ぼくの奮闘記が一冊の本になるまで
こんなぼくが、世の中に本を出すことになった。誰でもできることではないことに挑戦させてもらっているからには、とことんまでいくぞ。このコロナ禍で、ドラマや映画がどんどん延期になっていくなか、この本は予定どおり出版した。諦めわるくアクションを起こす姿勢をみなさんにお見せしたい。こんな今だからこそ、伝えられることがあると思っている。
中須俊治ってこんな人間です
小学校では蛇口をひねればお茶が出てくる京都・宇治に生まれた。青色と赤色の蛇口があって、青は水が出てくるのだが、赤は温かいほうじ茶が出てくる。それが普通と思っていたから、どこかの飲食店で赤色の蛇口からお湯しか出ず、店員さんに「お茶っ葉きれてます」と言いに行って恥をかいたことを書きながら思い出した。
幼稚園のときは少しイキっていたこともあって、自分のことを「オレ」と言っていた。しかし小学校に入学して引っ込み思案になってしまい、自分のことを「ボク」と言うようになった。基本的にそれからぼくはあまり変わってないので、ずっと自分のことを「ボク」と言っている。したがって、引っ込み思案のままアフリカ大陸と日本を往復して会社をやっていることになる。
ぼくたちの会社は、トーゴ共和国のエウェ族の職人と京都の職人をつなげる仕事をしている。アフリカ布のなかでも、エウェ族独自の発展を遂げてきた高級布がある。それはかつて王様に献上するものとしてあって、しかもその生産現場にはいろんな人が集っているから、この多様性の時代にもってこいだ。それをパリコレクションにも作品をおさめている京都の職人技と重ねて、ぼくたちならではのテキスタイルを制作してものづくりをしている。その商品を企画、販売するだけでなく、その商品が出来上がるまでのプロセスを体感できるサービスを展開しているのが「AFURIKA DOGS(アフリカドッグス)」という会社なのだ。そんな会社の、ひとまずは代表として頑張っている。
本をつくることになるまで
ぼくとアフリカ大陸との出会いは大学生のときだった。日本独特の新卒一括採用の就職活動の仕組み、「シューカツ」に嫌気がさして逃げた。企業説明会で「グローバル人材」を求められているのに、シューカツ自体がガラパゴス化していることに違和感をもっていた。とりあえず就職人気ランキングの高い企業の面接を受けて、ぼくは適当なことを言っているのにジャンジャン内定が出た。そんななか、ふと、みんなにとっての正解が自分にとっての正解とは限らないと思い、自分なりの正解を求めてシューカツから脱出して向かった先がアフリカ大陸だった。
1年間の休学届を出したとき、どうせなら日本人がだれもいないところへ行こうと思った。南米か中東かアフリカ地域で行き先を探していたら、多くの国で教育系のボランティアや経済的な自立支援のプログラムを提供しているなかで、トーゴ共和国だけ、なぜかラジオ局のスタッフを募集していた。その聞いたことのない国は、調べると世界最貧国のひとつで、公用語はフランス語、在留邦人はわずかに2人だった。よくわからないところで、よくわからないことができると、学生時代のぼくのテンションはあがった。片道切符を手に入れて、ぼくは海を渡り13,000km離れたトーゴ共和国での生活をスタートさせた。
そこは日本人どころかアジア人すらいないような地域ということもあって、ぼくが到着するや否や、ものすごい人だかりができた。フランス語はもちろん、英語も話せないぼくは、旅路で知り合ったタクシーのおっちゃんに現地語を教えてもらったことをきっかけに、できるだけ現地語であるエウェ語をつかうよう心掛けた。はじめてみる人種の若造がエウェ語を話しているのが地元の人たちには滑稽にみえたらしく、そのことが瞬く間に広がって、ぼくは破竹の勢いで友だちを増やしていった。
ぼくの友だちは個性的な人が多くて、エスカルゴ職人やジャンベ奏者、魔術師など多様すぎると言ってもいいくらいの愉快な仲間たちに溢れていた。ある日、ぼくの友だちが集団リンチを受けた。被害を受けた友だちはダウン症だった。現地の宗教観から、ダウン症の人は呪いがかけられていると信じている人が一定数いた。そしてその呪いを解こうと、暴力をはたらく人がいた。
ぼくは目の前で繰り広げられる暴力をまえに、なにもできなかった。一方で、それを阻もうとする友だちとも出会った。彼は「みんなが笑って過ごせる世界をつくりたい」とぼくに訴えた。最貧国に住む青年が、お金持ちになることでも、家や車を買うことでもなく、友だちが笑って過ごせる世界を夢みていた。学生時代のぼくには衝撃的なことだった。
ぼくは彼に、またアフリカに帰ってくると約束した。それがそのときできる、精いっぱいのことだった。それから6年後、ぼくは彼との約束を果たすために再びアフリカ大陸へ向かうことになる。
