本物をまなぶ学校
1はじめに
子どもを育てる親にとって、わが子の学校問題は悩ましい。多くの友に恵まれてほしい、勉強ができるようになってほしい、技術も身につけさせたい‥‥と。
そんなとき、一番大切なものは何だろうか。
若きジャーナリストであった羽仁もと子・吉一夫妻もまた、わが子の教育に直面した。
本当に通わせたい学校が見つからず、それならば自分たちで学校を、とつくったのが自由学園である。100年前のことだ。
東京の西郊、ひばりヶ丘駅から10分ほど歩くと、緑深いキャンパスの入り口が見えてくる。どっしりとした大谷石と低い門扉。そこに、幼児生活団幼稚園から最高学部(大学)までの一貫校、自由学園が広がる。楽しげに歩く生徒の姿からは、慣れ親しんだ家庭にいるような穏やかさを感じる。(中略)
1921年、「詰め込みではない教育を」「競争でなく、協力の社会を」と願って、わずか26人の女子中学生から始まった学校は、今年100周年を迎える。あらためてその学びを多くの方々にお伝えしたいと本書の刊行を企画した。(中略)
自由学園独自の教育は今、日本にとどまらず、世界からも関心が寄せられている。変化の大きな時代に、そして多様性社会といわれるときに、競い合い頂点を目指すものでない「本物のまなび」の魅力はどこにあるのだろうー。
ようこそ、自由学園へ! ー本物をまなぶ学校(婦人之友社)より
2【教育/学校/受験/留学カフェ】
クラブハウスルーム第一回目が昨夜無事終わりました。
いつもよりずっと緊張感を持ってモデレーターを務め、
自由学園のお話をしました。
自由学園は今年創立100周年を迎え、4月30日に『本物をまなぶ学校』(婦人之友社)が刊行され、昨夜は最初にその冒頭にある「はじめに」を読ませていただきました。
3 自由学園を知るまで
わたしは横浜で小中高一貫教育をしているミッションスクールで学びました。愛の教育に根ざした学校で大事に育てていただきました。
高校1年生のときに母を亡くしましたが、先生方の温かな支援の中で聖書に基づいた学びをして大学に進み、縁あって浅草の商家に嫁ぎ、この町で大きなカルチャーショックを感じました。
息子二人は地元の台東区立浅草小学校で学びました。
ほとんどの生徒が中学受験をする学校でした。
いわゆる「中学お受験」を経験したこともないわたしでしたので、近くの塾に行かせていましたが、ある日、塾の講師が「受験をするなら日能研に行った方が良い」と薦めてくれて、ご自身で日能研の公開テストの申し込みをしてくれて、5年生から日能研に通いました。
それから、どんな中学に行かせたいかと、いわゆる御三家から、ミッション系、など偏差値も見ずにいろいろ調べてみました。
そんな中でわたしの親友が大好きだった自由学園の美術展に見学に行った後、
息子は「ぼくはあの学校に行きたい」と言い出しました。
公園のように広い敷地に点在する美しい建物に
魅了されていたことは見て取れました。
そこでなぜ?と問うと、展示されている作品に製作者の名前がないことが気に入ったからと答えました。
さて、自由学園の受験について調べてみても、ほとんど情報もなく、偏差値は最下位レベルです。この学校は「偏差値」ではかりしれないとうことです。
何をどう勉強させるのかもわかりません。
一般校の受験対策もしながら、自由学園の願書を取ると、作文二本という課題もあり、親の書くことも断然多いものでした。
4 自由学園を選んだわけ
一般入試が終わって後、2月7日、8日両日に行われた試験は想像もつかないものでした。
算数は基本的な学力を見る程度のもので、特に難問奇問はなかったようです。
国語は作文、そしてあまんきみこの本を読んでから、
皆で感想を述べ合う討論会。
理科はミツマタの枝をとってきての観察し紙を作る。
そして工作は圧巻でした。
三人一組となり、ダンボールを使いてっぺんにボールを載せる塔を作成する間、教師と係の生徒が一人ひとりの行動観察をしています。
出来上がったときには親も呼ばれ、どんな点に工夫したかという発表をするというものでした。だるまストーブの優しい暖気に包まれた体操館で、床に座り、パン工場で作られたパンを食べ、牛乳を飲みながら、みんなで一緒に入れたらいいね!と語り合う子どもたち。
皆が初めての経験なのに、なんでこんなに打ち解けていけるのだろうと
感動しました。
定員40名なので35名の受験生しかいないという現実に、
何で?という思いもありました。
全員合格という結果なら入学は辞退しようとも考えました。
しかし、実際は合格者は28名でした。
選ばれた28人でした。
