愚兄賢妹 第1作『男はつらいよ』(1969年8月27日・松竹・山田洋次)
文・佐藤利明(娯楽映画研究家) イラスト・近藤こうじ
昭和四十四(一九六九)年三月二十七日、フジテレビ系放映のドラマ「男はつらいよ」が放送第二十六回目で、最終回を迎えました。演出はフジテレビのディレクターでプロデューサーも兼ねていた小林俊一さんです。寅さんが、ひと山当てようと、種違いの弟・川島雄二郎(佐藤蛾次郎)を連れ、奄美大島でハブ取りに出かけます。
鹿児島から乗り込んだ連絡船のデッキで、寅さんが「島育ち」を歌います。後に第四十八作『寅次郎紅の花』の茶の間のシーンで、リリー(浅丘ルリ子)がこの歌の悲しい物語を語り、歌う「加那も年頃〜」の、あの歌です。奄美大島に着いた寅さんは、さっそくハブを捕まえようと繁みの中に入っていきます。なんと、この最終回で寅さんはハブに咬まれて、死んでしまうのです。
テレビ版「男はつらいよ」は現存する第一話と最終第二十六話を収録したDVDがリリースされています。渥美清さんの、きつくネジを捲いたゼンマイ人形のような、キビキビとした動き、鮮やかな口跡は、テレビの前の視聴者を釘付けにしました。ハプニング、アンチ・タブーの時代とはいえ、香具師=テキ屋を主人公にしたドラマは、いろいろな意味で新しかったのです。
構成と脚本を手掛けていた山田洋次監督は、かつてぼくのインタビューに「(この番組は)ホームドラマなんですよ。そこに放浪者が出たり入ったりすることで、定住者の世界が際立つし、そのことによって、定住しない人たちの、喜びとか悲しみというものも出て来るのじゃないのか」という思いで、「放浪者と定住者」の世界を描いたと、話してくれました。
「愚兄賢妹」というコンセプトのなかに、寅さんとさくらという「放浪者と定住者」を描いたのが、「男はつらいよ」の世界です。寅さんとさくらは対称的でありながら、お互いに惹かれ続け合います。「放浪者は常に定住したいという憧れはあるし、定住者は常に旅立ちたいという憧れを持っている」と山田監督は、テレビドラマという限定された枠のなかで、「男はつらいよ」の物語を紡いできました。
テレビは回を追う毎に評判となり、少しずつ視聴率も上がり、当初一クール(十三回)の約束が、結局二クール(二十六回)となったとなりました。さらに一クール続きそうな気配となり、山田監督はある時、スタッフとキャストに「寅さんは奄美大島でハブに咬まれて死んじゃいます」と告げます。
その時、さくらを演じていた長山藍子さんは、ぼくのインタビューに「最終話に近い時に、やっぱり山田先生がいらして、静かに『寅さんは死にますよ』と、仰ったんですね。『奄美大島でハブに咬まれて死ぬんです』って仰って、『何で死ぬんですか? 何で死ななきゃいけないんですか?』と(私が)言って、だからその時のお稽古場は最終回でもないのに、もう蛾次郎さんなんか泣いちゃって、出来なくなっちゃったんです」と話してくれました。
しかし、山田監督は「寅さんという人間が、この時代に生きているというのは、ドラマの上であって、実際は、今の時代はそんなことは許されるような時代じゃないんですよ」と、寅さんの幕引きについて説明をしたそうです。
一九六九年の現代という時代の現実を見据えた作家の視点は、かくもクールだったのかとも思いますが、当時のことを考えれば、納得も出来ます。この年は、日本の、そして世界のポップカルチャー、政治、モラル、映画、音楽、あらゆるコトやモノが大きく変革をとげた年でもあります。
歌謡曲の世界一つとってもそうです。混沌とした状況のなかで、終わってゆくもの、そして始まっていくものが混在した時代でもありました。そうしたなか、極めてアナクロな寅さんが登場し、テレビでの役割を果たし終えたのが、衝撃の最終回ということになります。
ところが視聴者から抗議が殺到したことは、皆さんご存知の通りです。二十六話のドラマが続くうちに、スタッフやキャストだけでなく、テレビの前の視聴者にも、それぞれ車寅次郎という人物のイメージが醸成され、いつしか「みんなの寅さん」になっていたのだと思います。
「みんなが寅さんへの思いを抱いていてくれていた。愛してくれていた。今度は寅がこうするだろう、ああするだろうと、楽しみにしてテレビを見てくれていたのに、突然、作者が出てきて、主人公を殺してしまう、それはやるべきことじゃなかったことを、いろんな反響、電話とか手紙とかで知らされてしまったんです。」と山田監督。
監督は、作り手と受け手の関係性について「いろいろと考えさせられたし、そもそもぼくたちがドラマを作ったり、映画を作ったりするということが、どういうことなのかということまで考えるきっかけになった」とインタビューで、話してくれました。そこで、寅さんをもう一度映画で復活させようと、山田監督は思い至ったわけです。
その時、映画版のトップシーンは、江戸川に散る桜並木から始めようと思い立って、慌ててキャメラを担いで江戸川堤に出かけたそうです。しかし桜並木は昭三十九(一九六四)年頃には、開発のために切られており、昔語りとなっていました。あちこち探した挙げ句、水元公園の散り始めの桜を、一日がかりで撮影。この時、まだシナリオはおろか、映画化の企画も正式には成立していなかったそうです。この撮影を手掛けたのが、まだ助手だった長沼六男キャメラマンでした。
後に『学校』シリーズ(一九九三〜二〇〇〇年)や、『たそがれ清兵衛』(二〇〇二年)、『隠し剣 鬼の爪』(二〇〇四年)、『武士の一分』(二〇〇六年)の時代劇三部作で、山田洋次監督作品を手掛けることになる名キャメラマンです。長沼さんによれば、「とりあえず桜を撮る」ということだけしか決まってなかったとのこと。第一作のトップシーンの撮影助手だった長沼さんが、最終作となった第四十八作『寅次郎紅の花』のキャメラを担当されていることを考えると、不思議な感慨があります。
作り手の思いと、受け手の思い、さまざまな思いが結集して、昭和四十四年、寅さんは、映画で見事「再生」することとなりました。こうして映画『男はつらいよ』は、二十六年、四十八作続く、長大なシリーズとなってゆくのです。