学生時代のアフリカ体験は、ぼくに強烈な記憶を残した。それが色褪せないように、ぼくは現地での生活をできるだけ細かく日記に書いた。毎朝のカフェオレに癒された日々のこと、料理が辛くてずっとお腹を壊していた日々のこと、そして現地で出会った素晴らしい人々のことなどを赤裸々に綴った。いつかくじけそうになったときに読み返せるように、帰国後はそれをライブドアブログ(それが今の「トシハるメモリアル」である)に書き写した。すると、いくつかの有名な出版社からオファーがきた。
当初、ぼくは快諾して原稿を書き進めていた。しかしいつのまにか既定路線のシナリオに修正を迫られたり、なかったことをあたかもあったことのように書かされそうになったりして、ぼくは気が滅入っていた。そして有名出版社に出す原稿よりも、大学に出す卒業論文のほうが、当時のぼくには価値が高かったということもあり、出版の話を丁重にお断りしたのだった。
卒業論文が優秀論文として表彰され、めでたく大学を卒業したあと、ぼくは地元の信用金庫に勤めた。グローバルの意味はわからなかったが、大切なことは言語スキルよりも、いかに地域の人たちと関係を築いていくかということではないかというのを、アフリカの生活をとおして体感していたのだ。学生からサラリーマンへと飛躍したぼくは、営業を担当していたエリアで京都の職人技に触れ、アフリカと京都の文化を融合させることで面白い展開にもっていけないかということを思いつき、勢いあまって会社を飛び出してしまった。
クラウドファンディングで仲間とお金を集めて、人生2回目のアフリカ大陸へ向かい、かつて約束を交わしたトーゴ共和国に降り立った。マルシェをまわって調査しながら、駆けずり回って素材を調達し、スコップを握りしめ日本初の現地法人を設立した。仕事をつくっていかないといけないので商品開発に着手して、トーゴで買い付けた布を京都の職人の工房へ持って行き、ぼくたちオリジナルのテキスタイルをつくった。
本をつくることになったのは、そんなときだった。関西を中心に、いろんなところで話す機会をいただいていたとき、たまたま会場に来ていたのが烽火書房の嶋田くんだった。共通の友だちが何人かいて、同い年の彼とは、ほとんど対極の人生を歩んでいたけれど、なんの偶然か、このとき遭遇して、そして気がつけば一緒に本づくりをすることになっていた。
ぼくは起業して2秒くらいで、絶対にこれは一人ではできないと悟った。だから一人でも多くの仲間が必要だと思った。「AFURIKA DOGS」の「DOGS」はアフリカの一部地域でつかわれる「仲間」を意味する俗語で、泥くさくて人間くさい仲間をたくさん集めたいぼくの気持ちを表現している。嶋田くんと出会ったとき、ぼくにはまだ布しかなかったけれど、心強い仲間がいれば遠くへ行けると確信していた。だからいろんな人に知ってもらえるように、ボンヤリと、本をつくりたいと思っていた。
そうして思っていると招かれるもので、いわば嶋田くんはぼくが招いたみたいなところがあるのだ。彼と出会ったとき、とても印象に残っているのは、当時、彼が手掛けていた絵本の話で、タコがイカに恋をするラブストーリーだった。そのセンスに、ぼくは惚れた。本づくりがどれほど険しいものかを、このときは知る由もなかったが、彼とならいい作品ができそうだと直感した。ぼくはこれまで直感を大切に生きてきたから、彼との出会いは偶然だったかもしれないが、本づくりをすることになったのは必然だった。
一年をかけた『Go to Togo』制作
これまで本を書いたことのない人が書くことになったとして、最も大変なことは書くことである。当たり前のことのように思われるかもしれないが、マジでこれに尽きる。書くのが死ぬほど大変だった。当然のことながら、ぼくは本を書くことを本業にしていないから、仕事をしながら書くことになる。しかも、その仕事もこれからつくっていく最中にあったから、スタートアップの激動期に執筆に追われるという、ちょっと意味のわからない事態に発展していた。
トーゴの現地民族の職人と京都の職人がコラボレーションしたテキスタイルで商品をつくり、それをもってフランス・パリへ向かった。その機内でも、ぼくはスマホをフリックさせて原稿を書いていた。フランスついでにもう一度トーゴへ入るときも、ぼくは書いていたし、トーゴ出張中も、赤道近くの炎天下で、火照る体にムチ打って、ぼくはせっせと書き続けていた。
ほとんどのことが三日坊主になってしまうぼくが、1年にわたって書き続けることができたのは奇跡と言っていい。そうして書き続けたぼくから、これから本づくりをしてみたいという人に、なにかメッセージがあるとすれば「話すように書けばちょっとマシやで」ということだ。書いていて気づいたことのひとつは、書くことと話すことは違うっちゃ違うけど、同じっちゃ同じということだ。ぼくの場合、書いてるときと話しているときの脳みその動きは、おそらくほとんど同じだ。だから話すのが好きな人は、けっこう書けると思う。
ぼくは高校時代に腹がよじれるほど笑わせてもらった友だちがたくさんいて、テレビでは味わえないような、ものすごいローカルなユーモアに親しんできた。学生時代は夏休みのほとんどを高校時代の友だち・えーちゃんの家で過ごしていて、朝がくるまで笑いに貪欲に挑戦できる(?)稀有な環境があった。そこで培われてきたユーモアを、あなどってはいけない。なにを隠そう、ぼくの笑いは高校時代からアップデートされていない。どちらかというと、ぼくは仕掛ける(やらされる)タイプだったこともあって、そういう意味で、話すことは得意ではないけれど、あまり抵抗はなかったのかもしれない。