学校は合うか合わないかということが一番重要だと思います。
どんなに良い学校と評価されても、校風に合わなければ、元も子もありません。
日能研室長に相談しました。
すでに入学金を納めていた志望校もありましたから、
最後の決断をするときでした。
すると、室長は
「彼はどこの学校に行っても大丈夫でしょう。受験校に行けば勉強して、良い大学に入る実力もあります。でも、お母さん、初心を貫いて自由学園に進めば、将来計り知れない能力を発揮するでしょう。本物の教育をしている学校です。」ときっぱりおっしゃいました。
室長は日能研の中でも優れた指導をされる方で、
その後、新横浜本部に移られました。
日能研からすれば自由学園という偏差値もない学校を勧めるより、実績を上げる学校を薦める方が良いでしょうに、と思い、尊敬する室長を信じて自由学園の進学を決意しました。
5自由学園に入学して
入学式は朝からの講堂で式で、制帽、聖書、讃美歌と「君たちはこの学校をよくするために入学しました」という力強い言葉を故羽仁翹学園長からいただきました。
その後、父母は説明を受け、父母会主催の「新入生父母歓迎会」で心づくしのお昼食をいただき、その後、父母同士の自己紹介の時間、入寮式参列と続き、暗くなってからの解散になりました。
式が始まってから8時間の入学セレモニーでした。
暗くなった道をとぼとぼ駅に戻る道すがら、幼顔の残る息子を手放してよかったのだろうか。
この先、どんなことになるのかしらと思い、
一瞬、後悔にも似た感情を持ちました。
しかし「信じて待つ」親としての覚悟を決めた帰り道でした。
6食堂が真ん中にある学校
自由学園は創立当初から「温かいお食事を全員でいただく」ことを大切にして、お昼のお食事は全員食堂に集まっていただきます。
女子部は自分たちの手でお食事作りをいたしますが、男子部では近郊の父母が当番制でお食事作りをいたしました。
270食分のお料理を1ヶ月に1度くらいの割合でお当番に入ります。
「給食」という言葉は使いません。
「お食事」です。デザートは「お食後」と呼びます。
園内には果樹、畑、養殖場、ブタ小屋がありました。
野菜、お花、梅などだけでなく、養魚はマスの甘露煮を作り、販売するまでを、養豚は東京Xという豚に残飯を食べさせ、大きく育て、屠殺場で肉になったものをいただきました。
ペットでないので名前もない豚をいただくことで「命」をいただくことを概念でなく、体験として学びました。
本物の「食育」です。
7 自由と責任
1年を6期に分けて、委員長、寮長を選挙で選び、生徒の自治が行われます。
委員はアイウエオ順で回します。
長男は第一期寮の委員となりました。
寮内の仕事、朝刊配りに始まり、あらゆる仕事をいたします。
夏休みになる前の修了式の日、わたしは夕方4時に寮に迎えに行きました。
翌日から米国で牧師をしているわたしの叔父を訪ねることになっていたので、一刻も早く家に帰り、旅支度をしようと思って、少し焦っていました。
さ、帰りましょうと出口に向かって歩いていた背中に「まだ仕事終わってないぞ」という寮長の声がおいかけてきました。
はっと立ち止まった一瞬、彼は泣きそうな顔になり、キャップを深めにかぶって隠し、寮に戻って行きました。
「すみません。何時に、迎えに来ればいいですか」と寮長に尋ねたら、「5時にお願いします」と即答。
わたしはひばりヶ丘駅に戻り、駅前のドーナツショップで5時まで待ちました。
空から大粒の雨が降り注ぎ、時折稲妻が光ります。
さっき寮長に事情を話して連れて帰ればよかったなどと思いながら窓の外を眺めていました。
駅からタクシーで寮に戻り、玄関先に迎えに行きました。
そこにはさっきの泣き顔とは打って変わった、晴れ晴れとした笑顔の息子がわたしを待っていました。
「最後までよく頑張ってやったね。
明日から、アメリカ、楽しんでこいよ」寮長が明るい声で言いますと
「ハイ!」と大きな声で答え、にっこり笑い、わたしのところの戻ってきました。
「この1時間で、この子は変わった。その時間を奪わなくて本当によかった」とわたしはつくづく、親は子どもの成長を邪魔してはいけないと思いました。
アメリカから帰って、日本を見る視点も変わった彼は、二学期最初の作文を「ぼくは変わった」という言葉で始めました。
13才の夏、男の子は飛躍的に成長すると後で知りました。
尊敬してやまない寮長、室長をモデルとして育ち、6年生では新入生父母に「お願いします」と頭を下げられ「命をお預かりします」といえるように成長した息子をどれほど誇らしく思ったことでしょうか。
