私の論語教室 5.孔子、愛を語る。
里仁第四、第三章、「孔子、愛を語る」を読み解きます。
【原文】
子曰、
惟仁者能好人、
能惡人。
【書き下し文】
子曰わく、
惟(た)だ仁者のみ能(よ)く人を好み、
能く人を悪(にく)む。
【現代語訳】
孔子がある時おっしゃった。
人をよく愛し、
人をよく憎むことは、
仁者にしか出来ない。
※
今回の孔子は、柄にもなく(?)愛を語ります。言っていることは、分かるような分からないような。こういう時の読解の心得は、分かることにしないことです。そこを出発点にしなければ、いかなる思想も、すでに知られたことの言い換えに見えてくるからです。実りある読解は、「私は何が分からないのか」を精査するところから始まります。
「ただ仁者のみが」という冒頭からして、よく分からない。仁とは、孔子にとって究極の概念で、仁者とは君子をも超えた最高の人間を指します。仁はそもそも、どんな意味内容を持つ言葉なのでしょう?
字の成り立ちを見ますと、「横からみた人」の象形に、「2本の横線」が加えられています。そこから、人間同士の関係、思いやり、慈しみなどの意味が生まれました。
なるほど。と、うなづくのはまだ早い。たしかに、今の語源解釈をふまえて、「人をよく愛し、人をよく憎むことは、思いやりが深い人間にしか出来ない」と訳せば、とたんに分かりやすくなります。しかし、これでは分かりやす過ぎて、かえって謎が深まっているのです。
謎とは、どうして孔子が、「そういう人」を最高の人間とみなしたかです。思いやりの深い人、感情移入する能力が高い人が、他人の美点を愛し欠点を憎むのは、当然のことでしょう。それは単なる事実の次元に属します。孔子は事実の指摘にとどまらず、人類が目指すべき最高の理想として、仁(思いやりの深さ)というスローガンを掲げた。この謎が残されています。
ここまで考えて、私はふと、この章の英訳はどうなっているのかが、気になりました。と言いますのも、仁のように、日本人には近くて遠い、分かっているようで実は分かっていない概念を知るには、いっそのこと東洋文化の圏外の解釈から、読み解いたら良いのではないかと思われたからです。
上に挙げた英訳を見た時、たしかな手がかりを掴んだ気がしました。ポイントは、原文で言うところの「能」(よく)の訳し方です。この英訳者は二通りの解釈の間で揺れています。揺れの痕跡を隠そうともしていません。truly (impartially)の箇所です。この括弧は決して、「どちらでも良い」の意味の括弧ではない。両者は同時に存在できず、読む者に選択を迫ります。
トゥルーリィは、真の意味で愛し憎むこと。仁の人に感情の純粋さを要求します。他意の無さ、まごころの愛(憎悪)です。対してイムパーシャリィは、公平に愛し憎むこと。仁の人に私情を挟まずに他人を評価することを要求します。私を捨て去って対象を観察することを愛(憎悪)とみなすのです。
純化した愛か、私情のない愛か。この解釈の対立は、実は古くから存在しました。朱熹と伊藤仁斎の対立が、その典型です。
朱熹が言いたかったことは、こうです。私情を挟むから単なる好き嫌いになり、他人を公正に評価できないのだ。善を好み悪を憎むことは、誰もが同じである。しかし、心に引っ掛かることがあると、その判断が狂ってしまう。仁者とは私心の無い人のことを言う。仁者のみが他者を公正に評価できるのだ。
見ての通り、朱熹は「能」をイムパーシャリィで解釈しています。仁斎の解釈はどうでしょうか?
