私の論語教室 4.まあ天だね。
憲問第十四、第三十七章、「まあ天だね」を読み解きます。
【原文】
子曰、
莫我知也夫。
子貢曰、
何為其莫知子也。
子曰、
不怨天、
不尤人、
下学而上達。
知我者其天乎。
【書き下し文】
子曰わく、
我を知ること莫(な)きかな。
子貢曰わく、
何為れぞ其れ子を知ること莫からんや。
子曰わく、
天を怨みず、
人を尤(とが)めず、
下学して上達す。
我を知る者は其れ天か。
【現代語訳】
孔子がある時おっしゃった。
私を知る者はいないものだなあ。
弟子の子貢が言った。
どうして先生のことを知らないでしょう。
みんな知っておりますとも!
孔子がまたおっしゃった。
私は天を怨まなかった。
人を咎めなかった。
下から地道に積み上げて上達した。
私を知る者は、まあ天だね。
※
この章は、私個人の「ある愉快な思い出」と共にあります。まずその紹介からさせてください。
思えば今や大学入学からもう十五年、はるか昔のことになります。今も親しくする数少ない友人との、出会いの場面に遡ります。
入学当時、私はちょうど、稲垣足穂の「少年愛の美学」に熱中していたところで、友人との最初の会話も、その感想であったように記憶します。私からすれば友人も相当の風変わりな人間に思ったのですが、その友人の眼にすら、出会った頃の私は極めてエキセントリックな人間に見えたそうです。
それからしばらくして、私が紹介した本が、論語でした。むろん論語は「少年愛の美学」とは異なり、一見すると至極普通で有名な本ですけど、私の紹介で友人も興味を持ったらしく、私の本を手に取ってパラパラとページをめくっておったところ、あるページで手が止まった・・・その時でした。
「まあ天だねって何やねん!」
爆笑が周囲にこだまして、つられた私も腹がよじれるほど笑いました。後年、「あの晩を覚えているか」と尋ねましたが忘れていました。まあそんなものです。人の記憶は、それぞれの仕方で貯蔵されるものです。
さて、あの時どうして私たちはあれほど笑ったのか。「まあ天だね」が持つ「可笑しさ」について、十五年ぶりに考えてみよう、というのが今日の趣旨です。
改めて本文を見ますと、孔子は初ッパナから「可笑しい」ことを言っています。
この発言がなぜ「可笑しい」かと言うと、「孔子という人は、絶対にこんなことを言わないはずの人」だからです。理由は、「論語最初の言葉」にはっきりと書かれています。
本を開いた瞬間に出てくる、冒頭の言葉です。「いいか。立派な人(君子)というのはな、他人が己の価値を知らないからといって、怨まない人のことをいうんだぞ」と、堂々と宣言している。冒頭に置かれるほどですから、よほど大事にしていた信念と言って良い。これを言った同じ人物が、
と、嘆いている。いや、嘆くフリをしている。本気のわけがないのです。人に知られなくても怨まないと言うのですから。フリと申しましたが、この章の会話は「漫才」の形式に似ている、と私は見ています。孔子は明らかにツッコミを待っているのです。この場合の「正解」は、こうでしょう。
しかしながら、その場にいた弟子の子貢は、目も当てられないほど「不正解」の回答をしています。
おい、そうじゃないだろ!と、こちらがツッコミたくなる珍回答です。これが二個目の「可笑しさ」です。可笑しいのと同時に、可愛らしくもあります。文脈(日頃から孔子が説く君子の学)を忘れて、子貢は先生の嘆き(のフリ)を愚直に慰めようとしているのです。
孔子は、そんな健気な弟子の慰めには見向きもしません。スルーです。あくまで嘆くフリをしていただけですから当然です。ただし、この弟子の慰めは(ツッコミとしては不正解ですが)、期待通りの回答だったかもしれません。というのも、そこから孔子は、「己が最も伝えたいこと」を言う機会をつかむからです。
人に知られなくても良いではないか?己の価値が認められなくても良いではないか?私はそのことで、天を怨まなかったよ。見る眼がないといって、世間の人々を咎めもしなかったよ。私はただ、地道に学問を積み上げて来ただけなのだ。・・・ここで孔子は、「さっき嘆いたのはフリだよ」と笑って、意地悪く舌を出しています。やはり「人知らずしてうらみず。また君子ならずや」(学而第一)の孔子が、本当の孔子なのでした。
では、孔子がこの章で言いたかったのは、学而第一の焼き直しなのか?そうではありません。最後に新しい思想が、突然出現します。
天とは何か?このテーマをまともに取り扱うと、東洋思想の全歴史を解説しなければなりませんから致しませんが、とりあえず、人智を超えた存在、神に近いもの、と思っておきましょう。
今もなお、「お天道様が見ているぞ」という脅し文句は、「不道徳の行動の規制」として有効です。他人が見ていなくても天は知っているという観念は、それだけ日本人を含む東洋人の肌に染み込んだ、物の考え方なのでしょう。
でも、ここで孔子が持ち出してきた天は、私たちがふだん用いている現代的な用法とは、ニュアンスが少し異なります。孔子は言います。人が知らなくても構わない、私の努力と達成を、天は知っているだろうから、と。天はお見通しだから悪いことはしないでおこう、ではなく、天が知っているから他人の評価は気にしなくてよい、と言っています。天は不道徳を抑止するネガティブな観念ではなく、道徳を奨励するポジティブな根拠になっているのです。
したがって、この章の短い言葉をさらに要約するならば、「己の価値を知る者は天のみで充分だ」と、まとめることができます。すぐには呑み込めない、かなり難解な思想です。どうして充分なのでしょう?逆に、どうして天だけは知っている必要があるのでしょう?誰にも知られなくて一向に構わないのではないでしょうか?
