私の論語教室 序章、堀川をたずねて。
ささいな風景についての印象から始めます。
2023年の大晦日は、ひとりで京都で過ごしました。母校同志社大学の構内にある教会で、無性に祈りたくなったからです。寒空の下、固く閉ざされた母校の門に立ち尽くし、ふと思い付いた私の足は、江戸時代の儒学者伊藤仁斎が300年ほど前に開いた、堀川の塾に向かって歩き始めていました。
大学から歩いて30分とかからない、ずっと気になっていた学舎は、思ったよりだいぶ小さく、ここで行われた学問の大きさとの不釣り合いについて、その場でしばらく考え込んでしまいました。この堀川の塾長が一生涯をかけて伝えようとした、論語と孔子の魅力とはどんな所にあったのだろうか、と。
論語の雑然
論語とは、今から2500年ほど前、古代中国の春秋時代を生きた学者、孔子が生前に語っていた言葉を、弟子たちが書き留めた本のことです。現在の私たちが目にする形に整えられたのは前漢の時代と言われていますが、死後200年でようやっと完成とは、随分と時間がかかっています。これだけ整理に時間をかけたのだから、さぞかし理路整然とした本なのであろうと思うでしょう。
ところがどっこい。論語の記述は支離滅劣も良いところで 、編集方針が極めてあいまい、テーマ分類もなく、時系列すら無視。「子、曰く」(ある時先生がおっしゃるには)と、独り言の趣すらある孔子の言葉が延々と並ぶだけ。もしかしたら、例の200年後の編集者は、「こんなんまとめられへんわ。もうええわ、これで!」と、匙を投げた人なのかもしれません。
では、論語はつまらない本なのかと言えば、絶対にそんなことはなく、むしろ、雑然としているから面白い。・・・この逆説に最初に気づいて指摘したのは中国人ではない。日本人です。17世紀、ということは江戸時代の初期、京都の堀川丸太町に生きた儒学者伊藤仁斎、その人です。
国家に都合が良い学問
仁斎が生きた時代、学問と言えば儒教、儒教と言えば学問そのものでした。この状況が分からないと、先に進めないので注意してください。この儒教、孔子が創始した学問の流れとされますが、江戸時代の日本人が実際に教わった儒教は、孔子の教えがかなり変形されたものでした。12世紀、中国の南宋に生まれた朱熹という学者の説が正統とされたため、これを朱子学とも言います。
官学(国家が公認する学問)が他の学問を圧倒する時代でした。江戸を開府した徳川家康は、戦乱の世の勝者でもありますが、勝者の宿命で、同時に泰平の世の創造者にもならなければならなかった。これは相当の難事業です。昨日まで殺し合いが肯定されていた社会の人々に、いきなり平和の大切さを説いたところで、納得が得られるわけがありませんから。
それ相応の理屈が必要です。家康の注目したのが朱子学でした。朱子学の教えは支配階級(武士)を対象にして、君臣の硬直的な上下関係を肯定し、反逆を予防する働きを持つために、家康の考える平和にとっては好都合だったので、これを国家公認の唯一の学問、すなわち官学と定めたのです。
健康を損なう思想、朱子学
仁斎は、京都市営地下鉄丸太町駅に程近いあたりに、西暦1627年に生まれました。家業は商家であり身分は町人でした。幼い時から利発な子で、11才には四書五経の学びを始め、早くから学者として立つことを望んでいました。
はじめは教科書どおりに、朱子学の勉強に生真面目に取り組みます。この生真面目さが仇になって、二十代の後半に深刻な神経症に陥りました。朱子学は瞑想などを手段にした内面の修行を強調しすぎる余り、仁斎の社会性を根こそぎ奪い、ついには家から一歩も出られなくなったと伝えられています。
