『杏っ子』(1958年5月13日・東宝・成瀬巳喜男)
7月19日(火)の娯楽映画研究所シアターは、連夜の成瀬巳喜男監督特集。香川京子と山村聰の父娘の揺るがない愛、ダメ男・木村功との壮絶な結婚生活を描いた『杏っ子』(1958年5月13日・東宝)をVHS録画からスクリーン投影。
成瀬としては『あに・いもうと』(1953年・大映東京)に続く、室生犀星原作。昭和31(1956)年11月19日から、昭和32(1957)年8月18日にかけて、東京新聞に連載した長編小説。脚色は水木洋子。原作のエピソードを重ねながら、成瀬巳喜男らしい父と娘の愛情、義父へのコンプレックスから、どんどんダメ男になっていく木村功にクローズアップした壮絶な夫婦の闘い(一方的に夫が悪いだけなのだが)が展開される。
これまでも、成瀬映画には『浮雲』(1955年)の森雅之に代表される「女心を利用して、エゴむき出しになる」ダメ男が登場してきた。女性映画として、ヒロインの強さ、逞しさを際立たせるためにも、逆境としてダメ男との「くされ縁」が描かれてきた。上原謙、森雅之、伊豆肇といった二枚目スターが、妻や愛人の肉体、金銭にすがるパラサイトとしてのダメ男である。彼らは、大抵、戦前、戦中の栄光を忘れることが出来ないまま、戦後のショボクレ人生を無為に過ごしている。
さて『杏っ子』の木村功である。作家・平山平四郎(山村聰)一家は、疎開先で闇物質を扱う漆山すみ子(中北千枝子)と弟・亮吉(木村功)から、さまざな食料の恩恵を受けていた。亮吉は、大学出の電気技師で文学青年。ラジオ修理を請負ながら、貸本屋を開いている。人あたりも良く、平四郎の息子・平之助(太刀川寛)とも仲良く、長女・杏子(香川京子)もフランクに付き合っていた。
平山平四郎は室生犀星自身であり、杏子は娘・室生朝子である。原作は、私生児として生まれた平四郎が文学を志し、結婚して一児をもうけるまでが前半。後半は杏子が疎開先で知り合った男性と結婚し、DVに見舞われ離婚するまでを描いている。映画ではこの後半、昭和21年から数年間の物語が展開される。
疎開先の風景は、箱根仙石原でロケーション。杏子が自転車で颯爽と走るショットが前半にたくさん出てくる。年頃の杏子には縁談が絶えない。父の関係や親戚の紹介で、さまざまな男性が疎開先に手土産をもってやってくる。
藤木悠、土屋嘉男、そして疎開先でのテニス仲間・佐原健二。東宝特撮オールスターが順番に登場。自転車でサイクリングをするが、杏子の判断基準に合わないと「この先は、何もありませんわ」と引き返してしまう。で、役人の伊島(土屋嘉男)は、好感度が高く、杏子のお眼鏡にかなう。
さて、杏子と伊島が睦まじく自転車に乗っているのを、ジト目で見ていた亮吉は、「戦地で伊島の不潔な姿を見た」と杏子に思わせぶりに話す。この時点で、不在の人間のネガティブ印象になるようなことを言う亮吉の「下衆発動」に観客も杏子も気づかないのだけど。成瀬はここで亮吉の救い難い「下衆」をちゃんと描いている。
伊島に杏子を取られてはなるまいと、張り合った亮吉は、翌日、平四郎に「杏子さんを僕にください」と求婚。ここで平四郎は、娘かわいさのエゴ親父で反対していたら、このあとの悲劇はないものを、といつも思う。平四郎は独立自尊のリベラリストで、誰に対しても、その意志を尊重する人物。優しいといえば、優しいのだけど、同時に、なにがあっても自分たちの責任という厳しさでもある。