仁斎は明らかにトゥルーリィの解釈を採用しています。注目すべきは次の三点です。
(1)仁と理を同一視してはならない
(2)仁は人を愛する心が根本である
(3)理の酷薄を仁が和らげる
朱熹は仁を「私心がないこと」と定義しています。無私の人、エゴを捨て去った人が仁者です。無私の人だから、その言動と行動は理に適合する。ゆえに公正である、と。しかしながら、仁斎が言うように、それは仁という言葉の意味をねじ曲げる暴論であることは、先ほどの語源解釈でも明らかです。仁に無私の意味はありません。思いやりの深さです。
仁斎の解釈でユニークなのは、三番目、「理の酷薄を仁が和らげる」です。ここで仁斎が想定しているのは、慈愛と公正が鋭く対立する場面だと考えられます。公正の名のもとに死刑を言い渡された者にも、ひとしく神の慈愛が与えられるように。戦場の敵の憔悴した顔にさえ、時に感情移入できるように。仁斎のユニークな解釈は、仁と理(公平性)を峻別し、仁の独自の地位を示すのに成功しています。
私は仁斎に従おうと思います。朱熹の解釈の難点は、仁の意味を歪めていることにとどまらず、他者を公正に評価することに主眼を置きすぎるあまり、最高の人間であるはずの仁者が、それだけの人に過ぎないように見え、仁が目的達成(公正な評価)のための手段(無私)と化しているからです。
さて、もう一度、本文に戻ります。最高の人間である仁者、思いやりが深い人が、人をまことに愛する。これは分かります。しかし、人をよく憎む。これは考えさせられる言葉です。人を憎まないに越したことはないんじゃないか?そのように思ってもおかしくありませんけれど、孔子は言います。最高の人間は人をよく憎む、と。
汝の敵を愛せ。孔子は聖書の教えをどう考えるでしょう?人間の自然の感情を抑圧するものとして、斥けるかもしれません。憎しみの感情を持ってもかまわないよ、なんて生やさしいことを言っていないのです。人はよく憎まなければならないと、孔子は命じているのです。
ここに来て私は、妙な連想ですが、有名な「マザー・テレサの言葉」を思い出します。
愛も憎悪も、他人に抱く感情という意味では等価物である。目の前で起きている悲惨を見過ごさせる他人への無関心こそが、愛の敵なのだ。マザー・テレサが修道院を離れ、カルカッタの貧民救済に向かった1940年代、飢えてまさに死のうとする者を尻目に、見なかったことにして通り過ぎてゆく人々に憤って、発せられた言葉だとされています。
しかし実は、この有名な言葉はマザー・テレサの言葉ではなく、ホロコースト生還者でユダヤ人作家のエリ・ヴィーゼルの言葉だそうです。1981年のACジャパンの広告が混同の元だったと言われています。とはいえ、マザー・テレサの思想と活動に照らして、彼女が言ったとしてもおかしくない発言ではあります。
カルカッタにせよ、アウシュヴィッツにせよ、他人の悲惨を目の前にして無関心でいられる人は、たしかに人間の理想から最も遠い人でしょう。私たちは憤りを覚えなくてはならない。正しく憎悪しなければならない。不正が放置され、正義が一向に実現しない、世の不条理に対して。不正を放置し、正義を求めない、すべての人々に対して。
ここにおいて、孔子の言葉につながるわけです。最高の人間は人をよく愛し、よく憎む。不正に苦しむ人々を愛するがゆえに、不正を犯したり放置したりする人を憎悪する。それこそが、孔子が「よく憎む」に含ませた含蓄の内実です。ならば反対に、「よくない憎悪」が何を指すのかは、明らかでしょう。
不正に苦しむ人々への愛に基づかない憎悪。孔子はそれを認めません。孔子が語る愛は、博愛主義ではありません。孔子は、ありとあらゆるものを愛せとは言っていない。よく愛し、よく憎めと言っている。それは、公正と不正を見極める眼と、不正に反応する「傷つきやすさ」を前提としています。なぜそれが理想の人間像として示されたのか?そのような人だけが、不正を正すために「次の行動」を起こすからです。不正を不正として、正しく認識するだけでは不充分です。行動するには、認識のために傷つき、憎悪しなければならない。
仁者、すなわち思いやりの深い人が、人類の目指すべき理想とされる理由は、ここにあります。
終わり