仁斎はどのように朱子学の「毒」を解毒したでしょうか?ここが仁斎という人物の最も面白いところで、彼は「論語の読み直し」によって神経症を治しました。言ってみれば、仁斎は自分に病をもたらした原因(儒教)を、治療薬に転換して自ら治してしまったのです。学問と言えば儒教しかなかった時代なのだから、当然と言えば当然ですが、それを実行に移して成功したことは、偉大なことと言わなければなりません。
素直に読むにも忍耐力が要る
仁斎の学問は、不健康な思想である朱子学と対決して、健康をもたらす孔子本来の思想を言語化することを目標としています。仁斎自身の自己セラピーの経験を、誰が読んでも納得する普遍的な言語に翻訳することが、彼にとっての学問でした。
仁斎が言いたかった根本のところは、とても単純な話です。「素直に論語を読めば、朱子学のような結論になるわけがない。素直に読めば論語には、人が生きるうえで、心身共に健康的に人生をおくるうえで、最も大切な教えが書かれている」。これだけです。
しかしながら、冒頭の話に戻りますけれど、論語は雑然とした本であり、果たしてこれは思想の表明なのか世間話なのか、はたまた独り言なのか、解釈の自由が相当にありそうな書かれ方をしています。だから朱子学の創造的な読解も、一概に歪曲と断罪できない事情があるのです。思うに、朱熹は論語の雑然に耐えられなくなって、自前の思想を論語に投影することで自己流に整理してみせたのでしょう。
論語を素直に読むには、雑然とした孔子の言葉を、あえて整理せずに、雑然なままに読む忍耐力が必要になります。私がここで、「論語教室」と称して行いたいことも同じです。仁斎と同様の忍耐力で、論語を素直に読むとどうなるのか?
もちろん、論語を素直に読むには忍耐力が要る、と言いましても、そこに忍耐を上回る楽しみがなければ、そもそも読む動機が得られません。論語を読む楽しみについての新たな発見がなければ、仁斎の忍耐はただの徒労に過ぎません。では、端的に言って、仁斎によって発見された論語の魅力は、どのあたりにあるのでしょうか?
四聖の四聖典比較論
世界四聖人、釈迦、キリスト、ソクラテス、孔子を比較すると、論語の特異性が浮き彫りになります。
共通点は明らかです。全員、本を残さなかったこと。仏典も聖書も対話篇も論語も、彼らが自ら筆を起こしたものではなく、彼らの弟子の手によって残された、彼らの言葉と行動についての記録です。
相違点は、弟子たちの編集方針にあります。
まず、釈迦については、直弟子たちが編集会議を開き、その弟子、孫弟子たちが第二回、第三回を開催し、いわゆる「原始仏典」が形成されます。その内容は、人々の生老病死の悩みに答えようとする、釈迦の思考を余すところなく写し取ろうとしたものです。
キリストは、彼を神の子と信じた弟子たちによる、神の子の言葉と行動の記録として聖書が残されました。聖なる言葉ですから、いくぶんか神秘性が宿っていますが、たんなる謎めいた言葉の羅列ではなく、人間の魂を救済する使命に燃えた、キリストの一貫した人生の物語でもあり、そのことが内容の一貫性を担保しています。
ソクラテスの場合、弟子プラトンの天才によって、完璧なまでに作品化されました。ソクラテス本人が、本当にプラトンの対話篇に描かれたような巧みな弁論術を駆使したかは、誰も知るよしがありません。おそらく違ったでしょう。おのれの哲学を語らせる最良の役者として、かつての師匠ソクラテスをキャスティングしただけではないかと、いじわるな見方をしたくなるほどです。
さて、最後に孔子です。前の三者と雲泥の差があります。論語には首尾一貫した人生の物語もなければ、師匠の卓越性を理路整然と証明することもありません。時折鋭い言葉を放ちますが稀なことで、ほとんどは断片的で、つぶやきのような一言、二言。これは大事な言葉なのか?孔子が本当に伝えたかった事柄なのか?