寮長になり、寮の最高責任を持って、自由と責任を深く学びました。
責任を負うことで人は成長していくのだと深く思いました。
8 感性を豊かにする教育
坂本龍一さん、オノヨーコさん、を始め、多くのアーティストを輩出している学園。どこに秘密があるのでしょうという質問がありました。
わたしは、感性の教育の賜物だと思っています。
大建築家フランク・ロイド・ライトに依頼して作った明日館にも代表されるように、見るもの聞くもの触るもの、全てが本物です。
そういう空間でみんなでピアノに触ったり、絵を描いたり、木屑を拾っておもちゃを作ったり、幼いときに五感をつかう使うことで、感性は豊かになり、その上に技術が載っていくのだと思います。
競うことでなく共存するという素晴らしい体験をたくさんすることができました。
「生活しつつ、思想しつつ、祈りつつ、」男子部のモットーはただのお飾り言葉ではなく、毎日、毎日、繰り返される営みです。
9 個性を受け止め大切に見守ってくれる先生
もちろん、どこの学校でも「一人ひとりの生徒を大切にします。」とおっしゃいます。
うちには二人の息子は、全く個性が違い、とても兄弟とは思えないのですが、先生はそれぞれの持つ賜物をよく見て、生かして、もちいてくださいました。
生徒同士、兄弟同士を比べることもなく、じっと信じて待ってくれる先生たちの眼差しは正義と寛容さを持っていました。
羽仁進監督は羽仁もと子の孫に当たりますが、強烈な個性の持ち主で入試の際も際立って異彩を放っていたようですが、個性を大切に育てられ、のちに世界にも通用する監督になりました。
10 最高学部ってどんなところ?
自由学園の一貫教育の最終課程として高邁なるヒューマニズム精神に基づくリベラルアーツ教育と特定の専門枠を超えた研究活動をしています。
男子部、女子部を終了したもののみが進学でき、外部からの入学はないので、文部省が認める大学ではなく、各種専門学校扱いですが、概ね大学相当の扱いを受け、大学院への進学も認められています。
11 男がダメにした社会に入る必要はない
本の終わり近くの【学園長インタビュー】に興味をひく言葉がありました。
聞き手はコミュニティデザイナー山崎亮さんです。
1921年に女子部が創立され、14年遅れて男子部が創立されました。
世界中が戦争へ向かい始めた時代、羽仁もと子はアメリカとヨーロッパの学校を見て帰国し、
「これからは男女共学だ。人間教育は共にあるべき」と言っています。
「女は教育を受ける必要がない」という時代に「本当に人間が育つ教育をする。文部省の許可はいらない」と言って学校を始めました。
兵役の免除もない、男子の親たちからの不安もあり、卒業後の自立への配慮から技術も身につけれらるよう男子部が作られていった経緯もあるようです。
高橋学園長はこのように言っています。
「羽仁もと子は男子の学校を創る前に、女性がもっと社会進出すべきだという人たちと座談会をしています。そのとき『女性だって男性と同じ権利を』という意見に対し、『どうして、男がつくってもう行き詰まってしまった社会に、後から入れてくれというのか』と言うのです。」
「男の我々としてはショッキングな言葉だけれど、確かに男性中心に築かれた近代社会は、勝つか負けるかで競争して、能力を競い合って、相手を攻めていく社会をつくってきました。これに対し羽仁もと子は、協力して互いに補い合い、命を守って地に足のついた生活をつくることを主張しました。そういう意味でとらえれば、大量生産・大量破棄という時代から、環境や循環を考え、本当に持続可能な時代にしていく、この命につながる発想が、これからますます重要になると思います。」
山崎さんは答えます。
「本当にそうだと思うなあ。男がダメにした社会に入っちゃいけないんですよ。そこで対等に戦ったら、社会をダメにしていく人になるだけだから。」
高橋学園長は続けます。
「今、自由学園はより魅力的な学校づくりに向かって『共生共学』を掲げています。単なる男女共学を超えて、今までの価値観を新しくしていく。共に生きるってなんだろうと、みんなで考える。人間だけが共に生きるのでなく、自然の中で他の生命も合わせて共に生きる。そういうことをみんなで考えていきたいんです。
この後、自由学園のこれから目指す教育が
書かれています。
どうぞお手にとってご覧ください。
男女別学、親子共学と言われたことを思い出します。
わたしは、息子たちと共にたくさんのことを教えられてきました。
質疑応答は次回になるほど、熱い思いを語ってしまいましたが、
まだまだ序の口です。
来週もどうぞこれからよろしくお願いします。
世古壽實