世界のありのままをありのままに感じる今
今のわたしの心境
焙煎を始めて15年になるが、今が自分史上一番美味しいと断言できる。
なんてたいそうなことを言うつもりはないのだが、今が美味しいと感じていることは確かであり、今回はそんな「今」を記録する。
味覚は知覚の中でも情報量が少なく、尚且つ情報数が多い。これはつまり認知がクソ難しい知覚情報ってこと。
だから多くの味覚情報は、知覚前の視覚情報をもとに味わいを想起して、ただそれを感じているだけだ。
この文脈でコーヒーを味わうなんてことは、なんて難しい作業なのだ!
視覚は「茶褐色」:コーヒーの味を色で識別できるAIの登場を期待するが遥か彼方。。。
味の想起は「珈琲」味: 他に表現できる人はある程度のマニアですよね。
なのに香気成分は「1000種類以上」:調べたところでヒトには感知できないよ。だけど集合知ではなんか感知してんのよね。。。
まぁこんな状況では到底ヒトには(あるいはAIにも)ありのままを正しく認知することは今世紀中にはできないだろう。
そんなコーヒーの調理と言える焙煎にはこれまでずっと葛藤してきた。
僕が経営するRIO COFFEEの目指す味わいは
「スッキリ」であり尚且つ「ほっこり」だ。
スッキリは透明感や爽やかさであり
ほっこりは甘みや奥行や粘性、あるいは重み
といったところだ。
この二つのうち、片方だけを再現することは比較的容易であり、
焙煎温度、時間そしてカロリーなどの項目を最適化すればそれなりに再現できる。
ただし、この二つを両立させるとなると途端にハードルがあがりる。まるで水と油のような関係であり相反する、つまり一つを探求すれば一つが犠牲になるのだ。
とはいえ水と油であれば乳化という作業を行うことで一体化できる。
コーヒーに例えるなら、シェイクやブレンダーなどで攪拌することで一体化させるアレンジドリンクであれば実現できるだろう。しかしこれらはあくまでアレンジであり、僕が実現したい両立はあくまでコーヒーの「スッキリ」「ほっこり」なのだ。
そんなこんなな15年、バリスタから数えると20年数年の月日だが僕は飽き性なので、ある程度探求すると、他の領域を探索したくなる。
コーヒー業界には探求タイプが成功者や有名人に多い気がするが
僕はそっちのタイプでは無いことは20代にやりきって理解しているので、残る道のりは探索である。
そんな探索は2013年から始まり、最近でも環境や哲学、生化学などなど広く浅く探索している。
この探索期間を一周した感のある現在だからかのかは不明だが、焙煎がこれまでで一番楽しいことは間違いない。
身体
精神
知識
経験
この4つの状態が整ったとも言える今だからなのか、焙煎がやっとわかってきた。気がする。こうやって書いてみると「道」に通じ、珈琲道かもしれない。
答えを探そうとすると離れていき
答えを放置すると永遠に見つからない。
そんなことを考えながら焙煎してたら、自らの目指す味わいに近づいた。
教育もお金も宗教も、社会や世界ってのは案外おんなじ構造なのかもね。
世界のありのままをありのままに感じることができる今を生きることは、なんて幸せなんだろう。
あぁまさに日々淡々