四つのパターンに整理します。孔子は「天と人と我」の関係について、次のような価値観を持っていました。
1.天も人も知る我(○)
2.天は知り人は知らない我(○)
3.天は知らぬが人は知る我(✕)
4.天も人も知らない我(✕)
それぞれについて、孔子の真意を探ってみましょう。
一番目の、天と人が知る状態。天に価値を保証された我は、世間からも君子と見なされていて、善き政治を行います。世の中が安らかに治まる理想状態です。
二番目の、天は知り人は知らない状態。これは孔子の自己認識に等しい。世間が認めない以上は、善き政治を行えないものの、後世に伝えることならば出来ます。これはまさに、教育者として生涯を閉じようと決意した、晩年の孔子の心境です。
三番目の、天は知らぬが人は知る状態。これは最悪の状態とみなされています。なぜか?この状態にある人は、「人に己の価値を知られるために行動するから」です。絶対的な正しさを保証する天の代わりに、他人の評価や世間の風潮といった相対的な価値に、己を迎合させてゆくからです。中国にはこのようなタイプの人間を一言で表す、打ってつけの言葉があります。「曲学阿世」(学を曲げて世におもねる)です。このような輩には孔子も手厳しい。
たしかに、人に知られるために学問をする者は、流行に迎合して己の学問を平気で曲げることでしょう。
四番目の、天も人も知らなくて構わない、という状態。これはこれで、「頼れる者は我のみ」という、潔い態度のように思いますが、孔子は良くないと言います。なぜか?とりもなおさず、「我など頼りにならぬ」と確信しているからです。
これは、孔子が衛の国に滞在して、霊公の政治顧問をしていた頃のこと、淫乱の噂がささやかれていた南子(霊公の妻)に呼ばれて会見したことを、弟子の子路に責められた時の会話です。ここに、孔子の「我など頼りにならぬ」という思想が、端的に現れています。
現代語訳すると、こうなります。
現代の学者の多くは、この章の孔子を、性的なスキャンダルを追及されて、彼にしては珍しく慌てふためいていると解釈します。解釈者の品性が疑われる、まったく下卑た発想です。
孔子の言葉をしっかり味わいましょう。素直に読めば、彼は慌ててなどいないと分かるはずです。同じことを二度くりかえす所に、彼の慌てぶりを読み取るのはナンセンスです。大事なことは二度言ったって良いじゃないですか?
孔子はただ、またとない良い機会に、我が天に知られなければならない、そのわけを語っているだけです。孔子の発言の真意は、
ということでもありますし、また、
ということでもあります。
天、人智を超えた存在、この超越者は、孔子の行動を厳しく規制しています。この強制力に比べれば、信頼で結ばれた人間(子路)の失望など、大した問題ではありません。他人の目は、我(エゴ)の悪を防止するのに充分な防波堤ではありません。
このような超越者を想定しない限り、我(エゴ)が孕む悪への可能性を除去できない。これが、孔子が天を必要とした理由です。天は素朴に実在するものではなく、孔子によって存在するように要請されたものでした。積年の人間観察によって形づくられた、「我など頼りにならぬ」の認識は、それだけ過酷なものでした。
「私を知る者は、まあ天だね」などと、呑気に語ってみせているのも、孔子一流のフリです。二千年以上経ってもなお、私たち弟子はツッコミを入れなければならない。
その時、孔子は重く閉ざされた口を開いて、何かを語り始めるでしょう。私たちは孔子の口を割らせないとならない。それが弟子の仕事です。孔子は対話、いや、「漫才」の続きを望んでいます。
終わり