そうして頭をひねって話すトレーニングが活きたかはわからないが、ぼくなりの「話すように書く」方法で、なんとか言葉を紡いでこれた。そうしていると、現地での描写も少しずつ豊かになっていく感覚もあった。ぼくは出張中、日記にちかいレポートを書くのを習慣づけているのだが、書くのに慣れてくると、いつものコーヒーの味わいも日によって変わってきて、表現のバリエーションが増えてくる。現地ではイモかトウモロコシかコメかスパゲッティくらいしか料理のレパートリーがないので、体力勝負のなかでは結構、ボディブローのように効いてくる。そんな中で、毎朝のインスタントコーヒーは五臓六腑に沁みわたり、日に日にコーヒーのありがたみが文章にあらわれたりもするのだ。
そうして話すことと書くことをうまく連鎖させながら進めてきた。基本的に現地に日本人はぼく一人なので、トーゴでのエピソードはぼくの独り言のようなテイストになっている。なので、もしかしたら現地にぼくと一緒に渡航しているような臨場感を味わえるかもしれない。ぼくが体で感じた、お腹が痛いとか、うだるように暑いとか、出会えた嬉しさや別れの悲しさ、そうしたものを、ダイレクトにお伝えできると思う。引っ込み思案のぼくが挑戦するときの不安と、それを勇気に変えていく様子をまじまじと見ることができると思う。
そんな原稿を入稿して校正、再校、三校と続く過程で、ぼくは久しぶりに徹夜をした。編集の嶋田くんからは「ふつう著者はそこまでしない」とかなんとか言われたけれど、ぼくは著者であり、本づくりの制作者でもあるから、一言一句に責任を負う必要があると思っていた。「神は細部に宿る」を嶋田くんとの合言葉にして、隅から隅までチェックした。「言霊」というのが本当にあるかどうかはわからない。でも、ぼくの魂が、まだ出会ったことのない誰かの胸に響くように、できる限りの努力を重ねたつもりだ。
全体として、個人的な、とてもローカルなところで起こったことを中心に取り上げている。だからこそ抽象化できるし、いろんな人の人生に照らし合わせることもできると思う。『Go to Togo』が「トーゴへ行け」と言っているだけでなく、それぞれの人の挑戦を後押しする「Go」サインにもなっている。ぼくの直感は的中した。嶋田くんと、いい作品をつくりあげることができた。
『Go to Togo』3つの特徴
①内容もさることながら、ぼくたちは本そのものにこだわった。本を単純にテキストが印字されている「情報」と捉えれば、電子書籍でいい。しかしぼくたちは書籍業界に、ある種の挑戦をした。遠く離れたアフリカ大陸での価値観が反転するような出来事を表現するべく、本をひっくり返しながら読みすすめる、いわば体験型の書籍としたのだ。和書(日本でのエピソード)が縦書き、洋書(トーゴでのエピソード)が横書きであることからも、ひっくり返すことの意味を見出せる。
②表紙絵は、ひとふでがきの作家さんに依頼した。これまでのぼくのストーリーは、一本の線でつながっていること。ぼくが事業で扱う服は、一本の糸からこだわってつくっていること。そして商品の背景にはたくさんの生産者さんがつながっていることを想像してほしい。そんな絵をクラフト紙にのせて、トーゴの舗装されていない赤土の道を歩く鮮やかなアフリカ布を着た人たちが映えるように表現した。
③出版するのは「烽火(ほうか)書房」、弱くても、届くべき人に必要な時に届く烽火(のろし)のような本をつくりたいと意気込む嶋田翔伍、ぼくと同じ29歳だ。生まれも育ちも京都の、同い年の2人組が、それぞれが持てるものをすべて出しきって制作した。それもお互いにスタートアップの時期で、めちゃくちゃ大切なタイミングである。20代最後の挑戦だ。京都発、スタートアップの『Go to Togo』を世の中に送り出す。
これからの奮闘
このコロナ禍にあって、『Go to Togo 一着の服を旅してつくる』は予定どおり発刊された。ぼくは、これを読んでくださっているみなさんのコミュニティに「Go」したい。この本は、ベストセラーになることはないかもしれない。でも届けるべき人は必ずいると思える本だ。その人に出会うためには、これまでぼくが大切にしてきたローカルに足を運ばないといけないと思っている。その地域の、その人のコミュニティにたどり着けるまで、ぼくはアクションを起こし続けたいと思う。いまはオンラインで電波でつながることしかできないかもしれないけれど、いつか落ち着いたら、心でつながれるように、ぼくのDOGSを探しにGOしたいと思う。
★アフリカドッグス初のショップが西陣にオープン
AFURIKADOGS×Deabalocouture
(アフリカドッグス×デアバロクチュール)
https://afurikadogs.com/