孔子は優れた弟子に恵まれた
私が最初に論語を読んだのは、十代の半ばでしたが、はじめ、孔子の弟子たちは何という馬鹿ばかりなのかと思ったものです。どれが大切で、どれが重要ではないか、判断区別も付かずに、師匠が語った言葉なら何でもかんでも記録するなんて。だから論語はこのような雑然とした本になったのだ、と。・・・その雑然とした言葉の森の中に時折見つかる、深い味わいについては、当時から魅力を感じていたのですけども。
それから二十年後、今の私は真逆の感想を持つに至りました。雑然とした論語は変わりません。変わったのは私です。朱熹のように論語を歪曲して、論語を自分にとって分かり良いように変えたのではありません。仁斎のように論語を雑然としたまま読んで、ありのままの魅力を感じられるようになったのです。
プラトンと孔子の弟子、どちらが優れていたかは決められません。しかし、弟子としてどちらが好ましいのかは言えます。プラトンは天才でした。天才ゆえに、師匠すら自らこしらえた劇の役者にして演出した。プラトンはソクラテスの言葉や考え方の、どのあたりが優れていたかを判断できました。だから、自分が書いた脚本の上で思いどおりに演技させることができました。
しかし、これは変な話なのです。弟子が師の言葉の価値を査定するなんてことは。師を評価する価値基準を弟子が持っているということは。プラトンに比べた時、孔子の弟子たちは正しく弟子でありました。今、師匠が語った言葉、普通に考えれば世間話にしか聞こえないような話ではあるが、じつは深遠な思想を含ませていたのではないか?
弟子とは、このような不安で胸をいっぱいにさせる人のことを言います。この不安が、弟子たちを駆り立てた。師匠のわずかな言葉も聞き漏らすまい、書き漏らすまい、と。今はただの雑談にしか聞こえない話だが、それは聞き手である私の理解力の問題であって、時が熟せば、師匠が雑談めいた言葉に籠めた、深遠な思想が分かる日が来るのではないか?
論語の雑然とした姿は、弟子たちが師の言葉を査定しなかった必然的帰結です。弟子たちの真摯な態度の反映です。ならば、かつての私が彼らを馬鹿な弟子と見たのは間違いで、むしろ、孔子は優れた弟子に恵まれたと言っても過言ではないことになります。
私が論語教室を開くわけ
さて、孔子の弟子たちが「今はまだ分からないだけで、いつか分かる日が来るのかもしれない」と思い、世間話の類いまで余さず書き留めた、論語という本の特異性を見てまいりました。
ここで私の方針について、一言します。私は弟子の末端に位置する人として、自分を位置付けようとする者です。孔子の弟子たちが願った「いつか分かる」は、二千年の時を経ても変わらぬ、後世に対する永遠の宿題ではないかと思っているからです。
それほどに論語は面白い。面白く読めるし、読むべき本です。でなければ、これほど長く読み継がれるわけがありません。
この考え方は、現代フランスの哲学者、エマニュエル・レヴィナスに教わったものです。最後にこの点を明記しておきます。
私は高校時点まで文学青年でありましたが、大学進学にあたって哲学を専攻しました。理由は、文学がもたらした感動の過剰を論理で制御する必要を感じたからです。そこでレヴィナスと出会い、得られるものが多くありました。
レヴィナスは言います。聖典とは完全テクストである、と。これはむろん仮定の話です。一言一句完璧な本など、理性的に判断すればありえない。しかし、ある本を完全テクストとみなすことで、はじめて無限の意味が開かれる、ということがある。ある人のことを完全な師とみなすことでしか姿を現さない、その人間の深い味わい、というものがある。
言いたいことはお分かりでしょう。孔子の弟子たちがまさにそうだったのです。仁斎も。私もまた、孔子の弟子の末席を汚して、彼の魅力を最大限引き出し、皆さんにお伝えしたいと思っています。
肩肘を張らずお付き合いくださると幸いです。
終わり
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