で、そんな父親に育てられた杏子は、芯が強く、我慢強く、ブレない。逞しい女性でもある。この映画の軸は、この杏子にある。彼女のブレない感覚、心が折れそうになっても、ちや母から受けた愛情を無駄にしない。その凛とした感覚が実にいい。確固たる自信や確信がなくても「私は、これでいい」の力強さ。
結婚して三年。亮吉の仕事は長続きせずに、家計は火の車。タケノコ生活を余儀なくされても杏子は泣き言ひとつ言わない。亮吉は「作家として身を立る」と、いつも机に向かっているが、その成果は出ない。しかし杏子は、亮吉のために原稿用紙を調達してきたり、夫の創作活動の環境を整える。しかし亮吉は、次第にコンプレックスを剥き出しにしてくる。自分の才能のなさを認めたくないので、そのターゲットを小説家として大成している平山平四郎と、その娘である杏子に向けてくる。逆恨みでしかないのだが、杏子は「それならあなたが成功して、父を見返せばいい」と。愛想を尽かすのではなく、あなたが成功したら、大口を叩けばいい、ときっぱり。これでは、亮吉はたまらない。次第に酒に溺れて、身を持ち崩してゆく。
杏子と亮吉が最初に所帯を持つのが、東京文京区の本郷6丁目、当時は森川町である。東大にほど近く、昔の風情を残している路地は、撮影当時とあまり変わらない。また平山平四郎の家があるのが、大田区馬込。実際に室生犀星が「杏っ子」を執筆したのは、馬込である。成瀬映画のロケ地を研究されている方のサイトで、雨が降る日、傘を差した平四郎と実家を訪ねてきた杏子が出会う石垣の道を特定されていた。大田区南馬込4-27あたりであるとのこと。映画のラスト、杏子が歩いていくショット、香川京子の左側の石垣がそのまま残っている。映画の風景は今も、そこにある。時層探検者にとって何より嬉しいこと。
さて、映画の後半は、杏子と家族の寛大さに比して、亮吉がどんどんと内省的になり、暴言を吐いてDV夫となっていく。これは見ていて辛い。何もそこまで、と思うほど、亮吉は自身のコンプレックスに苛まれて壊れていく。ストレスが溜まると、杏子は実家を訪ねて、ひととき羽根を休め、父親の愛情に心を休める。金銭的な援助はしないが、食べるものや身の回りのものを、一緒に「買い物」してくれる平四郎の優しさ。
印象的なキャラクターは、加東大介が演じた漂白の詩人・管猛雄。豪放磊落、あちこち放浪して、泊まるところがなくなると、平四郎の家の「食客」となる。一見、横柄な態度でふるまっているが、平四郎への恩義を忘れずに礼の心を持っている。その時、ちょうど亮吉は、食いつめて平四郎の家の離れに間借りしているのだが、管をパラサイト扱いして悪口雑言を浴びせる。その下卑た態度は、いつも再生を止めてしまおうかと思うほど。それでも管はピシャリと亮吉にことの本質を伝える。それがわからない亮吉は、管に説教されたのが面白くなくて、しこたま酔っ払って、深夜に、平四郎が丹精した庭を徹底的に破壊する。本当に、いい加減にしろ!と言いたくなる。
また、亮吉の友人で、脱サラして金融業を始めた田山茂を小林桂樹が好演。いつもの好人物でなく、金儲けに汲々としていて、どちらかと言うと「下衆」な部類。その田山が、しばしば亮吉の家にやってきて、杏子に絡む。無精髭を生やし、投資をしないかと儲け話を持ちかける。結局、亮吉は、この田山の金を遣い込み「落とした」と嘯き、大騒動となる。
こうした「世間の汚濁」と、平山平四郎とその家族の「リベラルさ」「精神の崇高さ」を対比していくのだが、実話の映画化であり、現実は厳しい。原作では杏子は亮吉との闘いに疲れ果て、また亮吉も自滅して、二人が離婚するまでを描いているが、映画は、杏子が亮吉との生活を続けていくことを示唆して、とりあえずのエンドマークとなる。