から学ぶべきこと


こうした少数民族に対する歴史的な不平等は、多様性の時代からは逆行している。ベトナムの発展から取り残されてしまったであろう少数民族の方々の権利を尊重する必要性がまだまだあるかも知れない。こうした中でもベトナムの少数民族の方がは多くの困難を経験しながらも独自の文化を守り続けている。

結局、伽羅は見つからなかった…。

トレジャーハンター集合!
鹿みたい痩せた牛に出会えてうれしい
開高さん、伽羅は見つからなかったけど、もっと素晴らしいベトナムの真実に近づけました。

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